桜の記憶と黒猫の導き
春の終わりを惜しむかのように、街路樹の桜は、まだ枝先に名残の花を咲かせていた。
駅前から続く坂道を上りきった先──
「森の丘高校」の校門を、美琴は一人、くぐり抜ける。
桜木 美琴、2年2組。
入学からニ年以上過ぎたが、まだこの学園には馴染みきれていなかった。
――どうしてだろう。
人と話すことが嫌いなわけじゃない。
けれど、どこかで“壁”を感じてしまうのは、自分のせいだ。
「……はぁ」
小さく吐いたため息は、春風に溶けていった。
──今日こそは、ちゃんと話しかけてみよう。
そう思いながら、彼女はそっと教室のドアを開ける。
その日の授業は、いつも通りに過ぎていった。
けれど、美琴の胸の奥には一日中、妙なざわめきがあった。
(なんだろう……この感じ)
くすぐったいような、不安なような。
まるで、遠い昔の記憶が呼び起こされるような、そんな感覚。
──そんな中、帰り道の足が自然と向かったのは、あの“古い神社”だった。
駅から少し離れた住宅街の外れ。
人通りもまばらな参道の奥に、その神社はひっそりと佇んでいる。
「……来ちゃった」
美琴は小さくつぶやいて、鳥居をくぐる。
その瞬間──
ふわり、と風が吹いた。
どこからか、黒猫が一匹、ぴょこんと現れて、美琴の前を横切る。
(え……?)
まるで“誘う”かのように、黒猫は後ろを振り返りながら歩き出した。
「……待って」
気づけば美琴の足は、境内の奥へと自然と進んでいた。
石段を上った先、見上げるような古い拝殿。
苔むした屋根に光が差し込み、時間が止まったような静寂に包まれていた。
(綺麗……)
美琴はそっとスマホを取り出す。
でも、すぐに思い出す。
──参拝において、真正面から撮影するのは失礼に当たる。
神様への敬意を表すなら、端から、心を込めて。
美琴は拝殿の右端に立ち、軽く一礼してから、シャッターを切った。
そのとき──
カシャ。
「……え?」
画面に映った風景に、彼女は小さく眉をひそめる。
──黒猫が、写っていない。
確かに、すぐ目の前にいたはずなのに。
ぴたりとこちらを見ていたはずなのに。
(おかしい……)
スマホの画面をじっと見つめていると、ふいに背後でカラリと音がした。
驚いて振り返ると──
社殿の奥、しめ縄の張られた御神木が、風もないのにざわりと揺れた。
一瞬、空気が変わったような気がした。
(……なに?)
胸が高鳴る。怖いはずなのに、逃げる気にはなれなかった。
──ふと、風に舞った何かが視界をかすめる。
黒い羽。
(……羽?)
それは、鴉のものだった。
その瞬間、胸の奥に、ズキンと痛みが走る。
(っ……なに、これ……?)
膝がふらつく。
けれど、誰かに腕を支えられたような──そんな温もりを一瞬感じて、気づけば、その場にしゃがみ込んでいた。
そのとき、美琴は気づかなかった。
この瞬間、彼女の存在が“何か”を目覚めさせたことを──
そして、その何かが、ずっと前から彼女を“待っていた”ということを。
その夜、美琴は不思議な夢を見た。
夢の中──彼女は神社の境内にいた。
けれど、そこには見慣れた拝殿も、鳥居もない。
ただ、赤い桜が満開に咲き乱れ、夜の空を覆っていた。
静まり返ったその空間の奥、
ひとりの“影”が立っていた。
黒い髪、赤い光、そして寂しげな瞳。
その姿が誰なのか、わからない。
けれど、なぜか涙がこぼれた。
夢の中で、彼は何かを言おうとしていた。
でも、美琴の耳には届かなかった。
ただ、風が吹いた。
鴉の羽のような影がひらりと舞って、視界がゆがんで──
──目が覚めた。
目頭が濡れていた。
何も思い出せないのに、涙だけが止まらなかった。
そして、美琴はまだ気づいていなかった。
翌日、自分の前に“あの夢の影”が姿を現すことになるとは──
読んでくださって、ありがとうございます。
第1話では、物語の“はじまり”として、美琴の孤独と日常、
そしてそれを揺るがす“ちいさな異変”を丁寧に描かせていただきました。
彼女が訪れた神社。
そこで出会った黒猫と、見えなかった存在。
画面に映らなかった小さな違和感──
それらはすべて、“異界”と“日常”の境目に立つ彼女にとっての「入り口」。
この物語は、「目に見えるもの」だけで語れない、
“憑き物”という名の心の影を描いていきます。
美琴が無意識に引き寄せる何か。
それに呼応するように目を覚ました“封印”。
そして次回、彼女の前に現れる転校生。
ふたりが出会った時、
この物語の“歯車”は、音を立てて回り始めます。
続く第2話も、どうぞお楽しみに──