キャナット
わたしは小さい頃、うさぎと話すことができた。
〇〇
転勤族だったわたしは小学二年生が終わると同時に見知らぬ土地に引っ越した。転校は初めてだったので、新しい学校で友だちを作るのはとても大変だった。そんなわたしと一番初めに友だちになったのが、キャナットだった。
「おいお前」
何か聞こえた。
「こっちだこっち」
新しい学校の帰り道、裏庭を通って正門に向かおうとするわたしに声をかけたのが、キャナットだった。
「…え?」
声の方を向いてわたしの目に映ったのは、みすぼらしいうさぎ小屋。それはまばらに草の生えた裏庭の隅にあった。網には『キャナット』と、青色の文字でそう書かれている紙が貼ってあった。その小屋の中にいたのは、一匹の白いうさぎ。
「お前だよお前。初めて見る顔だな。最近ここに来たのか?」
「…うん?」
「なんでそんな暗い顔してんだ」
うさぎはわたしの目を見てしっかり口を開けて言葉を話していた。
「うさぎさんって、おしゃべりできるの?」
幼かったわたしは特に深い疑問を持たずに、うさぎの正面にしゃがみ込んでそう聞いた。すると、彼はひどく憤慨したようだった。
「俺の名前はキャナットだ」
うさぎが口にしたのは、網に貼られた青色の文字。
「キャナット」
「そう。お前は素直でいい子だな」
キャナットは笑った。うさぎって笑うものなんだと、初めて知った。
「前田葉名子」
「ん?」
「わたしの名前、前田葉名子」
「ハナコ。いい名だ」
キャナットはまた笑った。その笑顔につられて、わたしも笑った。確かその日は晴れだった。
それからわたしは、そのうさぎ小屋に通うようになった。
「キャナット、来たよ」
「おお、ハナコ。待ってたぞ」
放課後はうさぎ小屋に寄って帰るのがわたしの日課になった。通い始めて間もない頃は、うさぎ小屋がある裏庭からまだ田植えがされていない田んぼが見えた。
「どうだ?友だちはできたか?」
エサのにんじんを嬉しそうに受け取りながら、わたしに問いかけるキャナット。対して暗くなるわたしの顔。
「…まだ」
転校して二週間。わたしはいまだクラスメイトに話しかけることさえ出来なかった。
「そうか」
「…うん」
「…ハナコは、にんじんが好きか?」
唐突だったので、一度首を傾げたが小さく頷いた。
「…嫌いじゃない」
キャナットは深く頷いた。
「うん、偉い。小学生にしては珍しい。なら人は好きか?」
「…?お母さんとお父さんは好きだよ」
「ふむ、ならいい」
「なんでそんなこと聞くの?」
キャナットが言おうとしていることがわからず、わたしは素直に尋ねた。
「友だちが作れないやつは人が嫌いか、あと少し勇気を出せない奴だけさ」
キャナットがくわえたにんじんがだんだん小さくなっていく。
「人が嫌いなやつは、一生友だちなんぞできない。物好きがいたら別だが」
遠い目で呟くキャナット。どこか寂しそうなのは何故だろう。
「…どゆこと?」
キャナットの言うことはいつもよくわからなくて、だからわたしは尋ねることしか出来なかった。
「お前に友だちはできるってことさ」
「ほんと?」
キャナットはしっかりと頷いた。
「ああ本当さ。お前は友だち作りたいんだろう?」
「作りたい」
即答すると、キャナットは可笑しそうに笑った。
「なら大丈夫。俺と友だちになったんだから。ハナコならできる」
キャナットと話していると元気がわいてきて、なんでもできる気がした。彼の言葉は今でもわたしを勇気づけてくれる。
「大丈夫だよ」
キャナットが網を掴んでいたわたしの手に鼻を寄せた。暖かくて、こしょばかった。そしてその次の日の朝、わたしはとうとうクラスメイトに話しかけることができた。
放課後、わたしは飛び跳ねるようにキャナットのところに向かったのを覚えている。
「キャナット、キャナット!」
わたしはにんじんをあげながら今日の報告をした。
「キャナット!話せた!友だちできた!」
「本当か!やったな!」
キャナットはいつも楽しみにしているはずのにんじんに目もくれずに、わたしと同じくらいに喜んだ。
「挨拶したら挨拶してくれて、名前聞かれた!」
朝、決死の思いで隣の席の女の子に声をかけると、彼女は笑って挨拶をしてくれた。
「わたしと話せて嬉しいって!キャナットのおかげだよ!本当にありがとう!」
「どういたしまして、ハナコ」
わたしはとにかく嬉しくて、ずっとキャナットと笑い合っていた。
その友だちが出来た後、わたしの学校生活はあっという間に楽しくなった。友だちと遊ぶたびに仲良くなっていくのがとても嬉しくて。しかし友だちと遊ぶ回数に反比例して、キャナットと会う回数が減っていることにわたしは気づいていなかった。
田んぼに小さい緑の苗が植えられた頃、その日わたしは久しぶりにキャナットに会いに行った。
「キャナット!」
「おう、ハナコ」
キャナットは田んぼの方を向いていた顔をこちらに向けて、笑った。
「久しぶりだな、元気にしてたか?」
「うん、キャナットは?」
「俺も元気。最近は食べすぎてちょっと太っちまったかな」
「えっじゃあわたしのにんじん、いらない?」
わたしがしょんぼりしてそう言うと、キャナットは慌てて網に飛びついた。
「食う食う!友のプレゼントを断るなんて、男がすたるぜ!」
キャナットはいつも優しくて、面白くて。
「どうだ最近、楽しいか」
にんじんをかじりながら、キャナットが問うさりげない質問。わたしは素直に答えた。
「うん、楽しい!」
「そうか」
静かな裏庭に、遠くから聞こえる小学生たちのはしゃぐ声が響いていた。
「ねえキャナット」
「ん?」
「友だちっていいね」
それを聞いて、キャナットが食べるのを中断した。当たり前だと言わんばかりにふんと鼻を鳴らして。
「友だちっていうのは家族とはまた違う存在だからな。親とは話せない悲しいこと、恋の悩みや、秘めた本音なんかを気兼ねなく話せる。そばにいると落ち着く存在。それが友だ」
しみじみと話すキャナットに、わたしはつい口を挟んだ。
「でも、友だちでも気まずくなるのはあるよ。喧嘩しちゃった時とか」
友だちと喧嘩をしてしまい、数日間口をきいて貰えなくなったことを思い出して悲しくなった。そんな暗くなってしまった気持ちを吹き飛ばすかのように、キャナットは鼻で笑った。
「そりゃそうさ。本音で語り合っていれば食い違いもある。けど、それが友だちのいいとこでもある」
キャナットが言うことはいつも少しだけ難しかった。
「ふうん」
「まあ喧嘩するほど仲がいいっていう言葉もあるから、喧嘩は悪いものばかりじゃない」
わたしは曖昧に頷いて空を見上げた。オレンジと青が混ざり合った空。
「わたし、もう帰らなきゃ」
慌ててランドセルを背負い直して立ち上がると、キャナットの穏やかな声が聞こえた。
「ハナコ」
「ん?」
「もうひとつ忠告」
夕陽に照らされた、偉そうで、今思い出すと寂しげなキャナットの笑み。
「来るもの拒まず、去るもの追わずとは言うが、本当に離したくない友は、追え」
静かな風が吹いていた。幼いわたしは真意なんてわからなかったけれど。
「わかった」
ただ笑顔で答えると、キャナットは満足そうに頷いた。わたしが裏庭を去った後、夕陽はゆっくりと田んぼの向こうに沈んでいった。
田んぼの緑の草原の色が、だんだんだんだん深くなる頃。今でも、夏の風は切ない思いを運んでくる。
「やっほーキャナット」
「よう、ハナコ」
「にんじん、いる?」
「もちろん」
夏休みに入る前の、始業式の日。
「明日から夏休みなんだよ」
「ああ、そうらしいな」
「学校がお休みだから、キャナットにしばらく会えなくなっちゃう」
「そうだな」
稲が風に流される音が聞こえてきて、何故か何か言わなければいけないような衝動にかられたわたしは囁くように呟いた。
「今日いい天気だね」
「そうだな」
「明日も晴れるかな」
風が吹いて、キャナットの柔らかい毛がなびいた。
「…晴れるさ」
キャナットが言ったことはどれも嘘はなかったように思うけど、ただひとつだけ彼は嘘をついた。
次の日は、雨だった。
短い、今思い返すと長い夏休みの間、友だちと遊ぶのに夢中でわたしは一度もキャナットに会いに行かなかった。今でも思う。わたしはあの一か月の間、一日でもキャナットの所に行くべきだったと。
新学期、わたしは久しぶりにキャナットに会えるのが嬉しくて、少し早く家を出て朝のうちにうさぎ小屋へと向かった。
「キャナット!」
けれどそこにいたのは、キャナットではなかった。朝の爽やかな空気を纏い、うさぎ小屋の前に立って田んぼを見つめる背の高い人影。
「あれ」
わたしの声にこちらを向いたのは、見知らぬ男子生徒だった。驚いたわたしは思わずキャナットの名前を出してしまった。
「あの、キャナットは」
「キャナットはここにはいないよ」
「え?」
彼の話によると、どうやらキャナットは夏休みの間に体調を崩し、先生の家で療養しているらしかった。わたしは驚いて、そしてキャナットに申し訳ないような気持ちになった。
「…そうですか」
「君はキャナットによく会いに来るの?」
彼は穏やかに微笑んだ。それなのにわたしは責められたような気持ちになった。しかしその場ではおずおずと頷くことしかできなかった。
「…はい」
「よかった」
彼は静かにそう言った。
「君がいてくれたなら、キャナットは寂しくなかっただろう」
彼が見つめたからっぽのうさぎ小屋には、寂しさと虚しさが詰まっているように見えた。
「うさぎは寂しいと死んじゃうからね」
ぽつりと彼が呟いた言葉は、わたしにとってかなり衝撃だったように思う。キャナットがいなくならない保障なんてどこにも無かったのに。
沈黙を破るように、救いのようなタイミングでチャイムが鳴った。
「あ…」
「じゃあまたね、キャナットの友だち」
「え?あ、あの」
あまりにも男子生徒があっさりとその場を離れようとするので、わたしは意味もなくつい呼び止めてしまった。すると彼はそれを違う意味で受け取ったらしい。
「ああ、言ってなかったね。僕は六年の加藤。キャナットの友だちで、彼の名付け親だよ」
キャナットの名付け親は、それだけ言い残して去ってしまった。静かになった裏庭には、呆然とするわたしひとり。キャナットに無性に会いたくなって、彼の名前を呟いてみたけれど返事がかえってくるはずがなかった。
キャナットがうさぎ小屋からいなくなって一週間ほどして、放課後のうさぎ小屋に訪問者が現れた。
「こんにちは」
誰もいないうさぎ小屋の前でしゃがみ込んでいたわたしに声をかけてきたのは、キャナットの名付け親である男子生徒だった。彼はわたしとうさぎ小屋を交互に見てから口を開いた。
「キャナットに会いたい?」
わたしは迷わず頷いた。
「今からキャナット会いに行くんだ。よかったら君もおいで」
そう言われて彼に着いていくと、とある女の先生の車まで案内された。彼の話を聞くと、キャナットはその先生の家で預かられていて、その日は先生の家に行ってキャナットの様子を見せてもらうようだった。
「あなたが前田さんね。キャナットも二人が来ると喜ぶわ」
そう言って嬉しそうに先生は笑っていた。先生の車の中でわたしはキャナットがもうかなり年だということを聞いた。それはつまり、キャナットの寿命はすぐそこまで来ているということだった。
先生の家のリビングに、キャナットはいた。リビングに入るとすぐにゲージの中のキャナットと目が合った。
「キャナット!」
「キャナット、よかった」
わたしと彼を見たキャナットは、心底驚いた顔をしていた気がする。先生はゆっくりしていってねとわたしたちに言って、リビングから出て行った。
「キャナット、久しぶり」
「キャナット、元気だったか」
わたしと彼が話しかけても、キャナットは何も言わずにただこちらを見つめるだけ。何故かいつものように返事をしてくれない。しばらく沈黙が続くと、隣にいた彼がすっと立ち上がった。
「…僕ちょっとお手洗いに行ってくるよ。しばらく二人で話しておいて」
そう言ってさっさと彼はさっさと部屋を出て行った。そうしてリビングにキャナットと二人きりになると、懐かしい声がゲージから聞こえてきた。
「シュウヘイと来たんだな」
「キャナット!」
わたしがゲージを見ると、キャナットが微笑んでこちらを見ていた。
「よお、ハナコ。久しぶり」
「キャナット!心配したよ」
「悪い、俺もこんなつもりじゃなかったんだがな」
キャナットの声を聞いて、泣きそうになるとキャナットは呆れたような声でこう言った。
「おいおい、女の涙をこんなところで使うなよ」
「だって…」
「俺は大丈夫だよ。ちょっと夏バテになっただけだ。すぐに学校に戻るから」
自信満々にそう言ったキャナット。きっとそれは強がりでしかなかったのだろうけど。
「約束するよ」
「約束?」
「うん、約束」
キャナットとわたしが小さく笑い合ったのと同時に、リビングの扉が開いた音がした。キャナットの小さな瞳が揺れた。
「シュウヘイ」
その声にはっとして振り返ると、彼が優しい表情でこちらを見ていた。
その後先生の家から歩いて帰ることにしたわたしと彼は、夕陽に向かって歩いた。
「キャナット、わりと元気で良かったね」
「あ、はい」
遠くで数羽のカラスが鳴いた。
「…ねえ、君はキャナットの声を聞いたことある?」
わたしは返事に戸惑った。沈黙に、二人分の足音が静かに響いた。彼は困ったわたしの返事を急かすことなく、静かに話を続けた。
「僕は、昔聞いたことがあるんだ」
昔、と彼は言った。表情を伺おうと見上げると、彼は夕陽を見るように眩しそうに目を細めていた。
「低学年の時、なかなか友だちができなくてね。実は、キャナットが一番最初の友だちだったんだよ」
その話はなんだか身に覚えがあった。わたしはただ彼の言葉を待った。
「まあ僕自身、人があまり好きじゃなかったんだけど」
そこで思い出した。キャナットが言っていた話を。あれは彼のことを言っていたのだ。
「…人、嫌いなの?」
「昔のことだよ」
彼はわたしを見てにこりと微笑んだ。わたしはキャナットのことを思い出していたけれど、それはすぐに彼の言葉に遮られた。
「よかったら、僕と友だちになってくれない?」
それは、数か月前にわたしがキャナットに貰った勇気を振り絞って口にした言葉だった。反射的にわたしは首を縦に振っていた。
「ありがとう」
彼の嬉しそうな笑顔。しかしキャナットの言葉を思い出してしまって、わたしって物好きなのかと少し複雑な気持ちが沸いた。
「改めて自己紹介するね。僕は加藤秀平。一年の時にキャナットの名前を付けた名付け親です」
「わたしは前田葉名子です。キャナットの友だちです」
シュウヘイを真似て、わたしも自己紹介をした。
「ハナコちゃんか。いい名前だ」
そう言ったシュウヘイの顔は、同じことを言ったキャナットの笑顔によく似ていた。
「キャナットと仲良くしてやってね」
そう言ったシュウヘイの髪は、夏の風にさらさらと揺られていた。それからシュウヘイはわたしを家まで送ってくれて、夕陽を背にして帰っていった。
それから一週間後、うさぎ小屋にキャナットが帰ってきた。
「不思議ね。前田さんと加藤くんが来たあと、途端に元気になったの。けど、多分もうあまり長くないでしょうから、できるだけ優しくしてあげてね」
廊下ですれ違った女の先生は、そんなことを言っていた。
「キャナット!」
「あ、ハナコちゃん」
放課後うさぎ小屋に飛ぶように行くと、すでに先客がいた。シュウヘイはうさぎ小屋の前でしゃがみ込んでキャナットににんじんをあげていた。元気なキャナットを見て、わたしは泣きそうになるくらいに嬉しかったのを覚えている。
「キャナット、元気?」
「うん、今はね」
シュウヘイは優しくキャナットを見つめていた。きっと彼も先生の話を聞いたのだと思った。
「キャナット」
わたしが声をかけると、キャナットが微笑んだ気がした。その笑みは今まで見た中で一番弱弱しく、胸が痛んだ。
「大丈夫だよ」
するとわたしを気遣うようにシュウヘイが声をかけてくれた。
「キャナットは簡単にくたばらない」
するとキャナットはなぜか憤慨したように足をパタパタさせた。
「何?それは自分で言いたかったって?」
シュウヘイがからかうように笑う。シュウヘイとキャナットはまるでお互いの気持ちがわかっているかのようだった。
「兄弟みたいだね」
そう言うとキャナットは怪訝な、シュウヘイは面白そうな顔をした。
「正確には親子だね。僕名付け親だし」
「じゃあキャナットが子どもなんだね」
シュウヘイとわたしは顔を見合わせて、はじけるように笑った。キャナットは不貞腐れたようにもぐもぐとにんじんにかじりつき始めた。
それから長い時間、もしかしたら短かった時間。わたしとシュウヘイはいろいろなことを話した。キャナットは会話に口に出すことはせずに、ずっと大人しく話を聞いていた。
「ーーそうだ、僕これから塾があるんだった。ごめん、ハナコちゃん。キャナット。これで失礼するよ」
夕暮れの空を見上げていたシュウヘイが唐突にそう言って立ち上がった。わたしが驚いて見上げると、シュウヘイはキャナットを真っ直ぐに見ていた。
「また明日の朝に来るから。それまで」
少し悲し気に微笑んだシュウヘイ。きっとその時シュウヘイとキャナットはわたしには聞こえない言葉を交わしていたのだろうと思う。
「じゃあ、またね」
その時のわたしは、シュウヘイがわたしとキャナットをふたりきりにするために去ったなんて知らない。
「…ハナコ」
「キャナット!」
シュウヘイが見えなくなってから、キャナットの声がして驚いた。
「なんで今まで無口だったの?シュウヘイとも話せばよかったのに」
「あいつにはもう俺の声は聞こえないんだ」
わたしが言い終わる前に耳に届いたキャナットの声。思わずわたしは固まって、キャナットは自嘲気味に続けた。
「全部が変わらないままでいられるわけじゃないからな」
それはシュウヘイのことか、わたしのことか、それとも。言い知れぬ不安に駆られ顔を歪めたわたしを見て、慌てたようにキャナットは言葉を繋げた。
「だ、大丈夫!変わらないものもあるから!」
「…例えば?」
「え?ああ、えっと…例えばだな…」
口から出まかせだったのか、途端に慌てるキャナット。うんうん唸るキャナットがなんだか可愛くて、わたしは小さく笑った。すると噛みつく勢いでキャナットがわたしの目の前まで突進してきた。
「そう、それだ!」
「え?」
「今、ハナコが笑った!それはもう、一生変わらん!」
「…ええ?」
まるで宝物を見つけたような子どもの目。
「探せば変わらないものなんてたくさんあるよな、うん」
まるで自分自身に言い聞かせるようにキャナットが呟く。
「じゃあ、わたしとキャナットが友だちってことも、もうずっと変わらない?」
一瞬キャナットの動きが止まり、少ししてじんわりと噛みしめるようにキャナットが笑みをこぼした。
「…ああ、そうだ」
「えへ、そっか」
優しい風が静かに吹いた。
「…ハナコ、今楽しいか?」
「うん、もちろん!」
笑ったわたしを見てキャナットはホッとしたように息をついて、真っ直ぐ視線を据えた。
「そうか。ならひとつ約束してくれるか?」
「うん、なに?」
軽い約束だと思った。きっと、いつものキャナットの軽口だと。
「これからも、楽しく生きろ」
太陽がオレンジ色になって、キャナットの顔を照らしていた。瞬間、わたしとキャナットの間を風が吹き抜けた。
「楽しくやろうと思えば、世界は割りと簡単に鮮やかになるんだ」
今までで一番優しいキャナットの瞳。
「俺は、楽しかった」
独り言のように満足げに呟いて、キャナットは笑った。それは、まるで、お別れの言葉のように聞こえた。
「シュウヘイにも、言っておいてくれないか」
キャナットは、まるでもういつお別れするのかわかっているかのようだった。
「…うん」
言葉と共に何かが目からこぼれ落ちたが、キャナットから目が離せなかった。そんなわたしを見て困ったようにキャナットは口を開いた。
「待て、もうひとつ約束してくれ」
返事が出来ずに鼻をすすった。キャナットは苦笑いをした。
「女の涙はそんな簡単に使うな」
「…う、うん…うん…」
しかし返事をする間も、わたしの目から雫が零れ落ちていった。するとわたしたちが話し終わるのを待っていたかのように、学校のチャイムが鳴った。
「下校のチャイムだ。ほら、帰れ」
正直帰りたくなかった。キャナットと離れたくなかった。けれど、そう言えば涙が止まらなくなりそうで、わたしは強く唇を噛んだ。
「……うん」
目をこすってわたしは立ち上がり、キャナットを見つめた。キャナットもわたしを見つめていた。
「じゃあな、ハナコ」
「…またね、キャナット」
足元に目を落とすと、夕陽が長い影を作っていた。うさぎ小屋の中のキャナットにも影はできていた。キャナットはまだそこにいる。いるのに、どうしてこんなに寂しいんだろう。
「…キャナット」
「なんだ?」
今伝えなければ、もう一生無理な気がした。わたしは大きく息を吸った。そしていろんな思いをその言葉に込めた。
「だいすき」
キャナットは目を丸くして、すぐに細めた。
「俺もだ」
夕陽に照らされたキャナットは、嬉しそうだった。強く、しかし優しく吹いた風が田んぼの稲を揺らしていた。
次の日、朝早くにシュウヘイに看取られてキャナットが死んだと連絡があった。やたらと綺麗な晴れの日だった。
〇〇
目を閉じて耳を澄ますと、どこからか聞こえる気がする。わたしを諭し、励まし、元気や大切なものをたくさんくれた声が。
「葉名子」
名前を呼ばれて振り返ると、背の高い人影が側に立っていた。
「秀平」
わたしが名前を呼ぶと、秀平はにっこり微笑んでわたしの隣に立つ。
「静かだね」
「もう誰もいないからね」
秀平は背後にある校舎を眺め、目の前のうさぎ小屋に目を移す。わたしたちの声はしんみりと場に染みた。
「ここも無くなっちゃうんだね」
「ああ、全部取り壊すそうだよ」
時は流れ、わたしたちが過ごした小学校は少子化により廃校となり、この度取り壊されることになった。もちろん、裏庭のうさぎ小屋も。わたしと秀平は、全て無くなる前にもう一度彼に会おうとここに来た。
「変わってないね、ここ」
「そうだね」
あの頃と違うのは、彼がいないところだけだろう。静かな裏庭も、校外に広がる田んぼも、みすぼらしいうさぎ小屋も、変わってない。わたしは心地よい静寂を壊さないように静かに尋ねる。
「秀平、今楽しい?」
「もちろん、彼との約束を守らないわけにはいかないからね」
「…そうだね」
約束と聞いて、実は彼がいなくなってしまった日にさっそくひとつ破ってしまったことを思い出す。
「葉名子は?」
そう問われて、わたしは空を仰いで息を吸った。
豊かに実った稲が揺れる音がする。彼が眠る場所に立てられた板に貼られた青色の彼の名前が、秋の風に吹かれて踊っている。それらがたとえ全て無くなってしまっても、わたしと秀平は絶対に忘れない。
キャナットという、大事な大事な友だちのことを。
「わたしはねーーー」
二人分の笑顔がはじけて、夏の風が吹いた気がした。
わたしは小さい頃、うさぎと話すことができた。
今はもう昔のことだが、今もわたしは楽しく生きている。
【おわり】