おねえちゃんだいまおー
妹になりませんか?
陳腐ではないが、追い詰められた魔王の台詞としてはどうにも風変わりな言葉に違いない。
闇の玉座にしどけなく寄りかかった魔王ヘルヴァは、自らの首を獲らんと暗黒領域最奥部まで攻め上ってきた討伐隊の面々を見回し、前衛を張っている娘に目を止めた。
微かに首を傾げ、そして一言。短い言葉だけを投げかけると、反応を待つかのようにそれきり動こうとしない。
「戯言を」
討伐隊の誰かが嫌悪混じりに吐き捨てた罵りを他所に、魔王に見つめられた対象の若き勇者。中原諸国より合流したる『七竜殺し』セシリアは、僅かな戸惑いを見せつつヘルヴァを見つめ返していたが、此方も魔王と似たような仕草で小首を傾げ、小さくつぶやきを漏らした。
「……お姉ちゃん?」
「はい、お姉ちゃんですよ」
穏やかに微笑んで魔王が頷き、何気ない問答が終わりを告げる。
セシリアの返答がどういう心算だったかは、余人には永遠に分からない。
瞬間、討伐隊の眼前で、勇者セシリア・アートウィンドが割れた。
絶句し、小さく悲鳴を洩らした仲間たちの誰一人さえ手を伸ばす猶予もあらばこそ、まるで全身を映していた姿見が砕け散ったかのように、竜殺しセシリアは顔から四肢の末端までひび割れ、バラバラに破片が砕け散った。血と肉と皮膚と内臓、そして武装の変わり果てた色取り取りの破片と砂が床へと崩れ落ち、仲間たちが動揺し、喘いでいる眼前に、竜殺しの女剣士が立っていた石畳に今は全裸の魔族が佇んでいた。
宵闇を思わせる青紫色の肌、ねじくれた漆黒の角、闇色の瞳に浮かぶ金色の瞳孔。金属製の甲殻に鉤爪の如き先端の尻尾が鎌首をもたげる蛇の如く揺れていた。魔王ヘルヴァと同様の特徴を持つその女は、間違いなく魔の眷属。闇の娘の一人に違いなかったが、しかし、知己からしておぞましく感じられる程に、新たに現れた魔女の均整の取れた肉体と相貌は竜殺したるセシリアの特徴を色濃く受け継いでいた。
均整の取れた姿態に闇が意思持つ粘液のごとく足元から這い上がり、瞬く間に紅く蒼く脈動を繰り返す闇色の刃と鎧の形を形成する、と、元セシリア?の魔族は剣を構え直し、左右に居た旧知の仲間へと躍り掛かった。
魔王との問答から友人である竜殺しの変貌。そして変心して襲撃まで鼓動を一つ、二つ重ねただけの時だけしか経っていない。
セシリアの左右を守っていた二人は、事態の急変に心と体がついていかなかったのか。
氷の彫像のように固まり、棒立ちとなっていたところを人外の膂力に振るわれた漆黒の大剣に肉体を両断、身動ぎする間もなく即死したように見えた。
討伐隊の魔術師は、取り乱しはしなかったが微かに眉を顰めている。魔王の言葉とそれに続くセシリアの変貌に、ほんの僅かな力の脈動も感じられなかったからだ。
二言、三言の僅かな問答。いかに魔王とは言え、本当に真実それだけでセシリアを洗脳し、魔族へと変貌させたのか。或いは、セシリアを殺し、寄生型魔族が肉体を奪い取ったのやも知れぬ。
或いは、セシリアは既に魔に魂を売っており、討伐隊の面々を動揺させる為に魔王の玄室に踏み込んだタイミングで寝返って見せたのか。もしかしたら、本物のセシリアは当の昔に何処かで殺され、姿なり肉体を奪われており、今、この瞬間に絶望させる為の小芝居を打ったのやも知れぬ。魔に対して、人は幾ら疑っても疑い過ぎという事もない。
「総員、これより魔と言葉を交わすことを禁じる」
兎も角、魔法使いの宣告など、言われるまでもなかった。
表面の事象として選ばれたる十二勇士のうち、一名が寝返り、二人が戦死。討伐隊の残り九人。表面上の動揺は誰も見せなかった。ほぼ全員が既に衝撃から立ち直り、一瞬の遅滞なく瞬時に戦闘行動に移行している。
「他は、いらない。最初から欲しかったのは一つ」
優しげにさえ響き渡るヘルヴァの嘲弄など、誰も耳に入れない。
元々、セシリアに付き添う形のシノビと聖騎士、オボロとエラン・シール。中々に腕は立つ中原諸国の勇士ではあったものの、セシリア自体がかなり強引に討伐隊にねじ込まれた経緯もあり戦力外、とは言わないまでも、元から頼りにはしていない。正確に言うならば、頼りに出来なかった。彼女たちは、最初から北方の王と、ひいては北方の勇士たちにまで隔意を抱き、不信と猜疑の眼を向けてきていた。
家族を殺した竜を討伐し、セシリアの戦いは終わる筈だったとは聞いている。北方の王の一人が、ただ一人残った妹を人質に取るような形で攫い、魔王討伐隊への参加を半ば強要したとも。
初めて会った時から、セシリアの眼には絶望と自嘲の濁りが漂っていた。
中原諸国における人と竜との争いは、北方の妖魔戦争に劣らぬ凄惨なものだと聞いていた。
もはや、魔族よりも人を憎んでいたのかもしれない。多少でも人を見る目があれば、危ういほどに心が摩耗しているのは見て取れたのだ。
微かによぎった悔恨を打ち切り、頭の中で戦力計算を一から仕切りなおす。
討伐隊の全員。魔族と戦い続けてきた歴戦の勇士。怯えも恐れも既に超えている。人が生きたまま魔族の武具や家具へと作り替えられ、おぞましい魔獣や虫めいた人食いの魔獣、呻き喚く粘液へと変えられた光景など、幾度目にしたかも分からない。
親しいものや愛するもの、仲間が惨い最期を遂げた者も少なからずいる。自らが死よりおぞましい結末を迎える最後もあり得ると知り、なお、戦う覚悟を抱いている者たちだ。
「同情はする。が、死ね」
魔女の言葉を聞いてはならない。魔女と親しく交わってはならない。魔女に心許してはならない。全て【魔術】を行うものは炎によって浄化されなければならない。
セシリアは、そんなことすら知らなかったのか。知っていても如何でもよくなっていたのか。
僅かな問答で勇士を【転化】させるほどの魔導の使い手であるなど想像の埒外であるも一方、ヘルヴァより感じていた悪の霊気は確かに減じてもいる。
魔王の力も無尽ではないようだ。ほぼ実体を感じさせていた程に冷たく邪悪な霊気が、今は床を凍らせ、侵入者たちに白い息を吐かせつつも耐えられる程度には衰えていた。千載一遇の好機。それでも揺るがぬ強烈な気当たりは流石に魔王のうちでも指折りの古株。音に聞こえた練達の術者だが、此の侭、戦い続ければ勝ち目は大きいと勇者たちは踏んでいる。
幾人か、或いは過半が死ぬやも知れぬ。が、最古の魔王と引き換えであれば、その身を懸けるにやぶさかではない。
ヘルヴァ配下の魔界貴族と軍団は、数に勝る北方諸王国連合軍のなりふり構わずの猛攻に劣勢。
魔王が侍らせていた魔界騎士たちも別動隊に釘づけにされ、寝返ったセシリアも剣聖と膠着。
いまや魔王は古代の玄室に一人佇んでいる。千載一遇の好機だった。
剣聖という最強の切り札を切らされ、なお討伐隊には冷静さが残っていた。なんとなれば、全員が魔王討伐者。小は男爵から大は公爵まで、誰もが悪辣かつ狡知極まる魔界貴族と複数回を相まみえ、一度ならず滅ぼしている。
魔に堕ちた竜殺しと剣聖が交戦を開始。残り八名は間合いを縮めんと疾走、対する魔王ヘルヴァが祭壇の上にて耳障りな魔界言語で詠唱しながら背後に大きく漆黒の皮膜を広げれば、闇色の炎が壁に投影されたる魔王の影の彼方より迫ってくる。
神官が杖を掲げ、魔術師が強き護りの護符を握り、黒い炎が淡い光に包まれた勇士たちに襲い掛かった。
山を穿つほどの衝撃が暗黒の城塞を走り抜け、崩れ、石材が蒸発する。砕かれ、巨大な亀裂が刻まれたる魔王城の傷口から粘液と腐汁が噴出し、壁と柱と床たちが歯茎を剥き出し、口々に苦痛と罵りの金切り声を叫びだした。
人外の領域に至った九名の英雄、いずれも身を灼く痛みと熱に耐えきると、室内にちらちらと揺らめく黒炎を貫きながら飛来した魔王の尻尾を迎え撃った。光の軌跡を帯びながら暴れ狂う剣風と鞭のようにしなる尻尾が激突し、甲高い金属音が空間に破裂し、砕け散った壁に人を飲み込むほどの亀裂が生じた。闇に包まれていた玄室に地平の山脈から透明な曙光が差し込んだ。眼下の大地で戦い続ける数千、数万の人と魔の群れの激闘に奏でられる戦場音楽を背景に、魔王ヘルヴァが亀裂から飛び出し、大きく空へと羽ばたいた。
「魔界の炎に耐えるか。表層の小火とは言え少し驚きました。少しですが」
ヘルヴァがつぶやき、何を感じ取ったか。十を数える間に数百を超える剣戟を交わしていた魔人セシリアが飛び退って剣聖と距離を取ると、そのまま背後を見ずに跳躍。宙に浮かぶ魔王の腕へと抱きかかえられた。
セシリアを片腕に抱いたまま、ヘルヴァが空へ、空へ。同時に魔王を中心として高き暗雲が湧き始める。
不穏な気配を感じ取り、勇士の一人が舌打ちする。
「でかい魔術を使う心算か?」
「城諸共に俺たちを消し飛ばすとでも?地上では、奴の部下が戦っている」
「魔王が躊躇うかな?」
手短に議論を終えると、魔術師に問いかける。
「雷撃の術は?」
「風は使えぬ。この地は彼奴に永く支配され【魔】が馴染んでおる」
宙をゆっくりと飛んでいるヘルヴァが首を傾げた。それから何が可笑しいのか。
笑みを浮かべて城と距離を大きく開いた。
「今日は、引き分けにしてあげます」
告げて、そのままに離れていく。
一瞬、忘我したものもいた。幾人かは唖然と、或いは憮然として天空の魔王を睨みつけている。
「なにを」
「魔王が……逃げるのか」
ヘルヴァは、大地に向かって手を差し伸べると、鈴の音を鳴らすような美しい声で魔族の軍団兵へと告げる。
「戦いたいものは戦い、逃げたいものは逃げよ。
我は瞑骸城へと移るが、気が向いたら仕えに来るがよい」
魔王ヘルヴァのつぶやき。魔界語の歌うようなつぶやきでありながら、人を含めて誰の耳にも届き、誰にも理解できたその言葉を皮切りに妖魔の軍勢の大半が攻勢を緩め、潮が引くようにゆっくりと後退し始めた。見捨てたかのような君主の言に動揺しているのか、一部だが動きの鈍く、撤退の動きに取り残されて包囲される妖魔兵団もあった。
しかし、魔王は、困難に陥った配下のはずの軍団兵らに目もくれなかった。渡り鳥のように高く城の空で大きく円を描くと、裏切者の竜殺しを抱いたまま空に白い軌跡を刻んで彼方へと飛び去って行く。
討伐隊の一人が疑問を口にした。
「……本当に魔王は。魔王が逃げたのだろうか」
別の一人が大地で敗走している魔の軍勢を睨みつける。
「……して、どうする?下に合流して削っておくか」
「それもいいだろう。実際逃げたのであれば、だが。我らが力を使い果たした処に戻ってくると少し拙い」
その意見に顔を顰めるものもいれば、皮肉気に笑うもの、天を仰ぐものもいた。一人が不愉快そうに顔を背ける。
重苦しい沈黙が舞い降りていた。
少なくとも今回は彼らは生き残った。だが、勝利とは程遠い。戦いがこれからも続くだろう事を彼ら彼女らの誰もが承知していた。大地に響き渡る勝利の歓声とは裏腹に、厳しい顔つきのまま勇士たちは踵を返した。
暗黒の領域の上空、魔王ヘルヴァは思い返していた。先刻戦った勇者たち一人一人の力と技はただものではなかった。あれが9人。負けるとは思わぬ。けして思わぬが、いずれ劣らぬ恐るべき刺客であり、不覚を取れば一対一でも敗れかねぬ可能性を感じ取ってもいる。
魔王は尻尾を見た。竜の鱗をも抉る魔王の尾が僅かな攻防に何時の間にか深く切り裂かれていた。一本は切り落とされている。影に回収はしたが、繋がるには暫く掛かりそうだ。セシリアの肌にも複数の裂傷が刻まれていた。剣聖に刻まれた傷は、今も再生を阻害されている。
「なんという力量だろうか。人の身でありながら、よくあれ程に練り上げたもの……」
何かに想いを馳せるように淡々と呟きながら、ヘルヴァの紅眼は一瞬だけ遥か時の彼方を追憶していた。
「これほどに勝敗を予想できぬ敵手たちと相まみえたは、907年前。いや、1207年ぶりか……違う、あれらよりもさらに手強い」
勇士たちの術と力に素直に感嘆を示しつつも、ヘルヴァは厳しい戦いの予感を覚えていた。
「彼らはきっとわたしに追いついてくる。そして、次は逃げる隙など与えてはくれまい」
魔王の胸中に抱かれたセシリアが姉を見上げた。
「お姉ちゃん」
「いずれ、そう遠くないうちに彼らとはもう一度、相まみえるでしょう。誰もかれも、そういう目をしていましたから」
魔王ヘルヴァは、掌中に収めた魔界勇者の頬を撫でて微笑んだ。
「大丈夫、お姉ちゃんは負けませんよ。なぜなら、お姉ちゃんですから」
蒼肌、闇目、魔王娘、百合
性癖かな?