停留所
夕方、帰りのバスに揺られながら、少女はあくびを呑み込む。
(疲れたなぁ…)
少し部活で居残りをしたので、いつもより数本遅いバスに乗った。他に乗客はおらず、疲れと静けさと心地良い揺れに次第に瞼が重くなる。
黄色味を帯び始めた景色が流れていく中、少女はうとうとと微睡んでいた。
微睡みの中聞こえた声に、はっと覚醒する。
窓の外を見ると辺りはすっかりオレンジ色で、見覚えのない景色が広がっていた。
寝過ごした、と慌てて降車ボタンを押す。終点は隣町、その前に山を越えるので、乗り過ごすと途端に景色が変わるのだ。
やがて停まった聞いたことのない停留所で降り、少女は走り去るバスを見送った。
(……どこ…?)
降りた側は一面の田んぼが夕日に輝いている。反対車線側には山があり、空には少しずつ夜の暗さが混ざり始めていた。
少し心細くなり、ぎゅっと鞄を抱きしめる。
向かいの停留所には大きな木の真下にベンチがあり、その端に学生服の少年がひとり座って本を読んでいた。ベンチに括りつけられているのだろうか、少年のうしろに赤い風船がふわふわ浮いている。
(こんなところから乗る子もいるんだ)
そんなことを考えながら、とりあえず逆行きのバスを待とうと周りを見る。車は来ていなかったので、そのまま道路を渡った。
バスの時間を確認しようと思うが、時刻表の字が掠れていて読めない。仕方なく検索してみようとスマホに手を伸ばした時。
「少し待てば来るよ」
少年が顔を上げてそう言った。
急に話しかけられ、少女は驚いて少年を見る。
「あ、ありがとう」
なんの特徴があるわけでもない、どこにでもいそうな少年。見たことのない制服なので、もしかしたら隣町の子なのかもしれない。
「忘れ物?」
少女を見たまま、続けて少年が尋ねた。
「う、ううん」
「なら座れば?」
本に視線を戻しながら少年がそう言う。
少女は少し迷ってから、反対の端に座った。
向かいの田んぼの上の空はますます赤味が増し、こちらに来るほど暗さが混ざる。
真上の木の枝が、ざわりと揺れた。
「乗り過ごしたの?」
また尋ねられた少女は隣を見るが、少年は本を見たままだった。
バスを降りてすぐ反対側の停留所で待っているのだ。気付かれていて当然だろう。
「疲れて寝ちゃってて」
少し恥ずかしくなって少年から目を逸らす。視界の端、少年が顔を上げるのがわかる。
「疲れるくらい頑張ってるんだね」
かけられた優しい声が、じわりと胸に沁みた。
少年の優しい声につられ、ぽつりぽつりと少女は語る。
練習中にしたミスに納得がいかなくて、終わってから居残っていたらこんな時間になっていた。
部活の中でも上手い方というわけではないけれど、自分自身信じられないミスだった。
だから悔しくて、居残って練習していたのだ。
「最初っから普通にできる子もいるんだけど、私はそうじゃないから」
膝の上で握りしめた手を見ながら、少女が呟く。
「頑張って頑張って、それでやっと人並みだから」
そこまでしなければついていけない自分が情けなく。
そこまでしてもミスをする自分に落ち込んで。
そこまでやらなければ自分は皆に追いつけない―――どんなに頑張っても追いつくだけで精一杯だという事実に打ちのめされた。
頑張ることをやめれば置いていかれる。
頑張っても並ぶだけ。
そんな毎日に疲れてしまった。
話しているうちに込み上げてきた涙をこらえながら、少女は自嘲を浮かべる。
「…ホント。なんでこんなに頑張ってるんだろ」
どんなに頑張っても人並みの自分は頑張ることが当たり前で。何ができたと褒めてもらえることもないというのに。
視線を落としたままの少女。
そんな少女をじっと見つめる少年。
ふたりの上で、ざわざわと枝が揺れ動く。
ふっと、少年が笑みを深めた。
「それなら頑張ることは君が一番だね」
当然のことのように告げる少年に、少女は目を瞠り、勢いよく彼を見る。
何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
「そんなことっ…」
「僕はそう思うけどな」
優しく笑い、少年は本を閉じた。
「負けず嫌いで、努力家で。ちょっと自信がなくても諦めない芯の強さがある。そんな君を、僕は尊敬するよ」
「言い過ぎだって……」
恥ずかしそうに少年から視線を逸らす少女。
頑張った結果だけではない。頑張ること自体を認められた。
それが何よりも嬉しくて。
自分は間違ってないのだと。
そのままでいいのだと、認められた気がした。
じわりと胸に広がる安堵にも似た喜び。握りしめていた拳を解くと、まだ泣き出しそうな顔も徐々に緩んでいく。
自嘲が消えたその後に残る、未来への―――自分への希望。
瞳を細めて彼女を見つめる少年の唇が、僅かに動く。
かき消すような葉擦れの音。
音のないその声は、少女に届くことはなかった。
強い風が吹いたのか、頭上の枝が大きく揺れた。
少年が顔を上げる。
「ああ。もう来るね」
そう言われて見てみるが、バスは見えなかった。
「これ」
かけられた声に振り返ると、少年が手に持った赤い風船を差し出してきた。
(…あれ……?)
何かおかしい気がするが、それが何なのかすらわからない。
考え込む少女を引き戻すように、はい、と少年が赤い風船を近付ける。
「あの時返してあげられなくてごめんね」
(あの時…?)
抱いた疑問はすぐに泡のように消え。
どこか怪訝に思いながらも、少女は風船を受け取った。
真上の空にはもう夕闇が迫り、道路の向こう側の空も次第に明るさを失いつつある。
揺れ続ける木の枝はまるで何かを振り払うかのように、静寂と暗闇に沈みゆく中でざわざわと音をたて続ける。
直後、薄闇を割くようにバスのライトが道路を照らした。
その明るさに、どこかほっとする。
バスが停まり、扉が開いて。
赤い風船を手にバスへと乗り込もうとした少女は、少年がベンチの前に立ったままであることに気付いた。
「乗らないの?」
足を止めて振り返る少女に、にこりと少年が笑う。
「行き先が違うから」
「そっか。じゃあね、ありがとう」
バイバイと手を振る少女に、少年も微笑んで振り返す。
ふと、葉擦れの音がやんだ。
「元気でね」
瞳を細めた少年の顔はどこか誇らしげで、充足感に満ちていて。
「君なら大丈夫」
確信の籠もる少年の呟き。
話を聞いて励ましてもらったからだろうか、同年代だというのに包み込まれるような安堵感があった。
「うん。ありがとう」
もう一度礼を言うと、見返す瞳が少し揺らいで。
泣き出しそうだと感じた瞬間。
プシュウ、と扉が閉まった。
はっと目覚める。
夕方の眩しいほどの明るさに目を細めながら、少女は窓の外を見た。見覚えある建物を見つけ、寝過ごしてなかったとほっとする。
何か夢を見ていたような気がするが、全く覚えていなかった。
ただ、あれだけ落ち込んでいた胸の中が、今は穏やかに凪いでいる。
私は大丈夫。そう思えた。
やがて到着したいつもの停留所でバスを降り、少女は歩き出す。
家へのいつもの道程、近所の小さな公園の前でふと足を止めた。
小さなすべり台と砂場と鉄棒。奥に大きな木がある。
子どもたちがよくここで遊んでいたが、今は入口にオレンジ色のフェンスが置かれ、一枚の紙切れが貼り付けられていた。
『老木化による倒木の危険があるので
撤去完了まで立入禁止』
奥の大木には幾重もロープがかけられ、後ろの家屋の方へ倒れないよう前方へと引っ張られている。
その木に、どこからか飛んできたのだろう、赤い風船が引っかかっていた。
(ちっちゃい頃はここでよく遊んだよね)
もらってきた風船を飛ばしてしまい、あんな風にあの木に引っかかって泣いたこともあった。
(…切られちゃうのかな…)
思い出にある風景とはすっかり変わってしまっていたが、それでも懐かしく。
どうにか切られずにすめばといいのにと、そう思う。
ざわざわと枝が揺れるのをしばらく眺めてから。
迫る夕闇に背を向け、少女は再び歩き出した。
追いかけるように夕闇が辺りを包む。
ひたりと追い縋る冷たい闇に囚われながら、少年を象っていたものは己に残された赤い風船を見つめていた。
ずっと心配だった。
朝と夕方に前を通る少女。
いつからか足取りが重くなって、うつむいて帰ってくるようになった。
少女がここに来なくなってからもう随分と経つ。
小さな頃はこの周りを駆け回って、登ろうとして叱られていた。
春には花を見上げて喜んで。
夏には下で涼んで。
秋には落とした葉っぱを嬉しそうに拾い集めて。
冬には下に小さな雪だるまを飾ってくれた。
他にもたくさん来てくれる人はいたが、どうしてもその少女のことが気になった。
いつも一生懸命で。
負けず嫌いで。
頑張り屋で。
逆上がりができないと泣きながら、暗くなるまで練習していたこともあった。
ようやくできるようになった時の笑顔を、自分は忘れられないでいる。
成長してここに来なくなった少女だが、朝と夕方に前を通るのを楽しみにしていた。
しかしいつからか、少女から笑顔が消えていた。
自分はもうすぐここを離れなければならないのに。
もう少女を見守ることもできないのに。
うつむき歩く少女がどうしても心配で堪らなかった。
だから最期に。
自分の持つすべての力と引き換えに。
暮れる光の導きを借りて。
どうしても少女と話したかった。
光の導きを借りられるのはほんの刹那の時間だけ。
その僅かな時間に少女が入口にいなければ、そこへ来てさえもらえない。
導きを得るため既に削られたこの命。今まで以上に限りある時間。
間に合えと、ただ願う。
自分にできる最後のこと。
彼女のためにできること。
それさえ叶えば、後はもう―――。
切なる願いが通じたのか。ようやくその日が訪れた。
導かれる先で少女を待つ。
怖がらせないように、少女と同じくらいの姿になって。
じっと見つめてしまわないように、自然に目を逸らすためだけの、中に何も書かれていない本を持って。
暮れゆく光の道を通り、少女が自分と話せる場所まで来てくれるのを待っていた。
輝く光が少女を導く。
共にいられるのは闇に覆われるまでの僅かな時間だが、それでも嬉しかった。
やがて反対の停留所に少女が降りてきた。
不安そうな顔で辺りを見回してから、こちら側に来る。
ちゃんと自分は見えているのか。
ちゃんと自分の声が伝わるのか。
最初に声をかける時にどれだけ緊張したのかを、少女が知ることはないけれど。
少し気を許してくれた少女とふたりで話すうちに、彼女が何に悩んでいるのかを知った。
確かに自分の知る少女は何でもできる器用な人ではない。
しかし、諦めずに努力を続ける我慢強さと。
できないことに苦しくなっても、それでも前を向ける真摯さと。
それを併せ持つ彼女は、それだけで尊敬に価する人なのだと。
そう伝えたかった。
小さな頃から変わらない少女。
大人になっても、どうかこのまま、まっすぐな彼女でいて欲しかった。
自分の言葉がどれだけ彼女に響いたかはわからない。
しかし泣き出しそうだった彼女の表情が緩んで、うつむいていた顔を上げてくれた。
まっすぐ前を見据えるその瞳に、もう大丈夫だと思えた。
君は変わらないねと呟いたが、その声が届くことはなかった。
邂逅の時間はあっという間で。
最後にと、昔少女に返せなかった風船を渡す。
幼かった少女が手放してしまった赤い風船。あまりに高い位置で捕まえてしまって、彼女に返してあげることができなかった。
不思議そうにしながらも、受け取ってくれた少女の前に。
日の下へと続く最後の光がやってきた。
乗り込む少女に別れを告げる。
自分はもう、日の下へは帰れない。
元気でね。
ただそれだけを祈る。
そうして少女は光の道を通って帰っていった。
残された自分に闇が迫る。
新たな輪廻に組み込まれるための力まで使い果たした自分には、もう光ある世界に戻るだけの余力もない。在るべき場所に帰ることはできても、そこで闇に沈むだけだ。
でも、それでいい。
逃さないとばかりに絡まる闇を連れたまま、本来の自分がいるべき場所へと戻る。
違和感に気付いて己を見ると、彼女に返したはずの赤い風船を手にしたままだと気付いた。
どうしてこれがと思ったその時、少女が前を通る。
うつむいていなかったことにほっとしていると、少女は足を止め、じっとこちらを眺めていた。
変わり果てたこの姿を今認識したかのように、少し驚いた顔をしている少女。しばらく見つめてから、またまっすぐ前を見据えて歩き出した。
迷いのない瞳と足取りに、良かったと心から思う。
もう大丈夫。
そう信じ、目を閉じた。
足元から闇に絡め取られていく。
不快感も恐怖もない。ただ喪失感が満ち広がる。
ここで闇に沈む自分は何も残すことができなかったけれど。
それでも彼女が前を向くために、少しでも力になれたのなら。
それでいいと、そう思った。
不意に手を引かれた気がして目を開けると、その視界に赤い風船が映った。
暫し見つめ、笑みを浮かべる。
彼女の風船まで共に沈むことはない。
手を放そうとするけれど、糸が巻き付いて離れなかった。
早く。
這い上る闇から逃そうと手を伸ばすと、またその手を何かに引っ張られる。
驚き目を凝らしても、そこにあるのは赤い風船だけ。
空に昇ろうとするそれが、自分の手を引いていた。
引かれるままに身を委ねると、ふっと纏わりつかれる感覚が失せる。次いで覚えた浮遊感に、自分が風船と共に空に昇っていることを知った。
すべての力を使い果たした自分。あのまま闇に呑まれるのが理であるはずなのに。
見上げる赤い風船と懸命に頑張る幼い少女の姿が重なる。
ああ。自分は。
彼女の諦めない想いに救われたのだと理解した。
夕闇が辺りを包む。
大きく一度枝が揺れて。
やがて訪れた夜の闇に紛れ。
赤い風船が一つ、空へと昇った。
翌朝いつものように公園の前を通った少女は、驚いて足を止めた。
フェンスの向こう、大木が根元付近で折れて倒れていた。
ロープで引っ張っていたからか、真ん中の砂場に覆いかぶさるように横たわる大木。
まるで抗うことをやめたかのように地に伏せたその枝は、もう揺れることはなかった。
(倒れちゃったんだ…)
ここで遊んだ日々を思い出し、少し寂しさを感じていたが。
乗り遅れちゃう、と我に返り、少女は慌てて駆け出した。
読んでいただいてありがとうございます。
自分以外の方のプロットから話を作るのも、現実舞台も、番外編ではない短編も初めてです。本人が一番楽しんで書きました。
プロット通りではないところもありますが。ご愛嬌で…。
最初はもっとこう、シュッとしたものを書いていたのです。でも物足りなくて書き足すうちに二倍以上になりました。これでも私としては短い方ですが…。
また、お話を書く上で、自分の書きたい部分がどこにあるのか。それを今回知ることができました。
自分が暑苦しい奴だということも!
ここまで読んでくださった皆様と。
恐れ多くも今回こういった機会をくださった日浦海里様に。
最大級の感謝を込めて。