ごきげんよう
ハルが目を覚ました時、そこには誰もいなかった。
外の豪雨に、火が消えた焚き火を見て、夢を見ているわけではないと確信する。
そして荷台だけが残っていて、馬がいない。
この雨の中、馬に乗って外へ出たのだろうか。
いや、それならば泥で汚れた馬の蹄の跡が外へと続いているはずだ。
それに、荷台に立て掛けられているグレゴリの長剣。
大したことのない用事だったとしても彼が武器を置いていくことだけはありえない。
何か不測の事態が起こったのだ。
そこで、アルヴィンの言っていたことを思い出す。
『対応する間もなく気絶したらどうやって身を守るつもりなのか』。
それが今起こったとすれば、この状況にも納得がいく。
これでも、銀プレートの冒険者になってからずっと魔物と戦ってきた。
麻痺などの毒を撒く魔物が洞窟の奥に潜んでいたのかもしれないと思えるくらいの勘は働く。
そして恐らく、その魔物は本来この地にいないものなのだ。
そうでなければ、グレゴリが警戒していないはずがない。
ハルは懐から黒檀の短い杖を取り出す。
魔法の練習をするにあたって、マグノリアから作ってもらった杖だ。
この杖のおかげで魔法のイメージがかなり掴みやすくなった。
「……『ヘビの舌』」
その呪文に反応して、ハルの足元に巻き付くようにして細い蔦が出現する。
蔦は前方に真っ直ぐ三メートルほど伸びて、小さな白い花を咲かせる。
完全に魔力のみで作られた植物は、固有の性質を持つ。
『ヘビの舌』は、前方の大気の毒性を測る役割があり、感知すると花が枯れるため非常にわかりやすい。
「『仄かな灯り』」
肩に、ひまわりのような花を咲かせる。
これが前方への光源となって、暗い道でも照らしながら歩ける。
植物の魔法は一度出現してしまえば、魔力を必要としない。
そのため、こういう小さなものであれば、魔力のステータスの低いハルでも使えるのだ。
足元に注意しながら、洞窟を奥へと進んでいく。
暗闇はそれ自体がまるで大きな化け物の口のようにも思える。
ハルに怖さはあまりない。
だが、どこに何がいるかわからない状況が極度の緊張を引き起こす。
常に地面から天井まで注意し続けるのは集中力がいる。
しばらく緩やかな勾配を下っていくと、やがて切り立った崖に辿りついた。
空間が広すぎて灯りが向こうの壁まで届かない。
足元もそうだ。
しかし、他に道はなく、ここからだと崖を降りていくしかない。
小石を手に取り、底に向かって放る。
数秒の静寂のあと、ポチャンと水に落ちる音がした。
「湖……?」
これが地底湖というやつなのだろうか。
初めて見る、と言っても何も見えないのだが。
ハルは軽くストレッチをして、新たに生やした植物に根を張らせる。
伸ばしたツタを引っ張って強度を確かめ、身体に巻きつける。
手で長さを調節しながら、少しずつ降りていく。
下に灯りを向けると、暗闇の奥に水面が見えた。
周囲に障害物はなく、想像よりも広い空間のようだった。
ここで行き止まりのようだが、どこにもグレゴリやアルヴィンの気配がない。
もしかして間違った方向に進んできただろうか、と少し不安になる。
水中まで調べて何も変なものがなかったら、一度戻ろうと決めて水面近くまで降り切った。
次にハルが作った植物は、オオオニバスだ。
元々子供が乗れるくらいの大きさのあるハスの葉だが、そのままではハルは乗れない。
魔力で繊維の強度を上げて、底が抜けないようにする。
足場としては心もとないが、水中に根は張れない。
湖は深く、底が見えない。
これでは調べるのも苦労する。
壁面から伸ばしたツタで押し出しながら、湖面を進んでいく。
音を出しているのは自分だけなのだと、耳が痛くなるような周囲の静寂が報せている。
この慣れない環境にどれほどの時間いただろう。
ハルの探知はあくまで水上部分にしか機能していない。
水中から音もなく忍び寄る影に気がつけるはずがなかった。
水の持ちあがる音が背後でして、ハルは慌てて振り返る。
太くて巨大な触手が、一本、その鎌首を持ち上げて、ハルを狙っていた。
ハルはハスを操舵するためのツタを一気に引っ張る。
(位置が悪い!)
一瞬の判断で動いたものの、回避する方向が敵の方に向いている。
しかし、もうどうにもならない。
振り下ろされる触手を杖で弾き、できた裂傷に、植物の種をねじ込んだ。
衝撃に怯んだのか、触手は素早く水中に避難していく。
この中に触手の主がいる、とハルは想像すると共に、急いで壁面へと戻った。
とにかく、水中に魔物がいることは確定で、あとはどうやって引きずり出すかを考えなくてはならない。
中に入って戦うには、分が悪すぎる。
崖を登っていると、触手がハルめがけて迷いなく伸びてくる。
ハルは振り向いて、この触手も杖で弾く。
相手の本体は見えない中、これほどまでに正確な狙いをつけられる理由がどこにあるのか。
ハルは自分の周囲に色々な効果を持つ花を咲かせる。
温度を持つ花、特殊な匂いを放つ花、光る花、高周波を出し続ける花。
思いついたものをざっと十六種類咲かせると、向こうの出方を伺った。
最初に狙われたのは、ネズミを模した花だ。
温度か視力か嗅覚で物を視ていることが確定する。
しかし、温度ならば三十度の温度を持つ花が狙われなかった理由がわからない。
ならば視覚か嗅覚か。
視覚であるなら、ハルを見失って花を攻撃した理由がわからない。
――よって。
消去法で嗅覚を頼りにこちらを探っていると仮定する。
匂いであるなら、こちらの独壇場でもある。
ハルは壁伝いに、獲物が移動しているような軌跡を描かせながら、ネズミの匂いがする小さな花を咲かせ続ける。
急に移動を始めた獲物を、触手は慌てて追いかける。
それを、ハルはツタを編んだロープで捕えた。
「逃がしませんよ!」
ハルは植物魔法の力を、その出現だけに割くことができる。
なぜならば、足りない分は自分の力で補えるからだ。
触手を絡めとったツタを、両手で握り、引っ張る。
力勝負では到底勝てなさそうな体格差をものともせず、触手は大きくよろめく。
ハルから逃れようと暴れても、ハルの力が強すぎて離れられないのだろう。
「だから、逃がしませんって!」
すでに暴れて疲労した触手はハルの力に耐えられない。
一気に引き込み、触手を両腕でがっちりと掴む。
あとは引っ張るだけ、と次の行動を起こそうとした時だった。
音も無く、水中からいくつもの触手が伸びていて、いつの間にかハルの方を向いていた。
一本だと決めつけていたわけではないが、もう少し時間がかかると思っていた。
少なくとも、この一本を再起不能にするまでは。
「やばっ」
手を放して、ハルは壁面へ向かって跳ぶ。
次の瞬間、ハルのいた足場が粉々に砕け散った。
既に根を張らせていたおかげで、ハルはすぐに壁へ自分を縛りつけることができていた。
しかし、ここからどうすればいいのだろう。
足場がないと、あれを捕まえても引っ張り合いにまで持ち込めない。
手をこまねいていると、水中から何者かが上がって来るのが見えた。
「おい! ハル!」
「アルヴィンさん!?」
彼は器用に立ち泳ぎながら、声を張り上げている。
「俺たちはまだ大丈夫だ! この奥にこいつが食糧を貯蔵している空間がある! だが、こいつをどうにかしねえと逃げられねえ! どうにかしろ!」
ハルが触手の注意を引きつけている隙を見て、そっと出てきたのだろう。
だが、こうして騒いでしまうと、嫌でも見つかってしまう。
自分は犠牲になっても構わないと思っているのか、それとも、ハルならこの状況でも打開できると思っているのか。
どちらにせよ、ハルにとって不安要素だった、もしかするとここにはいないのかもしれない可能性を排除できたのは嬉しかった。
触手は一斉に標的をアルヴィンへ変える。
その様子を見るに、あまり頭は良くないようだ。
「……安心しました。もう大丈夫です! 種は蒔きました!」
最初の一撃の時、触手の傷から、植物の種を打ち込んだ。
これは寄生系の性質を持つ植物で、相手の体内で魔力を吸って成長する。
体内で根を張り、やがて行き渡ったころには、身体の自由を完全に奪う。
奪えたのは一本の触手だが、それを駆使すれば、他の触手を弾き飛ばすことなど容易だ。
そう思っていたのだが、すぐに考えを改めることとなった。
言うことを聞かなくなった触手は、切り離されていたのだ。
「自切!?」
身体の一部を自ら切り離す行為。
トカゲやカニの形の魔物が自切を行うことはグレゴリから聞いていた。
こんな太い触手でもやる魔物がいるとは。
「あ、アルヴィンさん! どうにか逃げてください!」
「喋っている暇があったら――」
アルヴィンの言葉は途中で遮られた。
波打った水面に飲み込まれるようにして、アルヴィンが水中に消えた。
恐らく逃げたのだろうと思うが、水中にいる相手に向かっていっても大丈夫なのだろうか、と色々と考える。
(そんなに頭良くないのに考えすぎ!)
今はまず、この魔物をどうにかする。
ハルは小刀を抜く。
適当なところに足場になりそうな植物を生やす準備はしたが、あとはもう計算ではなく反射と運任せだ。
今のハルの技量では、戦闘速度を上げると魔法がついて来られない。
ここからは純粋にハルとこの触手たちとの殴り合いとなる。
「ひい、ふう、みい……。あと七本。がんばろう!」
駆け出す。
本気で走れば、多少の傾斜や突起があれば、壁面でもなんとかなる。
パルクールをやっていたおかげで地形情報の取捨選択は得意だ。
一歩踏み込むたびに、壁面に大穴が空く。
そしてその振動が水へ伝わるよりも早く、ハルは闇の中を動いていた。
凄まじい速さに刃物の切れ味が乗れば、切れないものなどこの世にない。
一陣の風と化したハルに、触手の匂い探知など追いつくはずもない。
一度では切り飛ばせずとも、二度、三度と切りつけていくほどに傷は深くなっていき、時間をかけずもう一本を切り落とすに至った。
闇に目が慣れ、そろそろ本体が登場するであろうことに備えながら、次の触手をめがけて攻撃を仕掛ける。
すると、きいんと、甲高い音が鳴って、ハルの刀が弾かれた。
ハルの切った部分だけが、きらきらと輝く硬質化された皮膚に覆われていた。
その様子には見覚えがある。
「石の魔女……」
あの時、シャドウのところで出会った、結晶にされた人と同じ材質に見える。
思わぬところで共通の特徴と相まみえることとなった。
ハルはあの頑丈さには刀が通らないことを知っている。
次の手を考えていると、突如、それはやってきた。
天井からきらきらと輝く、小さな砂の粒のようなもの。
それが水面に触れると、瞬時に人の形を取り、ひとりの女性となった。
「ごきげんよう。花の魔女の盾さん」
「……誰ですか」
背筋がぞわぞわとする。
今までこんなに怖い人と会ったことがない。
ザクロのような赤い光を放つ鋭い眼を細め、彼女は不敵に笑う。
「石の魔女、ガーネットですわ」
深緑色のチュニックを大げさに広げ、深々とお辞儀をする。
「このテンタクルスは私のペット。この洞窟を掘る作業をさせているのだけど、救難信号を発していたので様子を見に来たのよ。どうしてあなたがここにいるのかしら?」
「仕事です」
「仕事? それは、宝石の盗掘?」
「いえ、仲間がその、テンタクルスさんに連れて行かれてしまったので、取り返しに」
ガーネットはそれを聞いて、一度首を傾げ、それからふんふんと納得したように頷く。
「あら、そうだったの。それは悪いことをしたわね。躾をしなきゃ」
ガーネットが指をパチンと鳴らすと、水上に出ていた全ての触手が結晶化していき、粉々に砕け散った。
「何を、しているんですか」
「悪いことをしたペットには躾が必要でしょう? 死は最大の躾ですもの」
一切の躊躇なく、テンタクルスと呼んだペットを殺した。
会話の通じなさに頭が痛くなってくる。
しかし、ハルは今優先すべきことを頭の中で冷静に整理して、彼女に固執するのはやめようと思った。
今は、先にグレゴリとアルヴィンを助ける。
「――助けてもらったとは、思いませんから」
「当然ですわ。あなた、魔女に助けられることの意味を理解しているのでしょう?」
「だから、あなたとはここで会わなかったことにします。そもそも、テンタクルスも、私が勝てていたはずなので」
ハルはツタを絡ませて道を作り、アルヴィンが沈んでいったあたりの底を眺めた。




