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妄想散録  作者: 下歩(旧アルク)
物語の序 片喰荘の住人たち
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8.新宿ファンタジー

成宮への復讐は(たぶん)失敗に終わり、井出アリスと別れた。

僕は府中の街や多摩川沿いを徘徊しながら、二年前を思い出す。

 うるわしの少女アリスを記憶から抹消するべきか逡巡しながら府中の街を歩き回る。


 酷暑に身をさらして迷いを断ち切りたかったが、歩けどもアリスの笑顔ばかりが思い浮かぶ。歩道が幅広い府中駅前通りは何往復しても飽きることなく、近くに交番がなければ迷いが消え失せるまで歩き続けたいところである。何回か往復しているうちにお巡りさんの存在が気になってきたので、稲城いなぎ市との市境にある是政これまさ橋まで足を延ばした。


 僕は生き方に迷うと徘徊はいかいする性癖がある。府中市内だけでも、すでに日本の南端から北端を結んだ以上の距離を歩いてきたのではなかろうか。自動販売機でスポーツ飲料を購入して小脇に挟み、昨日を超える蒸し暑さにだる。灼熱のアスファルトの上に行き倒れそうになりながらも足を動かす。決して良い子にマネして欲しくない強行軍の果てに、ようやく是政橋まで辿り着いた。とはいえ案外近場である。


 橋の手前でスポーツ飲料を飲んでいると、またアリスの笑顔がよみがえってきた。僕は無我の境地に至るため、多摩川の河川敷を見下ろしながら堤防の道を川上の方へ向けて歩く。夏空はからりと偉そうに晴れ渡っており、遠くには富士山の雄姿をはっきりと見通せる。どこに行っても蝉がわんさか鳴いていて暑苦しい。郷土の森公園の脇を通ると、目の前を小さな子供たちが横切った。


 四国に行って、お遍路へんろでもしようかしらん。


 心の奥で小さな欲求が萌芽ほうがした。


 瀬戸内海を渡って四国八十八箇所巡りに時間と金を捧げられるほど裕福ではないし、むしろ仮に片喰荘を追いだされると路頭に迷う程度には貧しい生活を強いられている。実家もそれなりに貧しいので、仕送りを増やしてほしいなどと我儘わがままは言えない。仮に言える状況でも情けないので言うつもりはない。成宮のようにアルバイトに励んでおけばよかったと後悔したところで、お遍路資金が空から降ってくるわけでもない。それでも芽生えてしまったお遍路に焦がれる欲求は、むくむくとたくましく急成長するばかりで、抑えがたかった。


 そういえば、サハラ嬢は四国の出身である。魔法図書館を訪れるとたまに香川県や愛媛県の話を聞かされる。饂飩うどんと海産物、あとは蜜柑を褒めておけば、香川や愛媛の人間とは仲良くなれるそうだ。


 サハラ嬢もお遍路に憧れていた。老後の楽しみはお遍路、これに限るのだと熱心に語っていた。サハラ嬢に感化されたから僕もお遍路をしたいと焦がれるのだろう。彼女と話していると楽しみが増える。人生の楽しみが増えすぎて、すべてを実現できそうにないのが歯痒はがゆく思えてならないが、それでも僕はいつだってサハラ嬢の話に耳を傾ける。


「香川県に行ったら、お遍路と一緒にうどん屋巡りをしましょう。そして夜になったら、瀬戸大橋を見おろす高台で夜景を見るんです」


 ベッドに広げた地図を俯瞰ふかんして、経路を指でなぞりながら卓上旅行をする。四国でもサハラ嬢の出身は愛媛県のようで、彼女は隣県である香川県に魅了されているようだった。


 サハラ嬢は好奇心の塊で、香川県に限らず実に様々な土地へ行きたがった。


 二年前の春、僕とほとんど同時期に上京したサハラ嬢は都会に興味があるせいか、やたら二十三区内に行きたがった。有名な古書の街である神田神保町かんだじんぼうちょうには一人でよく出掛けていたが、彼女は夜の歌舞伎町かぶきちょうに行ってみたくて仕方がなかった。まだ未成年のめいを心配した大家さんの許可が下りないので半ば諦めていたようだが、僕が耳聡みみざとくそのことを知り、彼女に助力した。僕が責任を持ってサハラ嬢を無事に連れて帰るから、夜間の外出を許してほしいと大家さんに懇願したのである。当時は僕も未成年であったが男が同伴するなら許されるだろうと思っていた。


 ところが大家さんは、恐れ多くも僕なんぞがサハラ嬢の彼氏になりたがっていると早とちりしたようで、二人でも夜間の外出をかたくなに許してくれなかった。はなから二人きりである必要もないので井出か比嘉先輩を誘おうとしたのだが、サハラ嬢自身がこれを拒んだ。彼女は大所帯で行っても面白くないと主張したが、三人が大所帯なのかは甚だ疑問である。結局大家さんを説得するのに長い時間を要して、ちょうど今と同じ梅雨の晴れ間になってようやく実行が叶うのだった。


 僕たちはわざわざ夜になるのを待ってから片喰荘かたばみそうを抜けだして、京王線の上り電車に乗り込んだ。


 車内にはきわどいドレス姿をした妙齢の女性や、スーツを着崩していびきくオジサマなんかがいて、昼間の雰囲気とはまるで様子が違う。吸い込む空気にはエチルアルコールが溶けている。なるほどこれが夜の電車なのかと僕は思った。車両の連結部付近に空席を見つけ二人並んで座ると、周囲の騒音が遠のいていき、サハラ嬢の話す声が鮮明に聞こえてきた。


「我儘に付き合ってくれてありがとうございます。高瀬さん」


 彼女が僕の名前を呼んだのは、その時が初めてだったのではなかろうか。


 僕はにわかに照れくさくなって、ぶっきら棒に「いいよ」と短い言葉だけ返した。僕がずっと黙っていたので、サハラ嬢がその分話をしてくれた。文学少女は普段物静かだが、ふとした拍子に口数が多くなるのだと、僕は知っていた。


「三人以上の大所帯になるとスリルがなくなりそうだったので、どうしても譲れなかったんです。叔父さんとなら二人で行けたのですが、叔父さんが傍にいると安心感がありそうだから、行く意味がなくて……」


 電車に揺られながらサハラ嬢が話すのを聞いていると、心地よく感じられて次第にまぶたが重くなる。そのまま無言で耳を傾けていると、また彼女の声が聞こえてくる。


「高瀬さんといるのが不安だとか、そういう意味ではありませんよ?」


 さすがにまったく喋らないでいるとサハラ嬢を困らせそうなので、僕も緩慢に口を動かして話に参加した。


「サハラ嬢は歌舞伎町にスリルを求めているんだね。歌舞伎町って、本当にスリルのあるところなのかな」


「少なくとも小説の中では、スリル満点のギラギラした街ですよ」


「楽しいところだといいよね」


「はい。願わくば大事件に巻き込まれてみたいです」


 実際に行くことで歌舞伎町に対する偏った価値観を見直してくれるとよいのだが、あまり好き勝手させておくとサハラ嬢は本当に事件に巻き込まれそうだ。サハラ嬢の身の安全と大家さんの信頼は絶対に守らなければならない。体力温存のため彼女に断ってから仮眠を取ると、電車はすぐに終点の新宿駅に到着した。


 複雑な構造から『新宿ダンジョン』とも呼ばれ、世界一の乗降者数を誇るのが新宿駅である。僕たちは歌舞伎町方面の出口を探し歩いて迷った挙げ句、目当ての場所と正反対の西口から出ることになった。


 歌舞伎町に向かって新宿駅を迂回うかいしていると、銀色に輝くビル街の中にぽつねんと息を潜めるようにして、古風な居酒屋がひしめいている空間があった。赤提灯あかちょうちんを吊るした軒下には麦酒ビールケースが積んであり、屋外の丸椅子に腰かけた白シャツの背中が赤暗い闇の中でちらちら光っている。煙が立ち込む隘路あいろをわらわらと人が往来する。まるで神社の境内に出店が並んでいるようで、夜祭りのような風情があった。


「思い出横丁ですね。素敵な場所です」


 酒を飲む年齢でもないのに、居酒屋が軒を連ねるこの商店街を「素敵」と言ってしまえるのはサハラ嬢ならではの感性である。サハラ嬢はすいすいと秘密の抜け道のような横丁に吸い寄せられ、酔っぱらいにおびえることもなく、めっぽう愉快そうに提灯の小路を跳ね歩いた。


「思いのほか焼き鳥屋が多いな」


「お腹が減りますねぇ」


「どうする? 気になる店があるなら入ってみようか」


「今日の目当てはあくまで歌舞伎町ですから、思い出横丁は次の機会に満喫しましょう」


 その時酔っぱらいたちの笑い声が隘路に木霊こだました。


 すると周りの騒音に触発されたのか、サハラ嬢が口に手を添え、

「たまやー!」と夜空に向かって叫んだ。


 彼女は一瞬だけ注目の的になったが、酔っぱらいが多いこの場所では叫ぶ人など珍しくないようで、皆すぐに興味を失って騒音が戻ってくる。


「酒精のにおいにでも酔った?」


「いえ、想像力を働かせてみたのです。ほら、夜空に花火が見えますよ」


 都会の夜空は無表情で、時季外れの花火など上がってはいない。どうやら彼女も思い出横丁の雰囲気を夜祭りの景色と重ねていたようだ。もしかすると、彼女にだけは幻の花火が見えているのかもしれないが、僕はいくら目をらしても同じ景色を見ることができなかった。


「ごめん。僕は想像力が欠如しているみたいだ」


 彼女は軽く握った左手を口に当て、くすりと肩を震わせた。


「実は私も、花火なんて見ていないんです。だから大丈夫ですよ」


「そうか」


「ええ、そうなんです……」


 僕たちは焼き鳥屋の誘惑に後ろ髪を引かれる思いで、思い出横丁を抜けだした。


 新宿大ガード下の歩道を過ぎると、ようやく目当ての歌舞伎町に辿り着いた。星の数ほどもありそうな大小様々の電光看板が歓楽街を照らしだし、夜中になりかかっているというのに大勢の人々でにぎわっている。夜の街の代名詞である歌舞伎町にはひょっとしたら朝なんて来ないんじゃないかと、僕は想像力を膨らませる。


 男女二人で歩いているせいか、数歩進むたびに目を光らせている居酒屋の客引きに声をかけられた。執拗しつように付きまとわれるのでうんざりしたが、歌舞伎町にスリルを求めてきたサハラ嬢は一層上機嫌となり、相変わらずのスタミナでずんずんと先行していく。如何いかがわしい店の客引きがないのがせめてもの救いだった。思い出横丁とはまた異なる怪しさを秘めた歓楽街の空気に、僕はもう酔い潰されてしまいそうだ。サハラ嬢も口では事件に巻き込まれたいと言っていたが、本当に危なそうな場所には近づこうとしなかった。僕がいる手前気を遣っているのかもしれない。


「楽しいですね」


 サハラ嬢がほがらかに言う。


 彼女はまだ思春期の少女なわけで、僕が考える彼女と同年代の女子の一般的な感覚であれば、見るからに貧弱でエスコートとしては力不足の男を連れ回し単に街を徘徊するだけの行為で、「楽しい」などとは到底言えないのである。ショッピングでちょっと高価な物をプレゼントしてもらったり、洒落(しゃれ)たレストランで食事をしたり、即物的な体験をする方が楽しみも一入(ひとしお)だろう。映画鑑賞をするなら確かに「楽しい」。でも現実の街を歩いたところで何か特別なことが起きるわけではない。仮に事件に巻き込まれるのであれば、それはただの「不幸」だ。


 妄想には限度がある。いくら熱心に現実の中に想像力を膨らまし楽しみを見い出そうとしても、ふとした瞬間に虚しくなって、途端に冷めていく。


 高校時代、僕は現実を退屈なものだと認識して、文字通り現実的な将来の夢を持ったことがなかった。今でも漠然と生きていることに変わりはない。しかし今では彼女が開拓してくれた小説の世界に没頭して、自分自身を忘れ去ることができる。僕は水谷紗羽良(さはら)に感謝しているのだ。ゆえに、格別の意味を込めて、彼女をサハラ嬢と呼んでいる。


 せっかくサハラ嬢と新宿に来たのだから、明瞭めいりょうな思い出づくりをしておきたい。


 終電の時間になるまで新宿の街をうろついていると、幸いなことにまだ暖簾のれんが下りていない饂飩屋の前を通りかかったので、僕は一抹の勇気を振り絞って彼女を食事に誘った。


「『夜泣きうどん』なんてどうかな」


 夜中に食べる饂飩は背徳の味がした。


 僕はサハラ嬢の嗜好しこうを熟知しているつもりだった。


 帰りの車内でサハラ嬢は、「出汁が黒かったです」と、四国民らしく手厳しい感想を言うのだった。

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