7.初めてのデートはボロネーゼを食べましょう
アリスが語ったアデン湾の記憶。
アデン湾に巨人はいるのか? 真偽はアリスのみぞ知る。
ともあれ復讐の時間です。
ついでにデートも楽しめたらいいですね。
尊い労働の汗をしぶしぶ流す成宮に見せつけるように、美人の彼女とイチャイチャする。しかもその美少女は金髪のハーフである。復讐と呼ぶにはあまりに軟弱すぎるが、恋愛と無縁そうな成宮が相手だと絶大な効果が期待できる。何より成宮は仲睦まじいカップルを心底憎んでいそうな性格をしているから、計り知れない精神的負担を与えられるのはまず間違いない。無論ストレス発散の矛先がまた僕に向かう可能性もあるだろう。しかし僕はたとえ再三蹴られ尻が壊死しようとも、彼女との戦いに勝利したいのだ。僕は暴力を好まない。だからその分精神をチクチク攻撃するのが大好きなのだ。
アリスを追って入店すると、中学生くらいに見える華奢な女の子が出迎えてくれた。
成宮である。
細くて小さくて猫のような目をしていて塩対応をしそうだから、その手のマニアックな客層を狙って成宮が雇用されているのだとばかり思っていたが、店員は皆、料理番組で使いそうな着飾らないエプロン姿をしており、店内は誰でも入りやすい雰囲気であった。
アリスの後ろからおまけのように現れた僕の姿を認めると、成宮は一瞬目を大きく開いて「いらっ」と言った。おそらく「いらっしゃいませ」と言いたかったのだろう。
「二人ですけど、よろしいですか?」
眉間に皺を寄せて固まっていた成宮に、アリスが微笑みかける。
「はぁ、どうぞ」
成宮は気の抜けた返事をして僕たちを奥のテーブル席に案内した。冷水の入ったグラスとおしぼりを用意すると、脱兎の如く逃げ去る。
「予想通り、素直な反応だね」
若い男女の二人組が苦手そうな成宮は、僕が金髪美少女と店にやって来たせいで居た堪れないだろうが、僕の方もアリスと二人きりの空間に残され彼女と向かい合うのは相当気まずい。メニュー表を眺める仕草だけでアリスは絵になってしまうのだから、油断すると恋の奈落に突き落とされそうだ。アリスの中身は男で、しかも下郎の井出である。もう一度アリスを観察すると、やはり下郎の面影がなくて困惑せずにはいられない。男なのか、男でないのか、それともどちらでも構わないのか。僕は宇宙の神秘を垣間見ているような何とも言い難いもにょもにょした気持ちに支配される。
「ボロネーゼにしようかな」
アリスが言った。
「じゃあ僕も、それで」
淡々とテーブル席の片付けをする成宮に呼びかけると、彼女は一度厨房に引っ込んでから注文を取りに来た。腐った生卵を丸呑みにしたような険相で注文を受けると、また逃げていく。
井出は軽口であるが井出アリスは男に話題を譲る性格のようで、僕が話題を振らない限り彼女の方から話しかけてはこなかった。相手が井出であれば話せることもあるのだが、アリスが相手だとどうにも調子が狂っていけない。近くに成宮がいるせいで迂闊に片喰荘の話もできない。今さらになって、井出は成宮と僕を同時に揶揄いたかったのだと思い知らされた。けれども天使のように微笑み煌めいているアリスを憎む気にはなれないのである。諸悪の根源は常に井出であり、アリスは何も悪くない。
道端でたむろする信楽焼の狸を睨むように胡乱げな目をした成宮がボロネーゼを配膳して逃げていく頃には、僕はもう振れる話題がなくてアリスに話しかけられなかった。ボロネーゼが美味いのとアリスが綺麗なのと。単純な感想がぐるぐる繰り返し思い浮かぶばかりで、成宮の様子を観察して楽しむよりも自分自身が滑稽に思われて仕方なかった。僕は終始もじもじしながらボロネーゼを平らげた。
「あら、もうこんな時間なのね」
見つめ合ってお喋りしていたわけでもないのに、アリスは退屈を感じさせない明るい声で言った。
「そろそろ行かないと」
「え、どこに?」
「ごめんね。このあと用事があるのよ」
食べ終わった皿に手を合わせて席を立つ。僕はといえば、全身が石のように重くて立ち上がる気力すら残されていなかった。これ以上アリスと一緒にいれば、発狂して半裸で多摩川に飛び込んでしまうだろう。多摩川を遡上してかつていたアザラシのような人気者になれればいいが、僕はしがない学生なので、ぷかぷか浮いていても悪ガキに石を投げられるのがオチであろう。
「僕は会計があるから、君は先に帰ったらいいよ」
「ありがとう。悪いけどお言葉に甘えて先に行っちゃうね。それじゃあ、また会おうね」
暇人の井出にどんな用事があるのか見当もつかないが、井出がさらなる悪事を企んでいるのだとしても僕は関与しないし気にもならない。僕はアリスと共に甘酸っぱい時間を過ごせて満足だった。ただその分、すごく疲れた。
草臥れて背もたれに身を委ねていると、片付けしに来た成宮が横に立ち、僕の顔をじいっと覗き込んだ。
「破局したの?」と、成宮は言った。