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妄想散録  作者: アルク
物語の序 片喰荘の住人たち
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6.アデン湾の記憶

井出が井出アリスになった。

蠱惑こわくの美少女アリスが幼い頃の記憶を語る。

 アデン湾は西アジアのアラビア半島と、アフリカ大陸のソマリ半島に挟まれた湾で、地中海を目指す日本の外航船は必ずここを通らなければならない。積み荷を大量に載せた船舶の往来が絶えない上に周辺地域の治安が悪いものだから、日本ではとうの昔に廃れた海賊が未だにアデン湾をうろついている。


 その夜、私たちの船は迷子になった。


 海賊から守ってくれる護衛艦とはぐれてしまったのだ。


 父はレーダーの故障を疑ったけれど、船長や航海士がそうじゃないと反論する。「何かが変だ」と初老の航海士がしきりに訴えていた。


 まだ幼かった私は緊張と不安にさいなまれて、ベッドで横になっても上手く寝つけなかった。ゴウゴウとうなる波に船体が揺らされるのを今さら感じて、胸がきゅっと締めつけられる。非常事態の対応で忙しくする父に構ってもらえず、私は孤独だった。


 大人たちはまだ言い争いをしているのだろうか。私は外の景色を見るため廊下に出ると、背伸びして丸い舷窓げんそうのぞき込んだ。


 真夜中だというのに、霧のせいで海上の景色はミルクをこぼしたみたいに白く濁っている。これだけ霧が濃いのなら護衛艦と逸れても不思議ではないと私は考えた。大人は想定外のことに直面するとすぐに苛立いらだって冷静ではいられなくなる。幼い私の方が真実が見えているのではないかと、急に頭が冴えた気がして胸中で渦巻いていた不安が薄らいだ。ところがベッドに戻ろうとした時に、まるで見たことのない光景を目の当たりにしたのだ。


 濃霧の中に、山のように大きな影がある。その影は人間の上半身の形をしていて、海底に立つ巨人のように見えた。巨人が海を裂くように歩くと、高い波が船まで押し寄せ、足元がぐらりと大きく揺れる。爪先立っていた私は堪らず床に投げだされる。激しい揺れが続く間、私は成す術なく、床にしがみつくつもりで歯を食いしばり伏せていた。


 ゴウゴウと海が鳴る。私たちはアデン湾を航行しているうちに、神様の領域に侵入してしまったのだ。だから神様が「出ていけ。出ていけ」と怒っているのだ。


 やがて揺れが止むと跳ね上がり、窓の外に再び巨人の姿を探した。霧の中にもう人影がなくなっているのを確認しても心が落ち着かない。また現れるのではないかと危惧きぐしてしばらく目を凝らしていたけれど、結局そのあとは何も起こらなかった。


 あれだけの波濤はとうが押し寄せたというのに船内は異様に静かだった。みんな気にかけていないのか、それとも異常などなかったとでもいうのか。


 私は自分が目にした光景を嘘だとは思えない。だけど大人というのは頑固だから、話をしても突拍子のない妄想だと言って相手にしてくれないだろう。父はおそらく、まだ大人の話をしている。非常事態を常識に頼って解決するのに夢中なのだ。


 私は部屋に戻って布団を被った。


 疲れ果て眠りに落ちる間際に、船底の下、月灯りなんて到底届かない海の底から、馬がいななく声を聞いた。


       *


「次の日に海賊に襲われたんだけど、それはまたの機会に話すね」


 アリスが日傘をたたむと、彼女の頭上にイタリア料理店の看板があった。僕はようやく当初の目的を思いだしたが、この摩訶不思議まかふしぎの女に問わずにはいられない。


「今のは本当に井出の実体験なのか、それともアリスの設定か? まさかサハラ嬢に作り話をしたんじゃないだろうな」


「さあ? あなたはどう思う?」


 どう思うと聞き返されても海を歩く巨人など実在するはずがない。仮に幼少期の井出がアデン湾に巨人の影を見たと思い込んでいたとしても、それは幻に過ぎないのだ。そもそも井出の父親が貿易商だというのは初耳であり、途方もなく胡散うさん臭い。問うまでもなく答えは決まっていたのである。


「サハラ嬢に嘘を話したんだな」


「アデン湾に巨人はいない。それがあなたの真実なのね」


 僕はうなずく。


「私はアレの正体をギリシャ神話のポセイドンなんじゃないかと推測している」


「そういうのはせめて男の姿に戻ってから言わないと、まるで説得力がないからな」


「どんな姿で言ったって、あなたは私を疑うでしょう? いいのよ。どうせ私は嘘つきなんだもの。それにサハラ嬢が小説のアイデアを求めていたというのなら、嘘の体験談をしたって問題ない。要はおもしろければいいんでしょ。嘘か誠かなんて関係ないわ」


 ねた様子でそっぽを向くと、アリスはさっさと店の扉を開いて躊躇ちゅうちょなく敵地に踏み込んだ。僕は驚き呆れながらも慌てて彼女に続く。


 彗星すいせいの如く現れた似非えせ美少女のせいで当初の目的を忘れそうになるが、僕は本来男である井出と組んで、暴君成宮に屈辱を与えなければならないのだ。


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