5.井出アリス
暴君成宮に復讐したい。
アルバイトで忙しい成宮を冷かすため、井出が完璧な女装をする。
女装した井出が部屋を訪ねてくると、僕は外見という曖昧なものを心底信じられなくなった。美しいものをただ美しいと素直に言える清らかな心の持ち主になりたがる、まだ何も知らない無垢な時代もあった。
可愛らしい微笑を浮かべる井出は、どこから盗んできたのか清楚な白の上衣を着て紺のスカートを穿いており、人形のようにも化け物のようにも思われた。「プリーツスカートよ」と言って裾を摘み上げるが、もちろん僕は存じ上げない。スカートの下からすらりと伸びる生足は、正真正銘の生足と呼ぶに相応しい上等の代物だった。
「どうかな」
「トイレに駆け込んでゲロを吐きたい気分だ」
「失礼ね」
美少女化した井出が頬を膨らませる。果たして片喰荘にここまで女性らしい女性がいるだろうか。サハラ嬢は本の虫で、比嘉先輩は趣味に没頭する熱意がおじさんだ。そして成宮はぶっきら棒でたまに足が出ちゃうのだから、可憐さの欠片もない。女性らしさなんてくだらないという方々からの意見もあろうが、井出が惜しげもなく振り撒く女性らしさには、守ってあげたくなる欲求を刺激する未知のスパイスが混ぜられているようで、そこらにいる野良の男どもが放っておけない異性としての圧倒的な魅力があった。
「黙っちゃってさ。可愛いってことで、いいんだよね?」
確かに女装した井出には男だと思わせる要素が一切なく、僕はもう人間であることを諦めて早くこの呪縛から解放されたかった。拒絶したい本能が先立つが、うっかり井出の女装が終わるのを待って部屋に待機していたのだから、これを利用しないのは勿体ない気がする。水谷一族に伝わるモッタイナイ精神が僕にも浸透したのだろうか。
「成宮さんをぎゃふんと言わせましょう!」
天使と悪魔、表裏一体の笑顔に騙されて、僕は井出とのデートを決意した。我ながら馬鹿馬鹿しいことであるが、成宮に復讐する以上に、この女装を見破れず井出を美少女だと思い込んで接する成宮を見物して密かに楽しみたかった。
女装した井出は安直にアリスと名乗り、ろくすっぽ英語が話せないのを棚に上げて英国育ちだと主張しだした。ぼろが出るといけないので日本育ちのハーフにするよう窘める。
本を読んで過ごしているであろうサハラ嬢に目撃される前に、僕たちはこっそりと片喰荘を出た。早朝にある市場の仕事が終わると、成宮はイタリア料理店に移動して接客のアルバイトをする。生意気にもヒールを履いた井出が自転車で行くのを渋るので、成宮が働くイタリア料理店までは酷暑に耐えながら歩くしかなかった。
「後ろに乗せてくれるなら自転車でも我慢するけど?」
「死んでも断る」
「どうせ近いんだからいいじゃない。手でも繋ぎましょうか」
視線を合わると井出相手にときめきそうになるので、僕は真っ青な空を睨んで半歩先を歩いた。井出は上品に笑ってから黒い日傘を差す。これが井出ではなく、本当にアリスという少女だったなら、並んで歩けることがどれだけ幸せであっただろう。そうだ、井出は失踪したのだ。失踪した井出の部屋にアリスが引っ越してきたのだと自分に言い聞かせ、僕は恥辱と暑さを意識の外へと遠ざけるよう努めた。
「そういえば昨日、サハラ嬢におもしろい体験談がないか聞かれたわ。あれ、何だったのかしら」
「女装してもサハラ嬢の呼び方は変わらないんだな」
「そうね、だって彼女はお姫様なんだもの。本当はサハラ姫って呼びたいくらい」
日傘で陰をつくっている井出は涼しい顔をして汗ひとつ掻いていない。カラーコンタクトで深い青色になった双眸が、殊更冷えているように感じられる。ふいに井出が顔を上げるとまた視線が重なりそうになったので、僕は目を逸らした。
「それより何なのよ」
「何って」
「あなたが何か言ったんでしょ? あんなに前のめりなあの子、初めて見たわ」
「別におかしなことは言っていない。サハラ嬢が小説の内容で悩んでいたから、みんなの実体験を参考にして書いたらどうだって勧めただけだよ」
「呆れた。悩むくらいなら小説なんて書かなければいいのに。あなたもサハラ嬢も本が好きよね」
「本の虫だからな。仕方ないよ」
井出の演技力が現実離れしているせいで、僕は井出のことを『井出アリス』として受け入れかけている。このままアリスが不浄の井出を心の奥底に封印してくれたならこれほど喜ばしいことはない。よほど頻繁に女装しているのか、すれ違う人にうっとりと見つめられても井出は動じず、本物の令嬢のように優雅な足取りで歩いている。
「サハラ嬢にはもう話したけど、私の不思議な実体験、あなたも聞きたい?」
この状況がすでに愉快で不思議だという本音が声にならなかった。僕の理性は底知れないマリンブルーの瞳に吸い込まれ、井出アリスが語り始めるのを待っている。
「私のお父さんは貿易商なの。北アフリカの諸国と交易をしていて、私もよく船で連れて行ってもらったわ。私があの子に語ったのは、アデン湾の記憶」
自然と二人の足並みが揃う。大國魂神社の境内を通りかかると、夏木立の中で蝉が盛んに鳴き交わしていた。
僕は境内から府中の空を仰ぎ見て、遥か遠くアフリカの海洋に思いを馳せる。