3.幸と不幸のショッキングピンク
濡れそぼち寒さに震える彼女を、小屋に連れ帰った。タオルを手渡し、暖炉に火を入れる。枯草を燃やすだけでは火持ちが悪いので薪をくべて火が消えないようにした。日々拡張されているとはいえ、この世界で薪は貴重だ。しかし彼女を寒さから遠ざけたい一心だったので惜しくはなかった。
暖炉の前に座らせると、彼女は膝を胸に押し付け、身を抱くように腕を組んだ。猫のような瞳で揺れる炎をじっと見つめ、一言も喋ろうとしない。僕はこれまで彼女の声を聞けずにいた。
「まだ寒い?」会話の糸口を見つけたくてそう聞くと、彼女は首肯で返す。くしゅんとくしゃみまで返ってきた。やはり着替えを用意しなければ風邪を引きそうだ。あとは湯も沸かしておきたい。髪や身体を拭かないと海水で濡れているせいで不快だろう。肌が荒れても可哀想だ。
忙しく動き回っていると釣り人が目を覚ました。上半身を起こし、暖炉の前に座り込んでいる女の子に気づくと、「誰だ?」とさして驚いていない様子で聞いてきた。
僕も何でもない風に平然と答える。「お客さんだよ」
「そうか、名前は?」
「それはこれから。今のところ名前のないお客さんだ」
釣り人が温まるスープを作ってくれると言うのでついでに湯の用意も頼み、その間に僕は着替えを見繕うことにした。衣類はすべて二階にある。梯子を使って屋根裏の二階に上ると洋箪笥を開き女性用の服を探した。箪笥も、中の衣類も、この小屋を発見した時からすでにあったもので、僕や釣り人が着ることのない女性にこそ似合いそうな服もたくさん仕舞われているのだ。
半袖や露出のある服は目にしたそばから脇に投げ、身体を温められそうな上下を揃える。足先も冷たくなっているだろうから靴下、あとは下着──そう、下着も替えなければならない。彼女が身に付ける下着を……。
僕が選ぶのか? 名前も知らない女の子の下着を? それは変態紳士の所業なのでは?
顔中が熱っぽくなり慌てふためいた。そして自らの空白になった過去について有力な仮説を立てた。
「僕は童貞だ。なんて悲しい奴なんだ」
どうせ女の子と手を繋いだこともないのだろう。そんな奴が偉そうに、あの子が身に付けるものを吟味するなんて、許せない。なんて身の程知らずなんだ。箪笥の衣類を全部、選別せずに引っ張りだす。それらを抱えて梯子の手前まで戻った。
二階からどさどさ落ちてきた衣類に、釣り人が目を剥く。「何をしてるんだ?」と彼は言った。
梯子を滑るように下りると僕は透かさず弁明する。
「彼女が着る服を選ぶなんて、僕には荷が重すぎた!」
それこそ乙女のように瞳を潤ませ恥じらってみせたが、釣り人の視線は南極点の凍てついた大気よりも冷えていた。
「早く拾ってあの子に選ばせてあげろ。スープが冷めちまう」
僕が童貞特有の自己嫌悪に苛まれている間にスープが完成していたようだ。我が家で「一番マシ」と評判の舞茸擬きのスープが鍋の中で湯気を立てている。舞茸擬きとは、舞茸に近い見た目と香りが特徴の、仄かに大人の足臭いキノコである。
釣り人が器にキノコずくめのスープをよそい始めたので、僕は急いで衣類を拾い、暖炉前でモニュメントになっている彼女に差しだした。彼女の首から下は毛布に巻かれていて、もう寒そうに震えてはいなかった。
「遅くなったけど、この中から好きな服を選んで着替えるといいよ」
そう言うと、彼女は怪訝な顔になった。
「いや、着替えを覗いたりはしないから」
そんな度胸はないので安心してもらいたい。僕はすぐに小屋を出た。
少ししてから釣り人も外に出てきて、二人で彼女が着替え終わるのを待った。また少ししてから扉がノックされる硬い音がした。扉が開かれ彼女の顔が現れる。僕たちはぞろぞろと小屋に入った。
着替え終わった彼女は頻りに壁のある一点を気にしていた。
そこには本棚があって、雑多な背表紙が並んでいる。
デフォー、ヴェルヌ、ヘミングウェイ、──小さな本棚のはずなのに、著者を挙げるだけでも一苦労である。もちろん日本人が書いた書籍もあって、それらが棚の半分ほどを占めている。
ちろりと、彼女の目がまたも本棚に向けられた。
もしかして本が好きなのだろうか。
「本が読みたいの?」
僕が聞くと彼女は首を真横に振った。とたとたと早足で棚の前に行き、薄い冊子を引き抜く。大判のそれの中身は白紙になっており、どうやらスケッチブックのようである。彼女は次に飾り棚に置かれているフェルトペンを手にした。
白い用紙の上を、黒いインクが縦横に駆け抜ける。書き終わると、彼女はそれを提示した。
「えーと……、『ありがとう』?」
こくりと頷く。
そしてもっと長い文章を書いて僕に寄越してきた。
スケッチブックにはこう書かれていた。
『親切にしてくれてありがとう。実は人さらいにあって、それから声が出ないんです。何とか逃げられたけど、ずっと海の上で……。嵐にあって舟が転覆して、気がつくとあなたに助けられていました』
声が出ない。
それを見てこれまでの無口な彼女に合点がいくのと同時、会ったこともない誘拐犯への怒りが膨れた。僕は一度深く息を吸ってから彼女に答えた。
「『ありがとう』なんて照れるだけだから、気にしなくていいよ。僕が君を助けたのは当たり前のことだ。それに、敬語も使わなくていい。無理にとは言わないけど」
彼女は微かに目を細め、頷いた。
僕も頷き返す。
彼女はまた、すらすらとペンを走らせる。
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