1.まだ白い世界
──プロローグ
ふと、そんな言葉が降ってきた。
しかし、心当たりはないのである。
*
視界は不良。相変わらず、世界は霧に閉ざされている。百歩先の景色も見えやしない。
空を仰いでも太陽はなく、そもそも空が存在するかも分からなかった。いつまで経っても夜が訪れないので、時間の流れを知ることもできない。そのせいで、本当に時間が流れているのかさえ疑問である。白い濃霧の世界はどこまで行ってもしんと静まり返っていた。秒針の時を刻む音が、やけに懐かしく思われた。
僕は静寂な草原をさくさくと足音を鳴らしながら歩いていた。
六千二百二十歩。それが昨日の記録だ。夜も朝も来ないので、就寝前を昨日と定義している。
今日はすでに一万歩を超えていた。数字は日ごと増えているが、ここまで大幅に更新されるのは初めてのことだ。──世界が拡張されている。それもすごい勢いで。この調子なら、いつか草原の果てが生まれて違う景色が見られるかもしれない。そう思うと、僕の心は自然と踊った。
退屈な草原の上に、人が一人だけ入れるくらいの縦に長い小屋があった。僕はこの草原を一日に何度も歩いているが、これまでこんなものは見た覚えがない。きっと昨日まではなかったはずだ。僕は新発見に胸を高鳴らせ、小屋の扉を開けてみた。
そして中を確認して、落胆したのである。
*
どうやらこの世界はとても小さいようだ。昨日は六千二百二十歩で一周できた。
しかし今日はその倍近く歩いたのだから、この世界の著しい成長ぶりには驚嘆させられる。きっと育ち盛りなのだろう。もっともっと大きくなれよと期待せずにはいられない。
世界を一周してしまうと、僕は住居に戻ってきた。住居に戻ってきたからこそ、世界を一周したのだと確信できた。僕の住居は木造二階建ての小屋である。ひとたび突風が吹けばたちまち全壊しそうなほどちゃちな小屋だが、団扇で扇ぐ程度のそよ風しか吹かないので安心安全だ。もちろん防犯設備などは皆無である。どうせ泥棒など存在しないのだから不要だろう。
仮に倒壊しても諦めがついてしまうみすぼらしい小屋ではあるが、こんなのでも一応この世界の名所である。先ほど縦長の小屋を発見するまでは、世界唯一の建築物であった。だから必然的に、僕はここに住むしかなかった。
もう一つ、小屋の裏にも名所がある。それは殺風景な池である。何の変哲もない池ではあるが、ほとんど草原に支配されているこの世界ではとても貴重な景観なのだ。それに食料となる魚が釣れるから、水の確保と併せて生きていくのに欠かせない。もしも魚が食べられなかったら──考えるだけでも悍ましい。魚以外には専らキノコを食べて暮らしているのだ。だから魚が釣れなくなれば、僕の胃袋はキノコを溶かすための専門性の高い消化器官になってしまう。
魚は言うまでもなく池でしか獲れないが、キノコはどこにでも生えている。草の中に隠れているのはもちろんのこと、気づけば寝床にも潜んでいたりするから油断ならない。その気になれば池の中でも見つけられる。本当にどこにでもあるせいで有難みを感じられず、毎日草むしりをするようにキノコ狩りをしている。
僕はキノコで重くなった籠を背負ったまま、小屋の裏手へと回った。池の中ほどに小さな舟が浮かんでおり、その上に釣りをする同居人の影が見えた。
「おーい、おーい」
エリンギみたいなキノコを掲げて手を振ると、霧の向こうにいる人影も大きな魚を掲げて応えた。
今日も釣果は上々のようだ。