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妄想散録  作者: 下歩(旧アルク)
物語の序 片喰荘の住人たち
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3.夕餉の一幕

街を徘徊した日に僕はおかしな夢を見た。

目を覚ましたら夕飯の時間。

 静寂な森と炎上するキノコの妙ちきな夢が、突如とつじょとして霧を払うように消えていく。そこには見慣れた片喰荘かたばみそうの天井があり、吊り電球が部屋を照らしていた。


 天上をにらんでいると、聞き飽きた同年代の男の陰気な声が降ってきた。「飯だぞう」と呼ぶ声の主は、隣室に住む男子学生の井出いでである。


「早く準備を手伝ってくれ。俺は腹が減っている」


 井出は偉そうに言っているが、朝晩の料理を作ってくれるのは大家さんだ。


 片喰荘はそこら中に昭和中期の風情がごろごろしており、台所も月に一度蝙蝠こうもりの寝床となる程度には薄暗い。その台所に行くと大家さんがぶりさばいているところだった。カマに包丁を入れ、慣れた手つきで鰤の首を落とす。腕の筋肉が引き締まって魚を捌く立ち姿が勇ましくすらあるので割烹かっぽう店の料理長に見えてくるが、この人は片喰荘の大家をやる傍らで空手道場の師範をしている。


 細マッチョ化計画を長期に渡り企てている僕にとって、大家さんがまとう完全無欠の筋肉こそが憧れであり目標である。美しい肉体を裏切らず容貌ようぼうも男前なのだが、落ちくぼんだ目と無精髭ぶしょうひげのせいで刑務所育ちの荒くれ者に見えなくもない。性格は温厚で、本人曰く「四十になるまで怒りの感情を殺す修練を積んできた」そうだ。元来は短気であるらしい。


 サハラ嬢こと水谷紗羽良さはらは大家さんのめいにあたる。かたや男汁染みたる道場の師範、かたや静謐せいひつを守る魔法図書館の姫君と、二人は異次元空間を生きているかのように対照的であるが、大家さんとサハラ嬢の関係が良好なのは周知の事実である。親のように気安く慕っているわけではないが、サハラ嬢は気が向くと物語世界から飛びだして、大家さんの横に並んで味噌汁を作ったりカレー汁を作ったりする。料理の腕前は文学少女の名に恥じず、大家さんが目を離した隙に美食の神髄しんずいを求める大冒険をエンジョイしたり、切っていた野菜がフライハイしたりと、誰をも魅了してハラハラさせるほどだ。


 最近、夕餉ゆうげの食卓を準備するため台所に来ると、鍋を掻き回すサハラ嬢の勇姿を頻繁ひんぱんに見かけるようになった。台所に椎茸しいたけの匂いが充満していたので得意の椎茸汁でも作っているのかと思ったが、食卓に並んだのはひよこ豆と豆腐が浮かんでいるだけのやたら白っぽい味噌汁だった。豆をはしで挟むとほろほろ崩れて、ひよこ豆ではなくひよこ豆サイズのじゃが芋なのだと判明する。


「ウマい。サハラ嬢の手料理はいつもウマい」


 井出はよく女子を褒める。男に厳しく女に甘い井出の賛辞が上滑りすると、途端に居間が静まり返った。


 いつも片喰荘の住人が集い食卓を囲む和室に、今夜は四人しか座っていない。僕の左隣ではサハラ嬢が座布団の上にきちんと正座しており、口をもこもこさせて何かを咀嚼そしゃくしているが、表情は至って普通、善良が服を着ているようなサハラ嬢でも、本音を言わない井出に褒められて今さら喜んだりはしないのだ。


 僕は箸でわんの底をで味噌汁の中に匂いのもとである椎茸を探した。探してもサルベージされるのはじゃが芋ばかりで、そのどれもが奇跡的にひよこ豆の大きさをしている。サハラ嬢も大家さんも崇高すうこうたるモッタイナイ精神の持ち主なので、出汁に使った椎茸を廃棄したなんてことはないだろう。今晩の味噌汁にはぬめりがあってなめこ汁を彷彿ほうふつとさせる。椀の中身を混ぜると強烈な椎茸の香りが立ちこめ、鼻の奥がぬらっとした。


「井出さん、ちょっとよろしいですか」


「なんだい」


「あとで聞きたいことがあるのでここに残ってください」


 まるで悪さをした教え子を呼び出す生真面目きまじめな教師の言い回しである。サハラ嬢に指名されて井出はニタニタと下郎の顔をしているが、困ったようでもある。


「今じゃダメかな」


「根掘り葉掘り聞きたいので、できれば後でゆっくりとがいいです」


「明日の準備で忙しいんだけどなあ」


「それなら後日で構いませんよ?」


「いやいやっ、サハラ嬢の頼みなら無下むげにできないよな。どうせ明日のことなんて準備不足でも構わないんだ」


「そうですか。迷惑でないのなら是非このあと。よろしくお願いします」


 片喰荘の住人から小説の参考になりそうな実体験を聞く。どうやら僕が提案した計画が動き始めたようだ。


 本来サハラ嬢の性分であれば相手を聖域である魔法図書館に呼び出して、心身ともにくつろいだ状態で話を聞きたいところだろう。しかし井出には魔法図書館への立ち入り禁止令が下されている。かれこれ半年近く前の話になるが、下郎の井出は魔法図書館に押し入ってサハラ嬢の蔵書を捨てようと暴走したことがある。「書を捨てよ町へ出よう」とわめき散らし、野蛮としか言えない強引なやり口でサハラ嬢をナンパした。知的生命体のやり方ではないと、僕は井出の浅慮極まる行動を苦々しく思った。


 相手がもやしみたいな体格の井出とはいえ、男が部屋に押し入って自分の宝物をゴミ袋に投げ捨てるのだから、サハラ嬢は恐怖したはずである。叔父おじの大家さんに片喰荘から追放されるのが筋であるが、矮小わいしょうな井出は寛大なサハラ嬢に許されてしまった。魔法図書館に立ち入らない約束をした井出は「酒に酔った」などと言い訳して、自らに禁酒を科した。


 その後井出がどのように働きかけたか知らないが、今ではこの二人の関係も元の通りに良好である。井出と対応があまり変わらないことに僕は多少の不満を抱いているが、サハラ嬢は博愛の人なので仕方がない。比嘉先輩などは井出の犯した過ちについて「井出は小賢しい顔をして不器用なところがあるから、あんな風にしか動けなかったんだろう。行動しただけでも褒めてやろうよ」などと大人らしい見解を口にしていた。欲求不満をこじらせた猿みたいだが、要するにサハラ嬢を意識しているのだ。彼に悪意がなかったことをサハラ嬢も知っている。


「お前、なにかそそのかしただろ」


 食事を終えて、サハラ嬢と大家さんが食器を片付けるため台所に立つと、井出が擦り寄ってきて声を低くとどめながら言った。


「付きあってあげろよ。サハラ嬢のためなんだから」


「彼女に尽くすのは俺たちにとって当然の義務だ。でもお前がした企みのために面倒なことをするのはやだね」


 僕は椎茸臭い息を吐き散らし文句を垂れる井出を引きがして席を立った。


 井出は阿呆あほだが気に入った異性相手だと面倒見がいい。彼が大家さんのような男前であれば僕は嫉妬しっとしていたかもしれないけれど、井出とサハラ嬢を二人きりにしたところで恋の嵐は吹き荒れないのである。

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