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妄想散録  作者: 下歩(旧アルク)
物語の序 片喰荘の住人たち
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2.徘徊と妄想

サハラ嬢の執筆に協力するため、僕は語るに足る実体験を求めて街を徘徊する。

 その日は梅雨の晴れ間となり、それまでの沈んだ空模様が嘘のように鮮やかな日差しが降り注いだ。天気予報によると六月では異例の猛暑日になるらしい。野外での活動は控えるのが賢明だそうだ。


 猛暑になろうと晴天とは有り難いもので、僕はサハラ嬢の文筆活動に捧ぐ密度の濃い体験を求めて外へ出ることにした。変人奇人なんでもござれ。珍事件に巻き込まれて、執筆が滞るサハラ嬢のために活路を開きたい。僕はやけくその精神で街を徘徊はいかいする。府中駅前通りと大國魂おおくにたま神社の境内をしばらくうろうろしても非日常体験は転がっておらず、半ばクセのように競馬場通りへと足を向けた。東京競馬場の外周を反時計回りに歩いてみたが、徒労に終わったことは言うに及ばないだろう。ちょっと歩くだけで珍事件に巻き込まれるのなら、小説家は安泰だし、芸人は話の種に困らない。


 競馬場の西口まで戻ってきたので、今度は東京競馬場とJR府中本町(ふちゅうほんまち)駅とをつなぐ連絡通路を歩いてみる。通路内には中央競馬のCMソングが流れ、両側の壁に誰もが知る名馬のパネルが展示されている。府中は馬の町だ。僕はこの連絡通路を通るたび、夢の国を歩くみたいに心が躍る。


「馬の話ができる男になれ」とは、頭の中が夢と馬とでできている比嘉ひが先輩の言葉である。比嘉先輩は男よりも男らしく、クールなたたずまいだけなら僕が求める理想像だと言えよう。音楽で生きていく決意を胸に上京し、夜な夜な京王線府中駅の前でギターを鳴らして叫び続ける彼女は、『京王線上のクレイジーロッカー』の異名を持ち、道行く人々からの喝采かっさいと、近隣住民からの苦情の数々を一身に浴びている。田舎を出る時に常識も外聞もかなぐり捨てたようで、夢に対する情熱と競馬への執着から常軌をいっした振る舞いが目立つ。要するに奇人である。比嘉先輩ほどの大物であれば自分語りに困らないだろうと僕は考えた。


 サハラ嬢が片喰荘の住人の体験談をもとに小説を書き上げた時、それは一体どのような物語になるのだろう。想像すると、読みたいような読みたくないような複雑な気分にさせられる。


 JR南武線の府中本町駅と分倍河原ぶばいがわら駅とを結ぶ線路沿いの小路こみちがある。清水下しみずした小路というその歩道は、僕にとってお気に入りの散歩コースだ。清水下小路にはちょっとした桜並木があり、分倍河原駅方向に下り坂となっていて、電車が走る音をすぐ下の方に聞きながら優雅に散歩を楽しめる。歩いているだけで豊かな青春時代を謳歌おうかしているような、爽やかな感情が芽生えるのだから不思議なものである。映画の撮影にも使われたらしく、溌溂はつらつと青春的活動に励む高校生の男女がこの道を通ったのだと思うと、歩くだけでその青春の軌跡にあやかれそうな気がするのだ。


 ここで一応結果を述べておくと、歩くだけでは何事も起こらなかった。


 清水下小路の後半、高安寺の裏手にある坂を下っていると、茂みに潜んでいた蝉がしょわしょわ鳴き始めた。額から流れでる汗を手の甲でぬぐって「あっつい」とうめく。こうも暑くては甘酸っぱい青春的妄想など容易たやすく溶けてしまう。冷房の恩恵を求めて分倍河原駅最寄りの商業施設に逃げ込み、二階にある大手の古本屋に入った。ゲームソフトに掘りだし物がないかを確認して、あとは競馬関連の書籍、小説コーナーへと移っていく。頭文字「み」の著者の小説が並ぶ列に目を止めた。


 もしもサハラ嬢の小説が出版されたなら、彼女の本を古本屋で立ち読みできる日が来るのだろうか。


 現状では水谷紗羽良さはらという名の小説家は存在しない。それに、もし彼女が小説家になったとしても、実名で活動するはずがないのだ。それでも僕は、水谷紗羽良の名前を探さずにはいられない。本の虫である彼女には、是非とも小説家として生きてもらいたい。僕の細やかな願望である。


 それからは結局、三島由紀夫の短編集「花ざかりの森・憂国」と、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を購入して、昼餉ひるげに焼肉丼を食べると、もう用事が済んだことにして帰路に就くのだった。


       *


 そして夕刻のことである。


 僕は自室の畳の上に転がって購入したばかりの小説を読んでいた。


 僕の部屋にも小さな本棚が集まる一角があり、魔法図書館には到底及ばないが、そこには興味を引かれて購入した書籍がずらりと収められている。魔法図書館を探せば見つかりそうな本でも、サハラ嬢から借りるのと自分で所有するのとでは役割が違ってくる。サハラ嬢に借りて読む小説は純粋な僕の知識となり疑似の体験となる。かたや僕の部屋にある本棚は半分以上が見栄みえでできているのだ。僕は自分が所有する小説のおよそ半数を読破できていない。これは僕が常識を逸脱した遅読家であることと、根性なしで飽きやすい困った性格に起因する。本棚にある小説の約半数が、読んでみたいと憧れて挫折した未知の物語なのだ。


 僕は著者の想像力に感心しつつも、その小説をぼんやりと読んでいた。


 読んでいたが、やがてうつらうつらと意識がぼやけだした。小説を読んでいるのか、はたまた眠っているのか判然としない。耳元を木の葉がこすれるような涼しい音色が浸している。


 ──青々と、植物が茂る森を見た。


 その森が山深くにある秘境なのだと、僕は知っていた。


 そこは下草が膝の高さまで伸びているような道なき道だ。僕は森の中を歩いている。ところが服装は普段通りの私服姿で、足こそ長ズボンで守られているが上半身は気抜けするような半袖シャツである。思いだしたようにかゆみが襲ってきて腕を持ち上げると、そこら中が赤くれていた。


「ああ、ああ、だから言わんこっちゃない。自然を相手に油断するのは感心しませんなぁ」


 すぐ目の前を小さな男が歩いている。男の背丈は僕の腰の高さくらいしかなく、下草に隠れてほとんど肩から上しか見えていない。頭には探検家を象徴するようなサファリハットを被っていた。


 男が歩みを止めて振り返ると、白い毛で覆われた顔からは表情を読み取ることができなかった。毛の塊がもこもこと上下する。


「ほら、あそこにキノコがありますよ」


 男が指さす方に目をやると、枯れ木の幹にアンパンみたいな傘をしたキノコがへばりついている。


「あれは食べられるキノコですな。とはいえ、一人で判断して食べてみるのは感心しません。あれとそっくりの毒キノコもありますから、まずは私のような専門家に相談するとよいでしょう」


「あなたは誰ですか?」


 僕は気がつくとそこにいた不審な男に正体を尋ねてみる。すると男は白い眉毛を持ち上げて、思いのほかつぶらな瞳をあらわにした。「おやおや」と、呆れたように嘆息する。


「私はただの案内人です。名乗るのは、また次の機会にしておきましょう」


       *


 男の話によると、この森には妖精がんでいるらしい。では僕の半分くらいしか背丈がない男も妖精なのかと尋ねると、男はまた驚きと呆れの混じる冷ややかな溜め息をいた。


「妖精はね、あなたみたいな不審者とは仲良くしないものですよ。邪悪な心の持ち主には容赦ようしゃのない悪戯いたずらをするが、未知の相手には近づこうとすらしない。私のように長く森に親しんだ者でも仲良くしてくれる妖精はそう多くない。彼らはね、勘がいいから、森に知らない人間が現れると透明になって息を潜めるんです」


 男はおしゃべりのようで、せき払いを一つするとまだ話し続ける。


「それとね、あなたは私が妖精じゃないと聞いてきっと小人にでも分類したのでしょうけど、私からするとあなたの方こそ巨人なわけで、得体が知れないのですよ。人間というのは厄介なものでね、一度偏見を持つと理解し合うのは難しいですから、あなたと私はひょっとすると友達になれないかもしれませんなぁ」


 ふぉふぉふぉと笑う男の後頭部に、僕は小銭をいっぱい詰め込んだ蝦蟇口がまぐちでも投げつけてやりたい気分だった。突然こんなところに来てしまったかと思えば、変ちきな男の小言を聞かされている。何とも遣る瀬ないではないか。


 僕はむっつりと唇を結び、けれども他に頼る当てもないので男のあとを付いて歩く。やがて柔らかな光が射す開けた場所に辿り着くと、そこには途方もなく大きな樹木がそびえ立ち、根元にできた樹洞に隠れるようにして一軒の可愛らしい小屋があった。大樹の周りでは達磨だるまのように真っ赤な傘をしたキノコが群をなしている。その一つ一つが食べ頃の西瓜すいかのようにまるまると大きくて、僕はこの奇妙な光景を目の当たりにしてようやく夢の中にいるのだと悟った。


「あそこのキノコは食べられるやつですか?」


 男は僕が指し示した赤いキノコを確認すると、さっきまでよりずっと低くれた声で応じた。


「分かりませんな。初めて見ましたよ。……もしかするとあれはキノコではないのかも」


 しかしどう見ても、あれはキノコの形をしている。


「ええ、私が知らないのですから、キノコではありませんな」


 男は自分に言い聞かせるように重ねて言った。僕はこの瞬間に勝ち誇って男の言葉に同調する。「そうですね。キノコじゃないですよ、たぶん」


 僕たちは樹洞の中にある小屋の前に立った。


 親切なことに、小屋の入り口は僕が屈まずに通れるくらいの高さがあり、現実で見慣れた普通の大きさの扉をつけていた。僕と同じ大きさの人間を基準に作られているので、必然的に小さな男は腕を懸命に上げなければドアノブに手が届かない。背伸びして短い手を伸ばし、やっとの思いでドアノブをつかんだ男を、僕はもう微笑ましく感じられて温かい親心のような感情を抱いている。現実であれば小憎らしいが、夢であるならメルヘンチックで滑稽こっけい、ゆえに微笑ましい登場人物である。


 男がドアノブをひねる。ところがアーチ型の木製扉はピクリとも動かない。


「ああ、やっぱり」からっとした声で男が言った。


「どうしました?」


「そうじゃないかと疑ってたんですよ。いやいやホントに、おかしいなぁって」


 男はドアノブから手を放して僕の脇を通り抜けると、何の感慨もなさそうに、川の流れに従うように、来た道をすたすたと戻り始めた。


 事態を理解できないでいる僕はドアノブに手を伸ばす。軽そうな扉だ。わずかな力だけで簡単に開けられそうだが、鍵でもかかっているのだろうか。


 すると僕の行動を察知してか、男が呼びかけてきた。


「無駄ですよ。ええ、無駄ですとも。あなた招待状を持っていないんだもの」


 それだけ言い残すと、男はもう僕のことなど忘れたかのように滑らかな手の動きで下草を掻き分け、瞬く間に森の中へと姿を消した。


 男の言葉に背いて扉を開けようと試みるが、軽そうに見えるそれはコンクリートで隙間を埋められたかのように不動を貫く。振り向いても、男の姿はもうない。


 目的があってここまで来たわけでもないので、僕は扉の前に腰を下ろし、沈黙する森に耳をませて夢から覚めるのをじっと待つのだった。


       *


 日溜まりがあけに染まり、やがて夜が訪れても、まだ夢から覚めることができないでいる。せめて鳥か虫の鳴き声でも聞こえるのなら暗闇を不気味に感じることはなかっただろうが、辺りに生き物の気配はなく、ただ風と木の葉の空虚な音が響くばかりだ。


 無意味で無感動な夢ならきっとこれまでも見てきただろう。過去に見た夢の内容などほとんど覚えていないが、面白い夢を見たような記憶も退屈な夢を見た記憶も朧気おぼろげには残っている。自分がどれだけエキサイトしようと所詮しょせん夢の話など他人に聞かせるべきものではないから、どの夢も黙っているうちにすぐに忘れ去っていく。くだんの小男がいなくなってからというもの、この夢には時間以外の変化がなく、膝を抱えて空を見上げると鬱屈うっくつばかりが芽吹きだす。夜空には星の瞬きも月の輝きもなく、木炭を擦りつけたみたいにくすんだ黒色をしている。僕はこうして退屈の極致にさらされているが、この無味乾燥とした時間も目を覚ませばたちまち忘却の彼方である。なので平常心を心がけた。


 しばらくは何も考えないで平坦な夜空を見上げていた。


 ぼんやりと。


 夢の中だからか眠くもならず、さすがに無念無想ごっこにも飽きてきたので、重たい腰を上げて大樹の周辺を散策してみる。人工物は小屋だけかと思っていたが、ほど近くの下草に埋もれて線路の名残のようなものがあった。はっきりとした光源もなく、暗闇に慣れた視力だけを頼りに見つけたものなので、果たして本当に線路なのかは分からない。レールと思しき金属を足先で探りながらどこまで延びているのか調べたが、少し進むと呆気あっけなく途切れた。


 レールを除いてめぼしいものといえば、やはりあのキノコだろう。キノコの間近まで来ると、神秘なる菌類の赤い傘がほのかに光り始めた。


 そこで唐突に腹の虫が鳴り響き、僕は危うげな衝動に駆り立てられた。


「はて、このキノコは食べられるだろうか」と、僕は呟く。


 心なしか赤キノコは炭火焼き鳥とよく似た匂いを漂わせているようだ。匂いだけなら食べられそうだが、外見はお化けキノコだ。指先で傘をつつくと程よい弾力があって、どちらかといえば食べられそう。かんばしい匂いにつられてまた腹が鳴るので、ますます食べてみたくなる。


 夢に自生する妄想キノコ、あぶり食せばなお美味うまし。


 その味を想像して最適な調理方法を考えてしまうほどに、僕の中でこの赤キノコはもう伝説級の珍味なのであった。


 夢なのだから毒キノコを食べても死にはしない。そうして食べる決意を固めると、赤キノコが赫々(かくかく)たる輝きを放ち、たかが菌類とは思えないほどいさぎよく自ら香ばしい煙を立てて燃えだした。


 そして僕は、これは夢であり疑う余地がないのだと再度確信するのだった。

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