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妄想散録  作者: 下歩(旧アルク)
物語の序 片喰荘の住人たち
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1.サハラ嬢からの相談事

下宿屋の同居人であるサハラ嬢。本名、水谷紗羽良さはら

僕は彼女の影響で小説が好きになり、彼女は敬愛すべき本の虫である。

そんなサハラ嬢からある相談をされる。

 東京都府中(ふちゅう)市の何となく中央に大國魂おおくにたまという名の神社がある。武蔵国むさしのくにの総社に当たり広い境内を有する大國魂神社は観光地としても名高く、毎日参拝客が絶えない。


 その大國魂神社の界隈かいわいに、下宿屋『片喰荘かたばみそう』があった。


 梅雨空の下、しとど降る雨の中で片喰荘は異様な雰囲気をかもしだしている。まるで嵐の夜に浜辺に打ち上げられたマッコウクジラのような、何ともイヤらしい雰囲気だ。


 片喰荘の歴史は古く、明治時代には旅館業が営まれ繁盛はんじょうしていたそうだが、戦時中に廃業し、それからは好立地であるにも関わらず長い間空き家となっていた。途中何人か空き家の買い手が現れたというが住み始めてすぐに不都合があったとかで、せっかく改修された建物がまた空き家となり、近年までそれを繰り返す。最後にこの建物を買い取り下宿屋『片喰荘』としたのが大家の水谷さんである。


 旅館時代から局所的な改修工事が何度も行われ、それでもボロ家の感をぬぐえない片喰荘は、近隣住民から「アンチエイジングに失敗したキメラのようだ」と揶揄やゆされている。もちろん「マッコウクジラの死骸しがいみたいに大きくて不気味」とも言われている。このままでは村八分になりかねないが、東京のことなので、そもそも近所づきあいというのがほとんどない。人付き合いなど、あって精々下宿屋の中くらいだ。


 上京してから二年が経ち、僕は大学三年生になっていた。


 このごろの僕とサハラ嬢の関係は中々に良好で、サハラ嬢の滅多めったに人を嫌わない性格を踏まえると進展がないと言えなくもない。要するに、僕たちの距離感はこの二年間ほとんど変わっていなかった。


 一体僕はサハラ嬢と今後どのような関係になりたいというのか。僕が抱いているのは恋愛感情なのだろうか。正直、敬愛感情と表現するほうがしっくりくる。しかしいずれにせよ、サハラ嬢と今以上に仲良くなりたい、彼女をもっとよく知りたい、僕にはそういった小さな野望があった。


 そして、梅雨の到来とともに好機が訪れたのである。


 サハラ嬢が僕に相談事を持ちかけてきたのだ。


 彼女は意固地いこじで、他人を心配させないために悩み事を一人で解決しようとするきらいがある。だから彼女に頼られた時、僕は素直に嬉しかった。断じて下心などはない。


 サハラ嬢に告げられた悩みというのはこのようなものだった。


「文筆が進まないのです」


「なるほど」と、僕はうなずく。


 物語の世界をこの上なく愛しているサハラ嬢に、小説を書くようそそのかしたのが僕である。執筆活動が頓挫とんざしたのなら、僕にも責任の一半があると考えるのが真っ当だ。


「僕にできることがあるなら何でもやるよ」


「ありがとうございます」


 何でもというのは魔法の言葉だ。実に底が知れない。サハラ嬢に付き従って二階にある魔法図書館に入ると、相変わらずそこは森閑しんかんとしており時が止まっているようだった。机上に開かれたノートパソコンがぼんやりと光っている。


「あまり自信がないので、手厳しい意見はどうか言わないでくださいね」


 僕は彼女にうながされてディスプレイに目をやった。横長に設定されたワープロソフト。ページの下部には「1」の番号が振られていて、あとは綺麗な白色だった。生まれたての白。絶望的な純白だと思った。


「うわ」と情けない声がれそうになるのを何とかみ込む。彼女に執筆するよう提案したのは昨日今日の話ではなく、もっとずっと前、半年近く前だったように思う。あまり進捗を聞いて気分を害したくなかったのでこれまでえて触れてこなかったが、まさかここまで停滞していたとは想定外である。この白紙はなんだ。もしかしてあっと驚くような仕掛けが隠してあるのだろうか。白地に白い文字で文章が書かれているのだろうか。


 いずれにせよ、僕は感想を求められる立場である。何か言わなければならない。


「すごいね。ここには無限の可能性が広がっている」


「情け容赦ようしゃない」


 サハラ嬢はぽつりと言い、語尾は消え入るようだった。僕なりに彼女を傷つけないよう言葉を選んだつもりだった。彼女だってこの白紙を僕に見せたのは覚悟の上で、まさか無傷でいられるとは思っていなかっただろう。僕は痛ましい現状を前向きに受け止め、そのまま言葉に変換したにすぎない。そうだ、これから彼女が書く予定の小説には無限の可能性があるのだ。彼女自身もっと前向きにとらえるべきである。


「私は本ばかり読んでいるから、だから何も書けないのだと思います」


 サハラ嬢がいつもの透き通った声で話し始める。先ほど肩を落として小さくなっていたのが嘘のように、しんと落ち着いた口調だった。彼女は窓際まで歩いていき、レースのカーテンをさっと開く。窓硝子がらすの向こうにはにれの大樹が見える。雨に打たれて緑の葉がさわさわと揺れている。


「雨、止みませんね」


 空を仰ぐ彼女の背中は、なぜだかかすかに楽しげだ。


「私は本ばかり読んでいるから実体験が乏しいんです。例えば冒険譚ぼうけんたんに憧れても、実際には冒険なんてしたことがありません。フィクションはもちろん現実ではないから大部分は想像で書かれるのでしょうが、それにしても、どういう物語にすればいいのか、どうすればおもしろくなるのか、物語を書くための糸口さえ浮かばないのです。


 これまで読んできた小説を参考にしようとすると、なおさら上手くいきません。船が無人島に漂着して、さあこれから冒険が始まるぞというところまで書いても、そこで迷いが生じます。考えても考えても理想の物語が思い浮かばない。とりあえず書き進めてみても、誰かの真似まね事にしか思えなくて冷めてしまう。


 知識の範囲内でしか文章は書けません。私には自分だけの経験、実体験がないから独自の物語が書けないんだなって、今になってようやく気づいたのです」


 文学少女は基本的に無口だが、話はじめるといやに長い。サハラ嬢が明かした悩みは愚痴ぐちのように聞こえた。相手がサハラ嬢でなければ僕はこのように答えただろう。


「書けないものはどうしようもないね。悩むことはないさ。君には向いていなかったんだ。ドンマイ。諦めよう」


 さすがにここまで明け透けには言わないが、似たようなことをきっと言う。人間諦めが肝心なのだ。僕だって、そうやって生きてきた。


 しかしサハラ嬢が小説を書けずに悩んでいるのは半分が僕の責任だ。彼女が諦めない限り、これまで協力してこなかった僕が投げだすわけにはいかないだろう。何より僕はサハラ嬢に頼られる現状が嬉しくて、彼女の力になりたいと思っている。下心などは関係ない。


「まず確認しておくけど、サハラ嬢は冒険小説を書きたいんだよね」


 サハラ嬢が振り返り、首を左右に小さく動かす。


「いえ、そこにこだわりはありません。ただ、そうですね。少し不思議な物語にしたいです」


「少し不思議。……少しでいいの?」


「はい、少し、です。そこに大きな謎や矛盾、非科学的なことが書かれていても、読んだ人が『少し不思議だな』と笑って許容してくれるような物語にしたいです。そのためには、柔らかい物語でなければなりません」


 少し不思議な、柔らかい物語。僕はありふれた日常を描く四コマ漫画の最後の一コマに、脈絡なくUFOが飛んでいる絵を思い浮かべた。


「それが君のこだわりなの?」


「そうですね。これが私のこだわりなのかもしれません」


「なるほど、そうなると一筋縄ではいかないよな」


 少し不思議な物語というやつはさじ加減が難しそうだ。不思議成分が少なすぎると味気ないだろうし、多すぎると少しの域を超えてしまう。一歩間違えれば「わけわからん」だけの物語になってすべてが台無しになりかねない。そういえば彼女は「大きな謎や矛盾、非科学的なこと」があってもいいと言った。であればそれらを上手く丸めて「少し不思議」だと読む者を錯覚させる技術が必要になりそうだ。


「何にせよ、書くべきことがなければ小説は書けませんね」


 そう呟いて口をつぐむ。


 現実の経験が少ないから小説が書けないというのは確かに一理ある。恋愛経験がないから恋愛小説を書けないといった極端な話ではなく、実体験から得た知識や価値観、思い出などが文章や台詞に反映されて小説の個性を形作るのだ。


 実体験がなくても小説は書ける。しかし、説得力を欠いた文章は、きっと読み手だけでなく書き手の心にも響きはしないだろう。


 無論これらは執筆経験のない僕が空想した持論に過ぎないのだが。


 僕は考える。


 書くための実体験。物語の糸口。実体験が足跡となり、主人公を物語へと誘う──。


 ふと、ひらめいた。


 登場人物のモデルを用意すれば、物語が格段に書きやすくなるのではなかろうか。


「片喰荘のみんなから話を聞くのはどうだろう。サハラ嬢自身の体験じゃなくて、みんなをモデルにして、各々が体験したことを参考に小説を書くんだ。ここには変な人が多いから、少し不思議な物語との相性もいいよ、きっと」


 思いのほか大きな声が出た。知り合いをモデルにして小説を書くことに抵抗がある人もいるだろう。ところがサハラ嬢は逡巡しゅんじゅんする様子もなく、「おもしろそうですね」とすぐに賛同してくれた。


「片喰荘の皆さんをモデルにするなら話が書きやすそうです」


 僕を主人公にえたいという無謀極まる提案を断固拒否して、二人で物語の方向性を話し合った。とはいえ片喰荘の住人たちから小説のネタになりそうな実体験について話を聞かなければ、物語はいつまでも白紙のままだ。


「まずかいより始めよ、ですね」


 サハラ嬢が期待に目を輝かせる。僕の実体験に期待しているのだ。


 ところが困ったことに、語るに足る実体験が僕にはなかった。人生という名の器をひっくり返してみても、すっからかんで何もこぼれないのだから、途端とたんに僕はむなしくなった。


 芸能人の自伝は売れる。僕はそれがうらやましくて堪らない。皆彼らの人生に興味を持ち、鼻息荒くして活字を追い、読後には「ああ、さすがだな」と感嘆してみせる。


「さすが密度の濃い人生だ。僕ら凡人とは違うよ」


 僕の人生を振り返ってみて、果たしてサハラ嬢を満足させられるような面白い出来事があっただろうか。仄暗ほのぐらい過去にならそこはかとなく自信があるものの、サハラ嬢が書く小説の基盤には相応しくなさそうだ。そもそも僕に自分とまったく同類の登場人物が右往左往する小説を読む度胸などないのである。


 悩んでも仕方ないので、僕は音を上げることにした。「僕のことは抜きにしないか」と言おうとしたところで、違和感を覚え言葉に詰まる。「何でもやるよ」と言ったはずだ。僕が勧めてサハラ嬢が執筆に挑んでいるのだから、僕には彼女を手伝う義務がある。ここで逃げだすことはたとえサハラ嬢が許してくれても、僕自身が情けなくて許せない。


 後回しにすることと逃げることは同義ではない。悩んだら後回し。それが僕の常套じょうとう手段である。


「記憶の整理が必要なんだ」


「ほう」


「僕の過去は深淵しんえんだから、思いだすのに時間がかかる。他の住人たちの話を聞き終えてから出直すことだね」


「つまり最後……ラスボスというわけですか」


「そういうこと」


 物語中毒でゲーム的思考に目がないサハラ嬢は乗り気になって、僕の誤魔化しをつるりと鵜呑うのみしてくれた。さすがはサハラ嬢、まばゆいほどに純粋である。


「では、後日ですね」


 片喰荘には僕とサハラ嬢を含めて、六人の住人と一人の放浪者がいる。サハラ嬢が他の住人たちから彼らの実体験について話を聞き終える前に、僕は密度の濃い体験をしなければならない。これは難題である。




 去り際にふと思いついたので言うことにした。サハラ嬢にとってもこれは好機であるに違いないと確信したからだ。


「君も小説のアイデアを探してみるといいよ。街を歩くのはいいもんだ」


 サハラ嬢は手を振って、僕が部屋から出ていくのを静かに見送った。

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