5.返り梅雨
成宮が陸上部の練習に参加しなくなった理由。
それは深山をめぐる恋のトラブルであった。
雨の音がする。
この日も明け方から糸電話を使ってサハラ嬢と短い会話をした。簡素な交流を済ませて僕は二度寝するつもりで布団に横たわっていた。けれども目が冴えてしまい思うように眠れない。眠れないせいで取り留めない思考の繰り返しに悶々とさせられる。悶々としているうちに梅雨が戻ってきた。雨脚はすぐに強くなる。
あの時サハラ嬢は勘づいていたが、僕は必死に誤魔化して成宮の秘密を守ろうとした。井出でさえサハラ嬢を利用したものの結局は秘密を暴露しなかったのだから、僕がぺらぺら喋るわけにはいかない。サハラ嬢は成宮のことを『さゆちゃん』と呼んでいる。二人の関係がぎこちなくなると、同居人である僕もきっと気まずくなってしまう。洞察力があるサハラ嬢を誤魔化すのは困難であったが、成宮の面目はすんでのところで保たれたはずだ。
布団の上に転がって、悶々としながら時間が経過するのを待っていると、からからと玄関扉が開かれる音がした。
僕は堪らず跳ね起きた。窓の外を見ると、赤いランニングウェアを着た成宮が小走りで片喰荘を出ていく。傘も差さず雨に打たれながら、きっと今日も時間が許す限りがむしゃらに走り続けるに違いない。しかし、成宮はつくづく不運な奴である。ついさっきまで雨は降っていなかったのに、まるで彼女が走るのを待ち受けていたかのように降りだした。せめて早朝の間だけでも天気がもってくれたなら、日中は大学の講義やアルバイトに追われてしばらく濡れずに済んだだろうに──。
そうやって見物していると、成宮の姿はすぐに見えなくなった。
僕はまた横になり、今度は小説を読むことにした。先日成宮が「三四郎」の名を出して僕が貸した小説の感想を言っていたので、ここは潔く「三四郎」を再読してみる。とはいえ僕は遅読家なのでほんの一部を読み返すだけだ。
夏目漱石が書く文章は奇妙に読み心地がいい。整然と羅列した活字を追っているうちに、僕は巧まずして再び眠りに落ちていった。
*
昼になると、部屋にサハラ嬢がやって来た。
扉がノックされたので開けてみると、彼女はいつにも増して白い顔色で「ちょっとよろしいですか」と言いながら、返事を待たずにすとすと足音を鳴らして部屋の中に押し入った。窓の前にしゃがんでこっそりと外の様子を窺っている。不思議に思って声をかけると野生のリスのようにふるっと肩を震わせて、「いえ」と素っ気ない反応があった。
「私の部屋まで来ていただけますか」
僕は階段を上って魔法図書館に入れてもらい、サハラ嬢に促されるまま一緒に窓の外を見下ろした。
「ほら、あれです」と、人差し指を突きだす。
墨汁を一滴垂らしたかのように、庭の中にぽつんと黒い傘が開かれている。じっと観察していると、傘があちこちにできた水溜まりを縫うようにして動きだした。しばらくウロウロしたかと思うとまた急に止まって動かなくなる。
「不審者か」僕は呟いた。
「そのようです。少しだけ顔が見えましたけど、知らない男の人でした。かれこれ一時間はいます」
「一時間も?」
「はい。おかげであちこち靴跡だらけです。水溜まりの大半は不審者さんの靴跡にできたものですね」
サハラ嬢は存外冷静である。
サハラ嬢が一時間も不審者を放置して知らせてくれなかったことに驚かされたが、一時間も雨の中をうろついている不審者の忍耐力にはさらに呆れた。不審者というのは得てしてそんなものかもしれないが行動の意図が分からない。僕であれば余所の庭ではなく、健全に一般道や神社の境内をうろつく。
「警察を呼ぶべきでしょうか?」サハラ嬢が声を硬くして言った。
この時間、大家さんは空手道場の仕事があって片喰荘を空けている。井出や成宮は大学にいるだろうし、比嘉先輩は雨でもどこかでギターを鳴らしているだろう。もう一人に至っては世界のどこかを放浪している。片喰荘にはサハラ嬢と僕しかいないはずだ。
不審者というのは本当に何をしでかすか想像がつかない。常識的に判断するなら、警察に連絡して身の安全を最優先に考えるべきであろう。しかし僕はサハラ嬢に男らしいところを見せたかった。たとえ飛び込みたくなるような逞しい大胸筋がなくとも、僕は一人前の男であり、サハラ嬢が頼ってもいい存在なのだと認めてもらいたかった。もちろん下心などはないのである。
「僕があいつを成敗するから、サハラ嬢はここで待っているといい」
真の男とは背中で語るものだ。僕は堂々と胸を張って魔法図書館を出ていこうとしたが、「待ってください」と、サハラ嬢の声に引き留められた。まるで残酷な運命によって主人公とヒロインが分かたれる映画のワンシーンのようである。
「待ってください。成敗するのは反対です。暴力に頼らず、まずは相手の話を聞くよう努めてください。何か事情があるかもしれません」
冷静に諭されると、ぐうの音も出なかった。僕は紳士であろうと改めて胸に誓い、階下へ向かうのだった。