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妄想散録  作者: 下歩(旧アルク)
プロローグ
1/69

水谷紗羽良について

 小説の面白さを知ることができたのは、ひとえ水谷みずたに紗羽良さはらのおかげである。


 高校時代の僕は活字だけで成立する媒体ばいたいを好まなかった。ゲームや漫画、アニメにドラマ、絵や映像がある作品の方が刺激を感じるし、今でもこれらは僕の好物だ。


 とりわけ漫画とは似たような娯楽であるのに、僕は小説が苦手だった。文章を読むのが人より遅いのが最大の原因かもしれない。授業中に教科書の指定されたページを黙読するのが遅すぎて級友に笑われたこともある。四十人近くいるクラスの中で、僕だけが与えられた時間内に読み終えることができなかった。そして、僕が生粋きっすいの遅読家であることは、今なお変わりない。


 水谷紗羽良と出会ったのは、大学に進学したのを機に上京してからのことだ。


 彼女は恐るべき本の虫だった。


 一日三食たべるのが当たり前のように、彼女は常住坐臥じょうじゅうざが本ばかり読んでいる。スマホ社会を逆行するように紙の束をわっと開いて、現代によみがえった二宮金次郎の如くひたすらに活字を見つめる。瞬きしたかと思えばページをめくっている。人間離れした速読術に僕は辟易へきえきしたものだ。


「おもしろいですよ」と彼女は言った。


 当たり前だ。それだけ速く読めるのなら面白いに決まっている。


 彼女の部屋は本であふれていた。遮光しゃこうのレースカーテンから射し込む淡い光が浮かび上がらせるのは、一架、二架、三架、四架──と整列する本棚の森だ。下宿屋の中の一室に過ぎないのに、その洋室は途方もない奥行きを感じられる。ベッドがあって、簡素なライティングデスクと椅子があって、静脈のように細すぎる通り道があって、あとはすべて本棚だ。初めて部屋に入った時は眩暈めまいを覚えるほどに現実味が薄かった。以来僕は下宿屋に住む他の住人たちにならい、その場所を『魔法図書館』と呼んでいる。


 さながら彼女は図書の森に暮らす姫君である。


「漫画は読まないの?」と聞いたところ「読みますよ」と軽く流すような返事があった。


「小説と同じくらい漫画も好きですよ」


 それからゲームやアニメも。音楽も中々にマニアックなものを聴いて楽しんでいるらしい。彼女はインドア気質で、僕とよく似たありふれた趣味をしているようだ。


「小説ばかり読んでいるから、小説にしか興味がないのかと思った」


「そんなことありません」


 答えながら、彼女は活字を追ってページをめくる。


 まだ小説の魅力を知らない当時の僕は、漫画を借りて読もうと魔法図書館を探索した。本棚の谷間に踏み入って窓の日差しから遠くなると、途端とたんに闇が色を濃くする。天井まで届きそうな背丈の本棚たちに見下ろされている。頭上の本は脚立きゃたつがなければ背表紙の文字を見ることさえできない。


「脚立って置いてあるかな」


「奥に梯子はしごがあります」


 背表紙で埋め尽くされた突き当りまで行くと、左手のすみに黒い梯子が見えた。


 そうして上は梯子を使い、下はうようにして根気よく漫画を探し続けてみるも、あるのは活字の本ばかりで漫画らしきものは一冊も見当たらない。仄暗ほのぐらい闇の中にいても色とりどりの背表紙が並んでいるのが分かるが、果たして漫画はどこにあるのだろう。とうとう自力では見つけられないと判断して彼女に尋ねてみると、「漫画は置いてありません」とのことだった。


 随分ずいぶんあっさりと言われたものだから、落胆する以上に拍子ひょうし抜けした。


「じゃあ、おすすめの本はある?」そう返すより他にない。


 部屋の入り口に近いベッドのあるところまで戻ってくると、彼女はベッドに腰掛けたままあごに指を添えて中空をにらんでいた。「そうですね」と、呟きながら考える。


 ふいに目が合った。


「ニジンスキーやマンノウォーはどうですか?」


 彼女の声はりんりんと弾む鈴の音だ。つられて僕もほおが緩む。


「読んだことない。小説家の名前かな?」


 おそらくニジンスキーはロシアあたりの小説家だろう。無邪気に推測してみるが、僕の問いかけに対して彼女はまるでその質問を予想だにしていなかったというように、目を丸く見開いた。少し間を置いてから「ああ、なるほど」と得心したようにうなずくと、「失礼しました」と言って丁寧ていねいに頭を下げる。


「ニジンスキーとマンノウォーは小説家ではなく、往年の競走馬の名前です。先日、比嘉ひが先輩が『ここに住んでいる男子はみんな、間違いなく競馬が好きだ』と言っていたのを思いだして、つい」


偏見へんけんだよ。興味はあるけどさ」


け事はいけませんよ」


「君が言うかなあ」


「私は競馬の知識が多少あっても本を読むのが専門ですから。賭け事は専門外なのでモーマンタイです」


「また分からないことを言う」


「大丈夫って意味です」


 彼女は堪らないといった様子で肩を小さくらした。「ふふっ」と、軽い吐息がれる。


「比嘉先輩が持ちこんだ競馬に関する本がありますよ。たくさんありすぎて困るくらい。よければ一緒に選びましょうか」


「それって小説はあるのかな」


「そうですね……。多くは血統図鑑とか、調教師や騎手のデータ分析の本とか、あとは伝記、エッセイなんかもありますね。小説も、えっと……」


「やっぱりいいよ」と、僕は彼女の言葉の続きをさえぎっていた。


「読んでみたいけど、今はやめとく」


 少しだけ、彼女が残念そうにうつむくのを僕は見逃さない。本当に本が好きなのだろう。当時の僕は彼女がどれだけ本を愛しているのか知らなかったけれど、いつも真剣な眼差しで活字を追っている彼女の横顔は知っていた。だから彼女と話しているうちに、ふと、今が潮時しおどきだと思ってしまったのだ。


「一番おすすめの小説を教えてよ。君が一番好きだっていう小説を読んでみたい」


 すると一転して晴れやかな表情を浮かべ、彼女は饒舌じょうぜつになる。


「それは難しいですね。おもしろい小説は山ほどあるので」


 そこからの彼女の情熱はすさまじく、烈火れっかのように僕をがす勢いで迫って来るのだった。あれもいいこれもいいと指を折って、「十冊までならオッケーですか?」と、何やら矛盾したことを聞いてくる。僕の返答など待たず、本棚に突進しては「あれも捨てがたい。十冊なんかじゃ足りない」などと物騒なことを呟いて、分厚いハードカバーの本を抜いたかと思えばまた棚に戻し、たまに表紙をこちらに向けて僕の顔色をちらりとうかがう。僕は苦笑いで答えた。


「おもしろいかどうかは読む人の好みによるので責任は負えませんが」


 彼女が何往復もしてベッドの周りに積み上げた本の山にひるみながらも、僕はそれぞれの小説の概要を聞くことにした。ともすると冗長になる説明を強引にぶった切って、最後に一冊を選ぶと、彼女の白い頬が不敵に笑う。


「おもしろいかどうかは読む人によって変わります。でも──」


 彼女は文学少女だ。清楚せいそで、つつましく、いつも静かに本を読んでいる。ところがこの瞬間だけは自信に満ち溢れていた。「でも」と言って、深呼吸する音。


「その小説なら、読んで後悔だけはしないでしょう」


 つまりは、やはり面白いと確信しているのだ。そして実際に読んでみて、僕は思わずうなった。活字が苦手なので小説を一冊読み終えるのに休日を丸ごと費やした。無我夢中で読んでいた。文字だけで想像させる物語の世界に魅了され、読破してしまうとしばらく何も考えられなかった。面白い。それ以外の感想なんてすぐには思い浮かばない。著者はよくこんなものを書けるなと、ただただ感心するばかりだった。活字だけでこんなに満足できてしまうのか。


 僕は遅読家だ。しかしこの日を境に苦手意識のからを破って、本の虫となった。読んでも読んでも魔法図書館にはまだまだ未読の本が溢れていて、読むスピードが上がらないのが実にもどかしい。


 聞くと彼女は魔法図書館の蔵書をほとんど読み尽くしているようだった。彼女が所有する本だからといっても、数千どころかきっと一万を超える蔵書があるだろう。こんなに大量の本をどうやって手に入れたのか疑問に思うと同時に、僕が人生を捧げても読み切れないであろう圧倒的な冊数の本をすでに読んでいることがうらやましかった。


 彼女には読書の才能があり、僕が知らない物語をいくつも知っている。


 僕は密かに彼女を称賛し、尊敬した。


 ──ゆえに敬意を表して、水谷みずたに紗羽良さはらのことは『サハラじょう』と呼んでいる。


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