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真夏のミステリーツアー【アンソロジー企画】  作者: 真夏のミステリーツアー参加者一同
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「優毒~・lenient drag・~ 後編」 佐野すみれ 【オーバードーズデトックス文学】


***


 目が沁みるほど眩しい茜色の夕焼け。冷たい波飛沫を轟かせる暗青色の海。赤と青のコントラスト。いつも瞼を閉じれば浮かんでくる悪夢の景色。ゾートロープの追憶。

 薺は今、崖の上に立っていた。それまで自分が何処にいて、何をしていたのか、靄がかかった記憶では何も思い出せないけれど、この悪夢の光景は覚えている。そして、悪夢の記憶が正しければ、薺の隣にはもう一人いる。薺と手を繋いだもう一人、小さい頃から一緒にいた、一番、大切な。


(………芹花(せりか))


 薺は自分の隣にいる親友の名を呼んだ。しかし、その呼び声は言葉の記号となって外へ出されることはなかった。それでも、芹花はまるで薺の声が聞こえているように、薺の方へ顔を向けると、可愛らしい小動物のような笑顔を浮かべて薺に話し掛けてくれた。


「薺。本当にいいの?私達、小さい頃からずっと一緒にいるけど、何もここまで私と一緒にいることないよ?」


 ことさら明るく冗談めいた口調で、芹花はそう言った。その笑顔も言葉も、これから死のうとしている人間には全く不釣り合いなもので、本当に自分達は今から死ぬのだろうかと思ったことを、薺はよく覚えていた。けれど、その後自分が芹花に何を言ったのかは、よく、思い出せない。


「薺はさ、本当優しいよね。幼馴染みっていうだけなのに、私と、こんな恋人みたいに無理心中してくれるなんて…本当、優しすぎるというか、お人好しすぎるというか…昔から私、薺に頼ってばっかりだなぁ」


 そんなことない。薺は芹花にそう伝えたかった。けれど、この時自分はその言葉を芹花に言うことができたのだろうか。やはり、自分が芹花に言った言葉だけが、よく、思い出せない。


(芹花…違う。違うんだよ…私…芹花が言うほど優しくないよ…)


 いつも明るく笑顔の絶えない、皆のアイドルのような存在の芹花が薺は小さな頃から大好きだった。けれど、昔からの付き合いが長い分だけ、薺は芹花のお日様のように明るい笑顔に隠された、他人には決して見せない苦しい影の部分も知っていた。

 まともな定職に就かない父親は飲んだくれの最低野郎の挙げ句、酔うと芹花の母親に暴力を奮うDV男であった。母親はそんな夫に愛想を尽かし、芹花が中学に上がる前には余所に男を作り、まだ子供の芹花一人を牢獄に置いて、自分だけが牢獄の鍵を見つけて逃げ出した。それでも、芹花は学校でも薺と二人きりの時でさえ、明るく社交的に振る舞い、笑い続けていた。まるで、笑うことを止めたら死んでしまうかのように。そんな風に芹花はいつでも笑っていたと、薺はずっと思っていた。そんな健気に咲き続ける小さな花のような芹花を、薺は大切に思っていたし、大好きだった。

 できることなら、自分がこの子を守ってあげたいと願った。


(でも…守れなかった…私じゃ…芹花を守ることも…救うことも…できなかった…)


 二年という大学生活を得て、無事に二人揃って三年に進級できることも決まり、穏やかな春休みも半ばに差し掛かった頃、芹花の様子が可笑しいことに、薺はやっと気がついた。

 食欲が著しく低下し、よく吐き気を催すようになっていた芹花の容態は、誰がどう見ても妊娠の兆しを訴えるものであった。

 心配になり芹花を問い質した薺は、そこでようやく、自分がどれだけ無力なのかを思い知った。


─『お父さんにね…無理矢理、されちゃったんだ。私』


 恐ろしくて悲しい真実を打ち明けた時ですら、芹花は笑っていた。

 薺は、どうしてこんな時まで笑っているのと芹花を抱きしめながら、泣きたい気持ちでいっぱいになった。けれど、一番苦しい思いをした芹花本人が気丈に振る舞っているのに、部外者の自分が涙を流す資格がどこにあるのだろう。

 誰よりも一番近い場所で、一番彼女を見守っていると思っていた薺は、誰よりも一番近い場所で、一番彼女を傷付けているのは、他でもない、あの最低な父親であったという事実をこの時やっと、思い知ったのである。そして、守りたいと思う自分よりも、傷付けようとする父親の方が、遥かに芹花の一番近い場所にいたという簡単なことに気がつけなかった馬鹿な自分が、ひどく、怨めしかった。

 芹花に何を言えばいいのだろう。何という言葉を掛ければいいのだろう。薺が必死に最適解を探していた時だった。芹花があの言葉を言ったのは。


─『薺…私…私…もう、だめかも………死にたい』


 死にたい。その言葉を口にしたときも、芹花は笑っていた。

泣きながら、笑っていた。


 そんな芹花の姿を見てしまった薺は、もう、この言葉を言うしかないと思ったのだ。


『芹花……………一緒に、死のうか』


 薺の放った言葉に芹花は一も二もなく、ただ頷いた。その時の芹花の顔は、無防備で安心しきったとても穏やかな表情であったことを、薺は生涯忘れることはできないと思った。


(そう…私が…私が芹花に死のうって誘ったようなもので…芹花は…ただ、死にたいって、私に言葉を漏らしただけで……)


 自分の隣で笑顔を浮かべ続ける芹花を見て、薺は心が潰れる音が聞こえたような気がした。


「それじゃ、薺。そろそろ、いこっか。二人で一緒にさ…どこまでも、どこまでも」


 荒々しい波が崖下の岩場を激しく波打つ音。頬を掠めるつんざくように冷たい潮風。一歩一歩、手を繋いで近付いて行った。

 生と死の境界線が途切れる場所まで、薺は芹花と手を繋いで歩み寄った。


(あぁ…駄目…駄目だよ…そっちにいったら………だめ…だめ…だめ…だめぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!!!)


 力の限り声を振り絞って叫びたかった。けれど、やはり薺の声が外へと出ることはなく、全てがするりと手の平から溢れ落ちていく。そう、丁度。繋がれた手が(ほど)かれるように、するりと離れていった。


 薺は、死の境界線を跨ぐ一寸間で、芹花と繋いでいた手を離してしまったのだ。

 芹花と一緒に居続けるという決意よりも、一瞬ちらついた死への恐怖の方が、薺の心を侵食した果ての結果。

 離してしまった手が再び繋がれることはなく、芹花はそのまま、一人暗く冷たい海へと飛び下りた。

 その悪夢の光景が、薺の脳内で何度も何度も繰り返し上映されている。

 何度も、何度も、自分が死へと誘ってしまった親友の死と、親友を裏切ってしまった愚かな自分の誕生に、繰り返し(うな)され続けている。


***


─「…わさん……」


 誰かが自分を呼んでいる。そう意識がはっきり告げているのに、体が思うように動かせない。薺は開くことができない自分の瞼に鬱陶しさ感じる。


─「と…わさん…」


 間違いなく自分は呼ばれている。あぁ、早く目を覚まさなくては。早く起きなくては。薺は瞼にいっそう力を込めた。


「とき…さん……常磐さん!!」


 薺は自分のことを引き戻そうと、懸命に痛切な呼掛けをする声をはっきり耳に捉えると、その声に呼応するかのように忽ち閉ざし切られた瞼を開くことができた。


「……イベリス…さん…?」


 開かれた薺の目に最初に写ったのは、あの綺麗な碧色の瞳をした天使のようなイベリスの、不安気そうな顔だった。よく見ると額にうっすらと冷や汗のようなものをかいている。


「あの…私…」


 一体全体何があったのか。薺は意識が無くなる直前のことを思い出そうとするが、なんだか途轍もなく体が重たく、そして冷たい。これまでに感じたことのない自身の冷たさと体の硬直感に、薺は上手く思考を巡らすことができない。 辛うじて把握できることは、櫟少年が眠っていた寝椅子に今自分が眠らされているということのみである。


「あぁ…よかったです…常磐さんの意識がちゃんと戻られて…本当によかった…」


 寝椅子に眠る薺の側で、ずっと跪きながら手を握りしめていたイベリスの手はとても温かく、生きていることの証明のように薺は思えた。しかし、どうしてそんなに自分のことを心配してくれているのだろうかと、薺は未だ硬直感が抜けず傾げることのできない首を傾げながら思った。


「…イベリスさん…指…どうしたん、ですか…?」


 自分の冷たく強張った手を握りしめ続けてくれるイベリスの手に、ふと視線をさ迷わすと、その指先には包帯がぐるぐるに何重にも巻かれていた。


「あぁ、これは…先ほど常磐さんが意識を失ってしまわれた瞬間、驚いて思わず持ってきた紅茶のセットを落としてしまいまして…その破片を片付けた時に少し切ってしまっただけなので大丈夫ですよ」


 イベリスは薺の指摘に、何でもないという顔で微笑みながら優しく言った。


「それに、僕の心配をなさるよりも常磐さんご自身の方が、ずっと危ない事態だったんですから。僕のことなんてお気になさらなくていいんですよ」


 真面目で真摯な双眸に見つめられ、薺はどうやら自分がわりと危険な事態に晒されていたことを、今更ながら把握してきた。


「そんなに心配しなくても、別に完全に死んだりしないよ」


 優しいイベリスの声音とは対極的な厳しい櫟少年の声音に、薺は思わずびくりと反応を示してしまった。とはいえ、今もって硬直状態なので実際にはぴくりとも動いていない。

 櫟少年は寝椅子からテーブルを挟んだ向かいにある、たいそう立派な椅子に優雅に腰掛けていた。まるで椅子が玉座のように見える。

 呑気な欠伸を交えたように話す櫟少年の態度に、イベリスはまたも母親が子供を叱るような領分で嗜めはじめる。


「櫟さん!何他人事みたいに言ってるんですか!もとはと言えば貴方があんな真似をするからであってですね…!」


「人助けをしろって言ったのはリス、お前だろ。第一、唾液程度じゃ死にはしないって知ってるでしょ?」


「なっ…だからってですね!やり方というものがありますし、万が一ということだってあるんですよ!」


「万が一があってもお前がいれば大丈夫だろう。それに、あれだ…あー…えっと…“ふぁっく療法”ってやつだよあれは」


「それを言うなら“ショック療法”です!だから慣れない横文字は使わないようにと…いえ、そもそも櫟さんが“ファック療法”なんていったら洒落になりませんから!!治すために殺してどうするんですか!!」


 やんややんやと繰り広げられる母子漫才(おやこまんざい)に、薺はまたも置いてきぼり感をくらいつつ、そうした記憶の糸を辿っていくにつれ、意識が無くなる直前のことを思い出した。


(…!あ…そうだ…私…櫟くんに、突然、キス、されて………)


 口づけをされていた間は状況処理を仕切れない混乱状態のため、余裕がなかったけれど、こうして一旦時間を置いてから思い出してみると、途轍もなく恥ずかしい桃色の記憶が薺の頭を沸騰させてくる。

 年下の、それもどう高く見積もっても十五、六歳ほどの少年から、あんな大人でも真似できそうにない舌の這わせ方をされ、薺の許容範囲(キャパシティ)は崩壊寸前である。心なしか冷たい体が体温を跳ね上げているようにさえ思えた。


「…で、お姉さん。一度死んでみた感想はどう?」


「………………………え?」


「ちょっと、櫟さん!」


 一度死んでみた感想。櫟少年の言っている言葉が薺は理解できず、イベリスは困った様子で櫟少年を咎めようとしている。しかし、櫟少年は誰の反応も言葉も気にすることなく、黒い着流しのたわんだ袂を直しながら、事も無げに話し続ける。


「さっきまでお姉さんの心臓は止まってたんだよ。気を失ってたわけでもないし、眠っていたわけでもない。生命活動が停止していた状況、いわば仮死状態になってた。お姉さんが望んだ通り、俺があんたを死なせてあげたんだよ。ま、仮だけどね」


「あの…すみません…その…状況が、上手く…呑み込めません…」


 さっきまで自分は死んでいたなどと言われて、はい。そうですか。なんて一声で済ませられるわけがない。しかし混乱する薺に構うことなく、目の前の死神の語りは続く。


「自分が本当に死んでいたかどうかなんて実感する必要はないけどね。死んでたっていう証明をしろなんて言われてもできないし。まぁ、証人ならそこにいるけど…一応身内も同然な間柄の人間だし、あんまり判断材料にはならないけど」


 ちらりとイベリスに視線を寄越す櫟少年に対し、イベリスは明らさまに視線を合わせないように目を反らす。けれど薺には、そのイベリスの反応こそが自分が仮とはいえ死んでいたことの証明に繋がっているように思わずにはいられなくなった。

 何より、体の以上な硬直感といい体温の冷たさといい、目が覚めたときに最初に写ったイベリスの不安と安堵の表情が、決定付けとなる。


(私…本当に…死んでたの…?でも、なんで…?どうして…?)


 考えられるのはあの時、櫟少年が自分に口づけをしてきた際に、何か毒を含みながら口づけをしていたということだが、もしそうだとしたら、櫟少年は自分の口に何かを含む動作をしていることになるし、何より、そんなやり方では自分だって毒にやられる可能性が多いにある。人に毒を盛るにはリスクが大きすぎる手法だ。

 ぐるぐると無限地獄をさ迷う思考回路に、薺の脳はついていくことができず、考えることが馬鹿らしくさえなってきた。それに、何がどうあれ自分はさっきまで死んでいて、そして、今また息を吹き返したのである。その事実は何も変わることがない。


(でも…じゃあ…さっきまで死んでたとしたら…私…どうしていつもの悪夢を見ていたの…?)


 生きているときに変わらず再生され続けた悪夢の追憶。もし、死んでいたのだとしたら、もうそんな悪夢も見なくて済むのではないか。薺は、櫟少年には話さなかった死にたい理由のもう一つを考えていると、その考えを見透かすかの如く、櫟少年の刀剣のような言葉が引き抜かれた。


「死にたい人の大元の理由ってさ、辛い現実を捨てて楽になりたいっていうのが大半なんだよね」


 ぞくりと震え上がるような冷たい声に、口許だけを歪ませた冷たい笑顔。


「でもさ、実際死んでみたところで楽になることなんて一つもないんだよ…お姉さん?」


 じわりじわりと獲物を甚振(いたぶ)るような、毒の声。薺は耳を塞ぎたくて堪らない。けれど、体の硬直はまだ解けることがない。

 イベリスが手を握りしめてくれていることだけが、薺にとって唯一の救いであった。


「強い未練が残った魂ってさ、よく成仏できずに現世を漂い続けるっていうけど、あれ、あながち間違いでもないんだよ。強い未練はね、お姉さん。そのまま自分を永遠に縛り続ける枷になるんだよ。だから、今お姉さんが本当に死んだとしても、多分、穏やかな死なんて迎えられないよ」


 何もかもお見通しだといわんばかりの朱殷色の瞳に、迷子になった愚かな自分の姿が写っているように薺は見えた。けれど、勝手に手を離して迷子になったのは他でもない、自分のせいである。


「私…私は…どうしたら、いいんですか…」


 非力で辿々しい迷子そのものの弱々しい声を絞りだすだけで、薺は精一杯だった。

 そんな薺の答えのない問いに対し、櫟少年は当たり前のことを聞くなという素振りで肩を竦めながら言い切った。


「とりあえず、一人で死んでいった親友の墓参りにでも行ってみたら?死ぬほど大切に思ってた相手なんでしょ?だったら先ず、本人の前で直接全部話してみなよ。そしたら案外、親友はお姉さんに生きてほしいって思ってるかもしれないし。何より、親友が会いに来てくれて喜ばないようじゃ、真の親友なんていえないね」


 常識的なことを一々聞かないでよとぶつぶつ文句を垂れる櫟少年の言葉は、投げやりで他人事のような発言だが、声の調子は刀を鞘に納めたものであった。


(…そんな…でも、私…芹花を裏切って今も生きてて…許されるわけ…ない…お墓参りなんて…会いに行く権利なんて…ない…)


 芹花の手を離してしまった自分を、芹花が許してくれるはずがない。薺は芹花と繋いだ手を離してしまった自分が、どうしても許せなかった。今でも死ぬことを恐れている自分のことも許せない。薺は、完全に道を見失った迷子だ。しかし、そんな迷子の手を握り続けてくれているイベリスが、薺の気持ちを汲むよう優しく諭しはじめてくれる。


「常磐さん。常磐さんが死をお考えになるようになった理由は、櫟さんから伺いました。大切なご友人を亡くされたと…それ以上の詳しい事情はお聞きしませんし、無理に全てを打ち明ける必要もありません。貴女が死にたいと思ってしまう気持ちを、僕は否定するつもりもありません。でもね、常磐さん。死にたいということと、死ななくてはということは、全く違うことであるというのは、知ってほしいです」


「…死にたいと、死なないと…?」


「はい。僭越ながら常磐さんをお見受けする限り、貴女は死にたいと願っているというよりも、どこか、自分は生きていてはいけないのだというお考えの方が強く感じられます。死なないといけないという強迫観念と、死んで楽になりたいという希死念慮は、全く異なるものだと僕は思うんです。だから、その…もし、少しでも死への願望が強迫観念からくるものであるのでしたら、貴女は、生きていてもいいんです。死んだ方がいい人間なんて、誰にも決めることはできないんです」


 生きていてもいい。イベリスのその言葉は、甘い甘い砂糖菓子でできた薬のように、薺の胸に溶け込んでいく。

 苦い毒と甘い薬。相反する二人の言葉は、どちらも優しい毒と薬のようだと思いながら、薺は、漸く涙を流すことができた。


***


「あの…本当に、色々とご迷惑をお掛けしてすみませんでした。あと…ありがとうございました」


 暫く硬直状態が続いた薺の体も、夕暮れ前には通常通りに戻ることができた。この時間であればまだ最終電車に間に合うからと、薺は蘭家の屋敷をおいとましようとするところである。

 心なしか薺の表情は蘭の森に入ったときよりも、屋敷に足を踏み入れたときよりも、毒気が抜けたように晴れやかになっている。


「本当に迷惑極まりない客人だったね」


「櫟さん!」


 櫟少年のぶれることを知らない傲岸不遜な態度をイベリスは母親のように嗜め、薺はその光景にくすりと笑うことができた。


(なんだか、物凄い体験をいっぱいしちゃったけど…でも…)


 噂とは少し、いや、かなり違ったけれど、意地悪な死神のような少年と、優しい天使のような青年が、この森にはいたのだなと薺は改めて思った。そして、このことは決して他言無用。特に二人から何かお咎めをされたわけではないけれど、薺はこのことを誰にも話さない秘密にしておこうと胸に誓った。ついでに自殺未遂を図ろうとしたことも、自分が入る墓まで持っていこうとも。


「まったく櫟さんは…すみません常磐さん。この人、こんな傍若無人に見えますけど、本当は優しい人なので…どうかこの度のことは穏便に済ませていただけましたら…」


「だからお前は俺の母親か。一々保護者面して…腹立つ」


「そんな…いえ。あの…確かに、沢山衝撃的なことがありすぎて、まだ頭のなかも、心のなかも、十分に整理できていないかもですけど…でも……とりあえず、ちゃんと家に帰って、それから、色々なことを一つ一つ整理してみようと思います」


 先ずは家まで帰ろう。そして、ご飯をきちんと食べて、お風呂に入って、お布団でゆっくり休もう。そうして、日々の暮らしを取り戻せたら、親友の…芹花のお墓参りに行こう。芹花にきちんと話をしよう。届くかどうかは分からないけれど、全部話そう。それから、芹花によく似た愛らしく咲き誇る小さな花達を供えに行こう。薺は、何時になるか分からない未来の予定を考えることができるようになった。それは、紛れもなく、この変わったご隠居暮らしらしき少年家主と、その変わった少年家主と一緒に暮らしている変わった青年。二人のお陰なのだから。


「あの…お屋敷から駅までは、道を素直に辿って行けば迷うことなく行けるんでしたよね…?」


「はい。でも、本当に大丈夫ですか?迷うような道はないですけど、家に着くまでお話ししたように、距離がけっこうありますよ?」


 心配そうな顔のイベリスに、薺は朗らかな笑みを返しながら言う。


「大丈夫です。多分、もう…森のなかで道に迷うことも、蹲って動けないままでいることも、ないと思います」


 真っ直ぐ碧色の瞳を見つめながらそう言った薺の姿に、イベリスは安心した様子で、ふわふわの砂糖菓子を束ねた笑顔を浮かべる。


「それは良かったです。でも、もしまた森ではない道に迷われたときも、遠慮せずにこの家に来てくださいね。あぁ、でも、お家から遠く離れた辺境の地ですから、そう易々とお越しいただける場所じゃないですよね…」


「いや。お前何勝手なこと(のたま)ってるの。此処ら一帯全部俺の敷地だから。家主も俺だから。全ての権限は俺がもってるんだからね?」


「えー櫟さんそんな冷たいことばかり言わないで…」


「うるさい」


 背伸びをしながら無理矢理にでも背の高いイベリスの頭を(はた)くと、櫟少年はちらりと薺に一瞥をくれた。

 生きることを考えさせられる朱殷色の瞳を向けられても、薺はもう、こわいとは思わなくなっていた。


「えっと、あの…櫟くんも…その、お世話になりました」


 櫟少年の瞳に恐怖は感じなくなったが、その代わり櫟少年を見るとあの濃厚な口づけを意識せざる得なくなった薺は、頬を赤らめてしまうようになっていた。しかし、やはり櫟少年は然してそんなことは気にも止めていないのか、薺の言葉に対してまた百八十度変わったところに食いついてくる。


「櫟くんじゃない。櫟さんと呼べ」


 忌々しげな表情を浮かべる櫟少年に、イベリスはくすくすとふんわり笑うと、最後に薺にこう言った。


「常磐さん。また機会がありましたらお会いしましょうね。できれば、今度はゆっくりお茶を飲みながらお過ごししましょう。それでは…どうか道を見失わないよう、お気をつけて」


 隣に立つ家主は二度と来るなと毒を吐いているようだったが、薺は一言はいと返事をすると、そのまま蘭駅へと真っ直ぐ歩き始めた。

 躓くことも迷うこともなく、真っ直ぐ真っ直ぐ、家までの帰路を辿っていく薺の足取りは、もう覚束ない幽霊のようなものではなく、しっかり地面を踏みしめる生者の足取りであった。






***






「良かったですね、彼女。少し元気を取り戻せたようで」


 薺が屋敷から帰路へとついた暫く後、二人はリビングでハーブティーを飲みながら、ゆったり過ごしていた。ローズヒップのハーブティーは仄かな紅色が色づき、ほんのりと甘い香りを漂わせながら湯気を揺蕩わせる。淹れたのは勿論イベリスで、家主は玉座に座ったままお茶を堪能するのみである。


「それにしても、櫟さんが本当に彼女のために一肌脱ぐなんて…やっと人助けに目覚めてくれたんですね」


 喜々とした声をあげて語り続ける同居人に、家主は飲み掛けのハーブティーをソーサーに置いてから、溜め息を吐いた。しかしそんな家主の明らかな否定行為を物ともせずに、イベリスはふわふわと微笑みながら話し続ける。


「あぁ。でも、あれはちょっと…いえ、かなりの荒療治ですから、もう二度としないでくださいね。僕本当に驚いたんですよ。紅茶を持って部屋まで戻ってきたら、櫟さんがあんな…殺人行為を働いていて」


「リス。その平和呆けした口を黙らせて今すぐ指の包帯を取れ」


 同居人のお人好し勘違い話にうんざりしてきた家主は、主従モードで同居人に命令を下す。鞘から取り出した刀をちらつかせるようなその声に、イベリスは粛々と従い、指先に巻いていたぐるぐるの包帯を解く。

 包帯を解いた指先は、昼に傷付いたものであるにも関わらず、瘡蓋(かさぶた)はおろか血が一瞬でも止まったような形跡を一切感じさせない、真新しい傷のように血を滴らせ続けていた。


「何が落とした紅茶セットを片付けたときにできた傷だよ。自分でぱっくり切り裂いたくせに」


 よくずっと包帯を巻いただけでもったものだと呟きながら、家主は血が滴り続ける同居人の指先を見つめた。


「だって、ああしないと…僕の血を飲ませないと、常磐さんがあのまま櫟さんの毒で死んでしまうと思ったんです」


「だから、唾液程度の濃度じゃ絶命するほどの到死量には及ばないんだよ…ばぁか」


 暴言を吐いたのち、家主はどうしようもなくお人好しの同居人。イベリスの傷付いた指先を口に含んだ。

 そのまま数秒間、傷口に舌を這わせて唾液を消毒液のように染み込ませていくと、血を滴らせていたイベリスの指は、もとの真っ白な指先へと治った。傷痕すらない完璧な戻りようである。

 イベリスの指から口を放すと、家主は着流しの懐から手拭いを取り出して、丁寧に自分の口許だけを拭く。イベリスの指先は完璧に綺麗な指に戻ったが、家主の唾液がそのまま付着しているために、てらてらと淫靡に光ったままである。


「櫟さん…傷の治療を施してくれるのは有り難いんですけど…どうせなら僕の指も拭ってくれませんか?」


「知るか。そのくらい自分でやりなよ。解毒体質者(アンチドートイディオシンクラティック)


 家主が唯一得意とする横文字の言葉に、イベリスは少し膨れた様子で反論を試みた。


「なんですかそれ。それをいったら櫟さんなんて有毒体質者(ポイズンイディオシンクラティック)じゃないですか」


「そうだな。お陰で俺の体内は猛毒で構築されてるし、そのせいで俺自身は一切の害を受け付けないように抗体ができる始末で、おまけに…」


 言葉を一旦区切り、袖から陶器のように傷一つない腕を露にすると、その腕を自分の歯で思い切り噛み千切る。家主の痛々しい行為にイベリスは思わず目を顰めてしまう。しかし、噛み付いたはずの腕の部位は、うっすらと血を滲ませた後、歯形すら残さずに跡形もなく消えてしまった。


「どんなに傷付けても直ぐこの通り、傷が治る。このせいで俺はもう何年も死を迎えられない憐れな不老不死。死神に嫌われた男って俺みたいなのを言うんだろうね」


 肩を竦めて態とらしくがっかりした様子を示す家主。蘭櫟は、見た目こそ少年そのものだが、実際の年齢は本人も数えるのを忘れてしまうくらい年を重ねた老齢者である。したがって櫟少年…もとい櫟老人は、かなりの歳月を生きた猛者なのであった。


「櫟さん、あの…すみません」


「どうして謝るリス」


「だって、その…いくら傷がすぐ治るとはいえ、痛みは感じますよね。だから…茶化すようなことを言ってすみません」


 心底反省するかのようにしゅんと項垂れるイベリスに、櫟は心底どうでもよさそうに言葉を投げ掛ける。


「別に今さら痛いも苦しいもないよ。そんな感覚、とっくに何処かに忘れてきちゃったから」


 永い時を生きてきた櫟は、本当に体の感覚というものが曖昧になっていた。そのため櫟自身は特に気にしていないのだが、それでもイベリスはどこか悲しそうな顔を浮かべ続ける。寧ろ櫟は、そんな風に他人のことばかり気にかけるイベリスの方が心配であった。


「俺の心配は別にいい。それよりお前の方がよっぽど危ないでしょ。他人を癒せる万能の薬が体内で生成できるくせに、自分の体は決して癒すことができない。対他人用の解毒と治癒能力しかないんだから」


「あはは…そう言われてみるとそうかもですね。でも、今は櫟さんのお陰でどんな傷も直ぐに治してもらえますし」


「…呑気な奴だな」


 どういった科学的作用が働いているのか、解毒体質者であるイベリスには有毒体質者の櫟の毒は殺傷能力としては効かない。その代わりの作用であるのか、イベリスの傷を治すための薬として効力が働くようにできている。まったくもって不可解極まりないが、櫟の悲願を果すためには、イベリスの存在が必要不可欠のため、死なせないよう側に置いて管理している。


(…俺が死ぬためにはこいつの強力な解毒作用の血が鍵になるはずなんだ…だから薬袋の研究施設から引ったくってきたっていうのに…!)


 櫟は、実は極度の死にたがり屋であった。何をしてもこの厄介な有毒体質のせいで死ねず、歳もとれない不老不死の体は、死という人間に与えられるはずの時間制限(タイムリミット)がなく、永遠という無制限の時間を課せられたも同然なのだ。


(死ぬための鍵になる存在は人助け好きの慈善事業家博愛主義者の挙げ句、何かと保護者面を晒すお節介野郎!こいつのせいで何度似非自殺志願者どもの姿を目にするはめになったことか…!)


 櫟は、自殺志願者たちの死にたいという気持ちだけならば理解することはできた。しかし、いつか必ず死ぬことができる身分のうえに、優しく楽に死にたいなどと我が儘で強欲極まりない輩たちを見ると、腹の虫がおさまらなくなり、虫唾が走って大変苛ついてしまうのである。


(死ねる御身分でその上穏やかに死にたい?まったく腹が立つ!!)


 櫟は苛々する気持ちを抑え込むように、ハーブティーの入ったカップを持ち上げると、一気に飲み干した。ローズヒップのまろやかな酸味が口中に広がっていく。


「でも、改めて考えてみると、僕と櫟さんって本当に皮肉なほど両極端な体で生まれてきたんですね」


「…何を今さら」


 のほほんと微笑み続けるイベリスに、櫟は先までの苛つきの毒気が損なわれていく感覚に、再度深い溜息を吐いた。


 他人を傷付けるが、自分は決して傷付けない有毒体質者。

 他人を癒せるが、自分は決して癒せない解毒体質者。


 あまりに相反する特異体質の持ち主たち。そして、相反する考えを持った持ち主たち。


「僕は櫟さんのお陰で今も無事に生きることができているわけですし、お互いに無いものを補えているみたいで、いいですよね」


「…そうかもね」


 もし、このお人好しに自分を殺してほしいなどと願ってみたところで、きっと、素直に叶えてくれるわけはないのだろう。櫟は、イベリスのふわふわ砂糖菓子スマイルでベッタベタにされつつある自分に気がつかないふりをした。


「ところで櫟さん。本当にどういう風の吹き回しで、常磐さんにあそこまで救いの手を伸ばしてくれたんですか?」


 また話題が先の彼女へと転倒していくのかと、本日何度目になるか分からない溜息を思いきり吐きながら、櫟は素直に質問に答えてあげることにした。


「名前が気に入ったから」


「え?名前ですか?確かに薺さんって可愛らしい名前だと思いますけど…本当にそれだけですか?」


「本当にそれだけだよ」


 イベリスの花の和名がトキワナズナであることを知らないのだとしたら、このままずっと知らずにいればいいと思った櫟は、このことは教えず秘密のままにしておこうと、心のなかでほくそ笑んだ。

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