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真夏のミステリーツアー【アンソロジー企画】  作者: 真夏のミステリーツアー参加者一同
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「優毒~・lenient drag・~ 前編」 佐野すみれ 【オーバードーズデトックス文学】

 不規則に揺れ動く電車の振動に抗うことなく、ただ、されるがまま。なすがまま。好き勝手に身を揺らされる自分の覚束ない足許を眺めながら常磐(ときわ)(なずな)は、頭に思い浮かんではぐるぐると壊れたレコードのように何度も再生される自分の声を、その言葉の意味が確固たる覚悟を宿すものかどうかと確認するようそっと瞼を閉ざし、諳じた。


(……………死にたい)


 薺が思うことはただ一つ。それだけだった。

 その言葉だけが呪縛の如く脳に絡みつき、薺のその気持ちは延々と揺れ続ける電車の車両とは正反対に、決して揺れ動くことのない覚悟となって、薺の感情を微動だにすることはなかった。


 薺の閉ざされた瞼の裏には、目が沁みるほど眩しかった茜色の夕暮れと、冷たい波飛沫(なみしぶき)がつんざく暗青色の海とが見事なまでに明暗を帯びた、美しくて悲しいコントラスト。それは、胸の奥。心臓を握り潰されるような苦しい景色であり、焼きついてしまった映像はゾートロープのように回り続けながら休むことなく上映される。

 薺はこの悲劇の上映を止めるべく都市伝説染みたとある噂を、風の便りのような根も葉もない御伽噺だけを頼りに、長い時間電車の揺り篭で微睡み続けた。それは、悪夢が脳裡に再生され続ける地獄のような揺り篭であった。


***



 “蘭駅”という駅が電車の終点であり、そして薺の終着点であった。都市部から大分離れた場所にあるこの駅はいわゆる無人駅であり、塗装の剥げた駅名の看板に、木材で作られた小さな駅舎は、長年の風雨に晒されたのだろう。痛々しい崩壊の兆しを訴えており、この土地が滅多に人の寄りつかない無法地帯であることが窺えると薺は感じた。事実、この駅に降りた人物は薺一人だけである。


 ざっと駅周辺を見回して薺が感じたのは、この土地がまるで人の気配を感じさせないということだった。

 流石にこんな辺境の地に駅ビルがあるとは考えていなかったけれど、シャッターがずらりと降ろされた商店らしき廃れた町並みくらいはあってもよさそうなものの、何処を見ても駅の周りは軒並み木が覆いつくしているばかりで、ここはまるで駅というよりも、深い森に掘っ立てられた襤褸(ボロ)宿舎のようだなと薺は思った。

 こんな森のなかに駅というものが、電車などという現代において当たり前の文明が開通していることが奇跡のようであり、自分は夢か幻でも見せられているのではないかと疑いたくなるほどである。けれど、その現実感を感じられない、世の現実から切り取られたようなこの雰囲気こそ、本当に此処が噂の蘭駅なのだろうという確信を薺に持たせてくれるのであった。


(あの噂は本当だったのかも…もし、本当に噂の通りなのだとしたら…このまま…)


 薺は無人の改札口に乗車分の切符を置くと、そのまま地に足が付いていないような、酷くふわふわと浮いた足取りで森の中へと歩みを進め始める。

 森は思ったほど鬱蒼とした仄暗い不気味さを感じさせることもないが、心が安らぐような森林浴になるようなあたたかな木漏れ日も感じることはない。仮にどちらにしても、薺にとってそれはどうでもいいことであり、気にする要素ではないのだけれど。

 何しろ、薺が考えることはただ一つだけでいいのだから。


(…死にたい…死にたい…死にたい…)


 死にたい。このたった四文字の言葉を思いながら蘭駅の森林を歩くと、死神に出会える。

 その死神はとても優しい死神で、死にたいと願う者に、一瞬で死ねる毒を与えてくれるという。

 何の苦痛を感じる間もなく、それはまるで、眠りにつくような毒を。優しい死を与えてくれる神様。


 薺は大学でこの噂を耳にした時、藁にもすがる思いでこの噂を信じ、そうして辿り着いたのが、この蘭という木に取り囲まれた辺境の土地だったわけである。


 薺は数ヶ月前から死ぬことばかりを考えていた。けれど、自分で自分の命を断つ勇気をどうしても持つことができず、痛いのも、苦しいのも、怖いのも、どれも全部嫌な薺は、死にたいくせに死ぬことのできない、死にぞこないなのであった。

 だからこそ、苦痛を感じず一瞬で眠るような死を迎えられる毒があるのなら、薺はそれが欲しいと願った。それにすがりたいと祈った。それは救いになると思った。


(…お願いします…どうか…どうか私を死なせてください…死神様…私は…死にたい…死にたい…死にたい…死にたいんです…)


 死神の与えてくれる毒に思いを馳せながら、薺はまた“死にたい”という四文字の言葉を呪文のように頭で唱えながら、歩みを進める。

 浮遊しているような足取りは、まるで幽霊のようであり、虚ろな瞳に蒼白な顔色の痩せ細った姿の薺は、今のままでも十分、他の人間の目には死人に見えることであろう。


***


 どれだけ森を歩いただろうと、薺は脹ら脛の突っ張るような筋肉の強張りを感じながら思う。歩けど、歩けど、木が林立するだけの変わらない風景に、この森の道はどこまでも続く単なる迷いの森なのではないかと不安になり始めていた。


(…ひょっとして、死神の毒なんてやっぱり単なる噂で…本当は、ただ…森のなかで遭難して、餓死するだけっていうことだったのかな…)


 遭難や餓死という言葉に薺は忽ち現実感を取り戻し、その現実味を帯びた言葉は、それまでの薺の希死念慮を幾何か薄らげ、その代わりに恐怖感の方が心に募ってきた。

 あんなに死にたいという言葉を並べ立てていたのが嘘のように、今の薺の頭を覆い尽くす言葉は掌を返したようなものであった。


(…どうしよう…こわい…だれか…だれか、たすけて)


 数時間前までは、噂の死神を死ぬための救いの神だとあんなにすがり求めていたはずなのに、今や薺の心が救いを求めているのは、誰でもなく。そして、誰でもよかった。

 死にたいという欲望は陰を潜ませ、此処から助かりたいという欲望の姿を見せはじめる薺は、とことん臆病で意思薄弱な女なのだろう。

 電車に乗っていたときの確固たる死への決意なんてものは、結局土壇場になると意図も容易く消え失せていくのだろう。


(だれか…だれか…だれか…)


「………たすけて…」


 蚊の鳴き声の方がよほど自己主張があると感じ是ざるを得ない、か細い涙声をあげると、薺はその場にしゃがみ込んでしまった。

 死へと向かっていたのがまるで嘘のように、しくしくと一人肩を震わせている薺は、自殺志願者の弱々しい女ではなく、ただの道に迷った弱い少女のようである。

 このまま誰にも見つからず、一人で飢餓と夜の暗闇に怯え苦しみながら死んでいくのだろうかと薺は考え始めた。



(…やっぱり…優しい死なんて…私には…)


 望むことすら許されない罰だったのかもしれない。薺は今さらながら愚かな自分を呪い、そして、嘲笑した。


(苦しいのも、痛いのも、怖いのも…全部…全部、嫌だけど。でも…)


 この死に様こそが自分に相応しい、死へと辿り着くための相応の死因なのかもしれないと思い始めたその時だった。


「あの、すみません。大丈夫ですか?」


 ふわりと柔らかな青年の声が、まるで天の救いのように掛けられた。

 薺はその救いの声が聞こえるやいなや、しゃがみ込んだ膝に埋めていた顔を瞬く間に上げた。

 瞬間。薺の瞳に写ったものは、掛けられた声と同じ、ふわりとした柔らかな微笑みを浮かべた、碧い瞳の綺麗な青年だった。

 皺一つない清潔で真っ白なワイシャツに、濃紺色のパンツを纏ったその青年は、シンプルな服装だからこそなのだろう。一目見ただけで洗練された美しさを感じられ、それはまるで天の使いを彷彿とさせるほどのものであり、薺は、本当に天から救いの使者が訪れてくれたのではないかと、思わず頓狂なことを考えずにはいられなかった。

 それくらい目の前に突然現れた青年は、存在を疑いたくなるほど、壮麗だった。


***


 碧い瞳の青年は死人のような相貌の薺と目が合っても、優しい微笑みを崩すことはなかった。


「あぁ、よかった。ちゃんと反応できるようですね」


 自分のような(やつ)れた女に対しても、こやかな笑顔を絶やさず語り掛けてくれる青年に、薺は益々目の前にいる存在が天の使者のように思えてきた。もしかして、噂の優しい死神とは彼のことなのではなかろうかなどと考え出してもいた。


「こんな深林に女性が一人で蹲っているのが見えたものでしたので、気になって…大丈夫ですか?立てますか?」


 差し出された青年の手は、自分の蒼白い不健康そうな白さとは違う、白玉(はくぎょく)のような艶を帯びた、自然な白さが輝く手をしていた。同じ白色でも、こんなに違う印象を放つものなのだなと、薺は青年の手をじっと見つめながら思った。

 青年が伸ばしてくれた美しい手を取りたいと思う一方、薺は、自分が誰かの手を取ることに酷く臆病になっていること。強く怖れていることを感じると、折角差し出してくれた青年の手を取ることができなかった。

 それに、こんな綺麗な人に触れるなんて、自分には烏滸(おこ)がましいことこの上ないと思うと、余計にその手を取るのは躊躇われた。


「…あぁ。すみません。知らない男が突然女性の手を取ろうとするなんて、不愉快ですよね」


 差し出した手をじっと凝視するだけの薺に、青年は全くお門違いな紳士的思考の発言をしたものだから、純粋な親切心から手を伸ばしてくれた彼に、薺は強く強く申し訳なさを感じる。直ぐにそうではないと否定の言葉を発することのできない愚鈍な自分を呪い、何度も脳内で青年に土下座をする。


「えっと…僕は薬袋(みない)イベリスっていいます」


 警戒心を解くのに一番いいのは、自己紹介をすることだろうと判断した青年は、変わった名字に日本ではまず耳慣れないであろう横文字の名前を薺に告げた。すると、当然の如く薺は青年の変わった名前に食いついてくれるのであった。


「いべりす…さん?」


「はい。遠縁の者なんですけど、血縁者に西洋の人間がいまして、僕にも少し西洋の血が混ざってるらしくて…こんな変わった名前なんです」


 苦笑混じりの声とは裏腹、相変わらずふわりとした柔和な笑みをたたえる青年イベリスに、薺は、なるほど。それで瞳が碧色なのかな…などと、自然色の白い肌といい、黒髪に日本人特有のしなやかで細い骨格を思わせる体躯が相まった彼の相貌に、どこか異国の華やかな香りがまとっていることに一人頷く。


「それで、僕はこの先にある家の変わった御隠居…というよりは、家主と一緒に住んでる変わった同居人なんですけど…貴女のお名前をお伺いしても宜しいですか?」


「私は…常磐…常磐、薺です」


 ふわふわの砂糖菓子をたくさん束ねたような、優しくてとびきり甘い笑顔を浮かべ続けるイベリスに、薺の固く凍えた心はほんの少しだけ、溶けはじめたようだった。


***


 少し間を開けた隣り合わせになりながら、薺はイベリスと森を歩いていた。変わった家主とやらと一緒に住んでる家が近いので、よければ其処で少し休んでいかれませんかというイベリスの親切な誘いに、一も二もなく即座に頷き返してしまった自分に、薺は戸惑いを抱かずにはいられなかった。

 常ならば他人からの誘いなど、それも見ず知らずの異性から自宅に招かれるなどという非常事態に直面したら、草食動物ばりの逃走という本能が薺の警戒点滅機を激しく点灯するというのに、イベリスのどこか浮世離れした相貌といい、自分と年の頃が近そうな近代の男性にしては珍しい物腰柔らかな話し方といい、そういった非現実的な存在感を放つ彼に、自分はすっかりほだされてしまったのだろうかと、薺は死を渇望したはずの先までの自分はいったいどこへいってしまったのだろうと、不甲斐ない自分がさらに情けなくなり、静かにそっと溜め息を吐いてしまう。


 薺の不安定で朧気な歩幅と歩速に合わせ、ゆったりとした歩調を保ちながら歩いてくれるイベリスは、本当に近代稀にみるほどの紳士そのものであろう。絶滅危惧種のなかでもレッドデータに属するくらいに。


「一応名義上だけですけど、この森一帯は最寄駅と同じ(あららぎ)という家の私有地になっていまして、舗装された道こそないんですけど、こうして駅から一本道しかないよう作られているので、林の中へ向かうようなことさえしなければ迷うことはありませんし、素直に道に従いさえすれば、距離はありますけど家までちゃんと着けるようになっているので、遭難することもないんですよ」


「え?あ…“あららぎ”っていうんですね。あの駅…」


 薺の抱いていた恐怖心や緊張感の心境を見計らったような気の効いた言葉を、砂糖菓子(キャンディ)(タフト)スマイルで薺に話し掛けてくれるイベリスに対し、薺はといえば何とも間の抜けた返ししかできない。けれど、薺は噂から見つけ出したこの土地の名を、ずっと(らん)と思っていたので、イベリスの(あららぎ)という言葉には素直に驚いていた。よく考えてみれば蘭と書いて蘭駅(らんえき)と読むよりも、蘭駅(あららぎえき)と読む方が、音感的にしっくりする。


「はい。蘭と書いて“あららぎ”。先ほどお話ししたように、この森一帯を敷地とする家主の名字も、漏れなく(あららぎ)です」


「えっと…先ほど仰ってた、変わった家主さん…ですか?」


「その通り、その人です。先ほど蹲っている常磐さんをお見掛けしたのは僕と言ってしまいましたが、正確に言いますと、常磐さんの姿を見つけたのは彼でして」


「そうだったんですか…?え?でも、どうやって見つけて…?」


 蘭さんなる人物の所有地である森をちらりと窺いみても、防犯カメラのような機械の類いが設置されているふうには、どう見ても見受けられない。一体蘭さんという人は、どうやってこの森に入り込んだ(しかも死ぬためにだ)自分なんかを見つけることができたのだろうと、首を傾げた。


「あぁ、えぇっと…それはですね……彼の趣味が、森を見張ること…いえ、見守ること…だから、でしょうか、ね…?」


 甘い砂糖が途端に苦いカラメルになってしまったような苦笑いを浮かべると、イベリスは疑問を疑問符で返した。何をどう説明したらいいのか戸惑っているような空気を含んだその言葉に、薺はとりあえずそれ以上何も聞くことはしないでおこうと思った。何はともあれ、その蘭さんのお陰でイベリスと出会えたわけであるし、人のことを詮索するようなことが薺は苦手である。自分が詮索される側の立場になるのも、苦手であるからだ。


「あっ、彼処です。あれが僕と家主の住んでいる家ですよ」


 調度いいタイミングといわんばかりに辿り着いた、彼と変わった家主らしい蘭さんの家が瞳に写った瞬間、薺はまたも息を呑み込みそうになった。


 イベリスの細長い指先が指し示す家というのは、家。というよりも屋敷や館といった方がより正確な趣きを宿した、立派な西洋風の建物であった。

 先までの古ぼけた駅舎や繁った森の林道が嘘のように思えるほど、その建物の周囲だけがぽつりと幻想的な色彩を放っており、まるで屋敷を守るために取り囲むよう植えられている木には、小さな赤い木の実が幾つも実っていて、その赤色と同色の屋根の色は目にも鮮やかで、とても美しいと薺は感嘆の息を洩らしてしまう。


「あ…あの、すごい…とっても立派なお屋敷ですね…綺麗」


「あはは。そうですか?家主が言うには築何百年と渋とく建っている、時代錯誤の古家らしいですけどね」


 再び砂糖がまぶされた笑顔を薺に向けると、イベリスは荘厳な屋敷の扉の鍵を、かちりと開きながら言った。


「さぁ、どうぞ入ってください。此処は、森に迷い込んでしまった人が訪れる。休憩所のようなところですので」


 イベリスの天使のような声に、薺はまるで蝶が花の蜜に引き寄せられてしまうような心地になりながら、屋敷のなかへと足を踏み入れた。


***


 招き入れてもらった屋敷のなかは、外観の造りに凡そ似つかわしいほどに整えられていた。

 遠い異国の職人が丹念に命を吹き込みながら作り上げたドールハウスのアンティークが、全て人間が使うのに調度良いサイズまで大きくされたような雰囲気で満ち満ちた屋敷内に、薺はまたしても息を呑み、そして感嘆せざるを得なかった。


(…凄い。なんか…外国の御伽噺のなかに迷い込んだみたいな感じ…)


 不躾とは分かっているが辺りをきょろきょろと見回さずにはいられないほど愛らしく美しい調度品の数々に目を奪われていたが、ふと、薺の頭に冷静で冷淡な自分の声が蘇ってくる。


“さっきまで、死にたくて森に迷い込んでいたくせに。何が御伽噺に迷い込んだみたいだ。嗤える”


 電車に揺られている間は揺らぐことのなかった死への決意が、森に入っていく毎にどんどん薄らぎ、代わりに芽生えたのは恐怖という常人並の感情。しかも、イベリスという青年に助けてもらえた薺は、今、心底、安心という安らぎの箱に入ってしまっている自分が許せなくて、絶望感すら感じはじめてきた。


(…私、何やってるんだろう…死ぬために森に来たはずなのに、噂の死神に出会うどころか、天使みたいに綺麗で優しい人と出会って、助けられて…)


 今さらながら、生にしがみつくようにのこのことイベリスに付いてきた自分に、途轍もなく嫌悪感が沸きはじめる薺であったが、イベリスが通してくれたリビングらしき部屋の寝椅子(カウチ)に寝転んでいる人影に気がつくと、足音を立てないよう寝椅子まで近付いた。そして、寝椅子で静かな寝息を立てている人物を見た瞬間、薺の体に一瞬間心臓の鼓動が止まる感覚が(ほとばし)った。それは、何かの比喩や表現ではなく、体が素直に引き起こす条件反射のような、そんな体感的なものであった。


(…!!わ…ぁ………)


 人は本当に感動したり感激したり、何か強く心を揺さぶられるような激しい衝撃を受けると言葉を失うというが、それは本当のことなのだと、薺は今、身をもって知った。


 薺の目に宿った、寝椅子で静かな寝息を立てている人物は、まるで生命というものを感じられないほど麗しい、人形のような少年だった。それこそ、このドールハウスのような屋敷にそっくりそのまま備え付けて作られたアンティーク人形(ドール)なのではないかと、薺は思わずまた疑いたくなった。けれど規則正しい胸の上下運動がそれを確固たる否定材料とした。

 何もかもが西洋風の作りであるこの屋敷に対し、真っ黒な着流しを着用している少年は純和風な装いをしており、何だか妙にこの屋敷内から浮いた存在のように見えてしまうのも、よりいっそう少年が人形のように見える要因なのかもしれないと、薺はまじまじと美麗な眠れる少年に魅入ってしまう。


(…イベリスさんも、このお屋敷も、全部、現実離れしたみたいに綺麗で、びっくりしたけど…でも、この子は、なんだろう…すごく…綺麗過ぎて…………………こわい)


 血や汗や匂いという、生き物が放つ命の息吹を一切感じられない少年の恐怖さえ感じるほどの美しさに見惚れている薺の肩に、ぽんと手が置かれ、薺は肩から伝わる人の体温で我を取り戻すと、思わず必要以上にびくりと肩を震わせてしまった。


「あっ…すみません。突然お身体に触れてしまって。驚かせてしまいましたね」


 振り向いた先には、薺の挙動反応に呼応するように碧色の瞳を丸くさせたイベリスの姿があった。


「い、いえ…あの…私こそ、お屋敷の人のお子さんに勝手に近づいたりして…すみません」


 イベリスに触れられたことにより、我にかえった薺は今し方よくよく自分の行動を振り返った。すると、なんということであろう。恐らくこのお屋敷の家主である蘭さんのご子息であろう、自分と十歳は年の離れた少年の寝姿に着目するあまりじっと見つめ続けていた、とんだ変態女ではないかと自分を苛んだ。自分には少年趣味や人形趣味もないはずなのに、どうしてあんなことをしていたのだろうと、薺は自分の性癖(しゅみ)に若干戸惑いを感じた。しかし、そんな薺の反応や言葉に反して、イベリスはさらに碧い瞳を真ん丸にさせるのであった。きょとんとした表情にブルームーンのような瞳を薺に注いでいたイベリスは、やっと合点がいったらしく、あぁ!と声を一言上げると、ブルームーンの満月を三日月に変貌させながら、どこか含み笑いを浮かべるので、薺は益々困惑する。


「えっと…あの…イベリスさん…?」


「あっ、いえ、その…すみません。常磐さんが多大なる勘違いをなされているご様子なので…少し、僕の情報処理能力が追いつけなかったんです…すみません」


 くっくっと笑うのを堪えるように話すイベリスに、薺はさらに不安と混乱が増長する。


(一体、何がそんなに可笑しいんだろう…?)


 必死に笑うのを抑えようとしながらも、イベリスは薺に丁寧な説明をしてくれた。が、その説明は薺の考えを大きく覆すような答えであった。


「えっとですね、先ほど僕がお話ししていた家主というのは…そこで眠っている彼のことですので、お子さんというお気遣いは、全くなさらなくて大丈夫ですよ」


「…………………………………え?」


(家主…家主って…この男の子が?)


 家主ということは、きっとイベリスよりもずっと年上の人だと勝手に想像していた薺は、頓狂な声を出さずにはいられなかった。固定観念に囚われた予測はよくないのかもしれないが、それにしても、こんなまだまだ少年という面差しが残った子供が、荘厳華麗な屋敷の主だと誰が考えるであろう。少なくとも、薺は目の前の恐ろしく美しい少年がそうだとは考えもしなかった。

 若干の衝撃的事実を教えられ、思考が置き去りになりつつある薺をよそに、イベリスは寝椅子で静かな眠りの音を奏でる少年の側に近づくと、繊細で壊れやすい芸術品に触れるかのように、ふわふわとした少年の栗皮色の猫っ毛に手をあてた。


(イチイ)さん。起きてください。お客様ですよ」


 イベリスが撫でるたび櫟と呼ばれた少年の髪が、ふわりふわりと胡蝶が舞うように揺れる様に薺が目をとられていると、声を掛けられた櫟少年がゆっくりと瞼を開いた。

 開かれた(まなこ)を目にした薺は、再び息を止めてしまった。


(あ…この子の、目の色…すごく…真っ赤で、暗くて…こわい…のに…すごく……綺麗)


 櫟少年が瞼の内に潜めていた眼は、血と暗闇の二つだけを純粋に混ぜ合わせたような朱殷色(しゅあんいろ)であった。

 一塵の光も受け付けない。漆黒の深淵だけを取り入れた瞳のどこまでも暗い深紅に、薺は呼吸の方法を忘れてしまうほど目を奪われていた。すると櫟少年の目と薺の目が、境界線がぴったり重なるように合わさった。

 美しい朱殷色の瞳と自分の霞んだ鳶色の瞳が合ってしまったことに、薺は得体のしれない羞恥と惨めさを感じた。

 櫟少年は人形のような相貌を本物の人形のように無表情で暫く薺を見つめていると、重力を感じられない軽やかな動きで上体を持ち上げた。

 完全に目を覚ました様子の櫟少年を見ると、イベリスは櫟少年の頭に触れていた手を退け、微笑む。


「あぁ、よかった。おはようございます櫟さん。さっき櫟さんが見つけたと言っていた女性をお連れして…」


「リス。正座」


 イベリスの優しくてふわふわの砂糖菓子のような声を一瞬に遮断してしまうほど、鋭い刀剣のような凜とした声が屋敷内に広がった。その声音のもつ奥深さというのか、抑揚というのか、百戦錬磨の猛者(もさ)だけがもつことを許された賢者のような声は、凡そ十代前半の風体をした少年には似つかわしくないほど威厳に満ち溢れていた。そんな有無を言わさぬ権威に富んだ櫟少年の声に、イベリスは一瞬だけびくりと身体を震わせたが、瞬時に櫟少年の言われた通りすかさず正座の姿勢をとった。


 青年が少年の言いなりになっている光景を目の当たりにした薺は、不思議の国に迷い込んでしまった少女(アリス)ような感覚であろう。しかし、そのような困惑中の第三者がこの場に介入していることなど一切気にすることなく、櫟少年は刀剣の如く言葉を振り下ろし始める。


「リス。お前は確かに祖先を辿れば西洋に(ちかし)い人間だけど、日本語を熟知している程度には日本人よりの人間のはずだよな?なのに何故、今俺の目の前には死人みたいに蒼白い顔をした痩せっぽっちの幽霊みたいな女がいるんだ?まぁ、健康体になればそこそこ綺麗なお姉さんではありそうだけど。でもね、リス。俺はお前に何て言って外に行かせたんだっけ?俺の記憶が間違ってなければ、俺は確かお前に客なんぞ連れて来いなんて一言も言ってないと思うんだけど?どうだったっけリス」


「えっと…はい。そうですね。櫟さんは、僕に人をお連れしてきなさいとは一言も…言ってませんね」


「そう。じゃあやっぱり俺の記憶は正しいんだね。そしてお前もそのことは記憶できているほどには退化してないみたいだ。てっきり俺にリスと呼ばれすぎたお前が、本当にあの木の実を集める小動物にでもなっちゃったのかと思ったよ。でも違うみたいで安心した。お前のその頭には小さい小さいげっ歯類の脳みそじゃなくて、ちゃんと人間の脳みそが入ってるみたいだからさ」


 素直に従順な態度で正座を貫くイベリスの頭を、櫟少年は無造作に鷲掴むと、そのままぐわんぐわんと無遠慮極まりなく回し続けた。先ほどイベリスが丁寧な手つきで櫟少年の頭に触れていたのとは百八十度異なる対応に、薺は呆気に取られるばかりである。それから、割りとぐさぐさと薺の胸を突き刺すような言葉も捲し立てられていることも、薺はきちんと耳に捉えていた。しかしぐうの音も出ないほど櫟少年の言葉が正しいことも理解している薺は、この不思議で衝撃的な光景を眺めることしかできないのであった。そして、あんな恐ろしいまでに美しい少年が、自分のことを(健康体であればのはなしだが)そこそこ綺麗なお姉さんという発言をしたことに、少し戸惑いと喜びを受けてもいた。

 死にぞこないのくせに、薺は(執拗だが健康体であればのはなしである)綺麗と言われて嬉しさを感じてしまうほどには、女の感情が生きていたようであった。


「櫟さん…あの…櫟さんの言った通りにしなかったのは謝りますから…あの…手を、はなして…頭を、そんなに、揺さぶらないでくださ…目が、目が回ります、から…」


「ふぅん。自分の非は認めるみたいだねリス。じゃあ、なんでいつもいつもお前は森に入り込んで来た連中を誰彼構わず屋敷に連れて来るのかな?あれなの?お前は記憶力はあるけど学習能力が欠如してるのかな。毎回、毎回、俺がわざわざ双眼鏡で敷地内を監視しているのはな、この屋敷に人を。より正確に言うと自殺志願者どもを来させたくないからだって、何度言えば学習してくれるのかなぁ?ねーぇ。リスちゃん?」


「櫟さ…本当…視界が、ぐらんぐらんして…吐きそう、に、なり、ます、から…」


 途切れ途切れに苦しそうな悲痛な声をあげるイベリスに、吐かれるのは面倒かなと冷淡な一言を浴びせながら、櫟少年は鷲掴んでいたイベリスの頭を解放した。

 イベリスは解き放たれた自分の頭を撫で擦りながら、ぐらつく視界に目を胡乱にさせている。


「それで、そこの死にぞこないのお姉さんはやっぱり自殺志願者なわけ?」


 今まで薺の存在など完全無視な勢いでイベリスを(なじ)っていた櫟少年が、薺の顔をじっと見つめながら単刀直入すぎる質問を投げ掛けてくる。

 血と暗闇の瞳が真っ直ぐ薺のことをその目に写す。

 薺はその実直なまでに直線的な視線から逃れることができず、直立不動のまま固まってしまった。蛇に睨まれた蛙というのは、こういう心境なのかもしれない。

 薺は櫟少年の朱殷の瞳に恐れ(おのの)いている自分に気がつくと、何故自分はまだ子供の(おもかげ)が垣間見える人物を、こんなに恐ろしく感じてしまうのだろうと、不思議で堪らなくなった。


(…そっか…この子…櫟くんの目…色がどうとか、綺麗すぎてこわいとか、そういうことじゃなくて…そうじゃなくて…)


 櫟という名のこの少年は、まだあどけなさの残る風貌をしているのにも関わらず、目だけが数多の時を重ねたような、沢山の生を辿った老齢者だけが帯びるはずの色を宿しているのだと。それが、酷く異彩と違和感を放っている。薺は櫟少年の瞳を恐れる理由が、その歪さであることに気がついた。


(死の淵を思わせるような暗い瞳をしているのに…この子は、それ以上に…生命っていうものを想像させるような目をしてる…)


 生きること。それは、薺にとってもっとも考えたくない事象であり、課題である。

 生死という言葉が嫌でもまとわりついてくる目をもつ櫟少年の瞳から、それでも目を反らすことができない薺は、何も言えず、何も動けず、何もできない。ただ木偶のようにその場に立つことしかできなかった。

 そんな薺の様子に、黙りを決め込んでしまったと思った櫟少年は、溜め息を一つ吐いた。憂鬱の溜息である。


「まぁいいや…どうせこんな森しかないところまで態々一人で来るなんて、死にたがりの人間くらいだし。最近はあれだろう?若い連中は“いんらんねっと”とか“えすえむです”とかいうので直ぐに情報を調べるんでしょ?本当。あてになるかならないかも分からない、人のでっち上げた法螺によくそう易々と食いつけるね」


「…………………………え?」


 自分よりもずっと年下に見える櫟少年の、若い連中という言葉に引っ掛かりを覚えるが、薺はそれよりも“いんらんねっと”と“えすえむです”という何やら如何わしい匂いのする言葉に辟易した。すると、やっと視界の具合が良くなったイベリスが、捕捉説明をするかの如くすかさず櫟少年の言葉の訂正をしてくれた。


「櫟さん。それを言うなら“インターネット”と“SMS”ですよ。慣れない横文字を使ったりするから、そんなおかしな言葉に…しかも、どうしたらそんな如何わしいものになるんですか。ほら。常磐さんが驚きのあまり言葉を失っていますよ」


 櫟少年の言い間違いを優しい口調で懇切丁寧に諭すイベリスに、壊れた人形のようなぎこちない首の動きをさせながら櫟少年はイベリスの方へと顔を向け直す。ぎちぎちという効果音が聞こえてきそうな機械仕掛けの技巧人形(オートマタ)のような首の動かし方は、恐ろしさを通り越して逆に面白い動き方となって薺の目に映った。


「…個人情報が駄々漏れになるようなもの。どっちにしろ如何わしいものに変わりないだろ」


 先までの威厳たっぷりな鋭い剣先はどこへいったのやら、櫟少年の声の調子は年相応のぶっきらぼうな不良少年と化していた。


「よくないです。全然、全く、語感が違ってきますからね櫟さん。新しく覚えた言葉を使いたくて仕方ないのは分かりますけど、きちんと覚えてから使わないとあらぬ誤解を招いてし…」


「煩いぞリス!お前は俺の母親か?それとも先生か?この小煩い小舅め!!」


 イベリスはあくまで親切心から櫟少年の間違えた言葉の誤りを指摘しているのだが、この行為は逆に櫟少年を触発してしまう琴線に触れる言動となってしまったようである。しかし、イベリスが母親のようというのは言い得て妙な気分だなと薺は不覚にも思ってしまった。


「櫟さん。間違えたのが恥ずかしかったのは分かりましたから、とりあえず人を指差すのは止めましょうね」


「だから!俺はお前のそういう保護者面が気に入らないんだ!!大体な、さっきも言ったけどお前はいつもいつも余計なことばかり」


「はいはい櫟さん。とりあえず落ち着きましょう。ね?お客様も来られているんですから…」


「だ、か、ら…俺は人を連れて来いなんて一言も言ってない!!むしろ追い返せと言ったんだ!!毎度毎度、如何わしい“ねっとわぁく”とやらで噂を聞きつけた自殺志願者どもが来るたび、腹の虫が立って仕方ないし、虫唾が走るんだ!!!」


「まあまあ。そう冷たいことを言わないでくださいよ櫟さん…助けられる命があるなら、助けましょう?これも立派な人助けです。何より、女性を追い返すだなんてあまりに残酷っていうものですよ櫟さん」


「俺は慈善家でもなければボランティア施設を立ち上げた覚えもないし、命の電話なんていう電波と電波のやり取りを始めた記憶もないんだけど」


「櫟さん。慈善事業やそういう活動目的のお話ではなくてですね…人として、困っている人がいれば手を差し伸べたくなるものなんです」


「あぁぁぁぁ…もういい。お前のお人好しは死ななきゃ治らない。まぁ死なれたら困るし面倒だから治さなくていいけど…」


「そうですよ。大体、森のなかで人が蹲っているだなんて僕に教えた時点で、こうなることは櫟さんだって本当はもう把握済みのはずですよね」


「………………………………………」


 イベリスが終始完全無欠の柔和な微笑みを浮かべるのに対し、櫟少年は苦虫を潰したようなむっつりとした表情を浮かべ始める。

 最初に見た少年が主で青年が従者のような主従関係の衝撃的光景はどこへやら、気がつけばまるで母子(おやこ)のようなやり取りを繰り広げる彼等に、薺はすっかり恐怖という毒を抜かれつつあった。


「さぁ。それじゃ僕はお茶を淹れてきますから、櫟さんは常磐さんと一緒にいい子に待っていてくださいね。呉々も追い返したり、酷いことを言って苛めたりしちゃ駄目ですからね櫟さん」


「子供扱いするな青二才」


「そう膨れっ面にならないでください櫟さん…すみません常磐さん。それじゃ僕はお茶を淹れに行ってきますので、どうぞ遠慮なく寛いでいてくださいね」


 薺には無表情にしか見えない櫟少年の綺麗な顔を膨れっ面と称したイベリスは、そう言い残すとキッチンのある方へと向かって消えてしまった。


(寛いでください…といわれても…)


 ちらりと遠慮がちに櫟少年を窺い見ながら、薺は思う。こんな自分のような死に救いを求めている人間を侮蔑し毛嫌いしている人物と一緒にいてもいいのだろうかと。そして、心底闖入者を歓迎していない空気を漂わせている櫟少年と二人きりでいるのが、居たたまれないほど息苦しい。


「ねぇ」


「はいっ!?」


 櫟少年の呼び掛けに図らずも素っ頓狂な声をあげてしまう薺であったが、心なしか、櫟少年の声には刀剣の鋭さが密やかになっているように思えた。刀を鞘に戻してくれたかのような、静かで落ち着いた声音の櫟少年は、それでもやはり血と暗闇の二つを混ぜた瞳の色のまま、時を重ねた老齢の賢者の目で薺をじっと見つめながら、囁いた。


「お姉さん。名前は?」


「あ…え…?」


「だから、下の名前。お使いもまともにできないリスがトキワってお姉さんのこと呼んでたけど、それは名字じゃないの?まさか下の名前がなかったりするの?それとも名字がないいわく付きな人なの?」


 意地悪く矢継ぎ早に質問を(きゅう)じる櫟少年に、薺は少し気圧されつつも自分の下の名前を静々と告げた。


「えっと…あの…薺…薺です…常磐薺といいます」


「ふぅん。ナズナ…ね。いい名前じゃん」


 櫟少年は一人で占領していた寝椅子にもう一人分座れるくらいのスペースを開けると、薺の目を真っ直ぐ見据えながら淡々と言った。


「とりあえず隣にどうぞお姉さん。あのお人好しがお茶を持ってくる前に、お姉さんが死にたい理由の与太話しでも聞かせてよ」


 イベリスに館のなかへ入れてもらった時の、甘く優しい天使の誘導とは異なる。甘いのに、苦くて痛い誘導。冷たくて美しい邪悪な植物の誘惑に抗う術を知らない薺には、その誘いを拒否できる選択肢など最初からないのであった。


***


「今年の春先に…といっても、まだ、寒さが厳しいくらいの時期だったんですけど…風とか、まだ、すごく、冷たかったので…その頃に、親友が…崖から海に落ちて亡くなって…その…自分から…飛び下りて…それで、あの…それから、親友が亡くなってしまったのが、私、ショックで…なかなか、気持ちを、立ち上げられなくて…それで、こんなことなら、私も…死んだ方が、いいのかな…って、考えはじめて…死にたいな…と……」


 櫟少年の言葉に従い、櫟少年が座を直した寝椅子の隣に恐る恐る座ると、薺は震える声を振り絞り、一言一言気を配りながら櫟少年に事のあらましを打ち明けた。

 しかし、何故自分が死ぬことを考え始めたのか。死にたい理由を改めて声という音波にのせてみると、薺が話せる範囲はとても短いものであった。

 死にたい。という四文字の理由を語るのに必要な言葉は、たったこれだけであるのかと薺は驚いた。けれど、目玉が飛び出しそうになるほどそれ以上に薺が櫟少年に驚かされるのは、コンマ一秒の隙もないのであった。


「つまり何?お姉さんは親しい友人が自ら命を絶ったことに深く心を傷めるあまり、与えられた時間をこれ以上生きるのが辛くて死にたくなった。でもいざ死のうとしても、友人のように自分で自分の命を絶つのは怖くてできない。そこであれだ、えっと…“いんたぁねっと”とやらで漕ぎ着けた噂だけを頼りに、こんな辺鄙な森の奥までわざわざやってきた来た挙げ句、声を掛けられた見ず知らずの男にほいほい連れられ、のこのこ此処まで訪れたわけ」


「え…あ…いえ…えっと…」


「何か間違ってる点でもあった?」


「いえ、あの………ない、です…」


 櫟少年が淀みなく捲し立てた言葉の弾丸は、全て的の中心を得るものであるからして、薺は何も反論することができなかった。

 初対面の、それも年下の男の子にここまで言葉の弾丸を撃ち込まれる謂れはないとも薺は思ったが、どうしても、隣に座る櫟少年の恐怖を抱くほどの美しさを目の当たりにすると、無抵抗を貫かねばと本能が勝手に自分の身体を動かすのである。


「死にたい。しかし、自ら絶命を果すのは恐ろしい。痛みや苦しみを感じながら死を迎えるのも耐え難い。もし、一瞬で心臓を止めることのできる毒があるのなら、眠るように息を止めることのできる毒があるのなら、死神の優しい毒があるのなら、私はその毒を含んでこの世を去りたい」


 暗記した聖書や経文の一節を読み上げるかのように、滑らかな舌と口の動きで淡々と噂話の言葉を言い放つ櫟少年の声は、鋭い剣先も激しい弾丸も仕舞い込まれた何の武器も持たない声であった。しかし、その代わりに優しさや温もりが帯びたわけではなく、ただ、何も感じられない。無色透明で無味無臭な、無感情を表した声となっていた。

 無表情で無感情な言葉を放つ櫟少年は本当に人形じみており、生きている者の波動を一切感じさせない。

 そんな櫟少年の姿とは反対に、薺の鼓動は極度の緊張と恐怖とで早鐘を打ち続ける。その鼓動の早さが、生きている者特有の反射運動であるかのように。


「ねぇ。お姉さん」


 呼掛けと共に恐ろしく美しい(かんばせ)が、薺の眼前まで突きつけられる。

 血と暗闇が混ざった。朱殷色の瞳。

 遠い遥か彼方。果てのない時間を宿した賢者の瞳。

 薺はその瞳が怖くて堪らないはずなのに、反らすことができない。いや、まるで反らすことを許されないのであった。目を反らした瞬間、自分は何か大切なものを彼に奪われてしまう。そんな朧気な不安が薺の胸を満たしていた。

 永久に櫟少年の朱殷の瞳に囚われているような感覚に、薺は痩せ細った自身の体に痺れを感じ始めたその時だった。

 命の温度を感じられない冷たさを帯びた繊細な指先が、薺の頬に触れた。

 指先の持ち主は勿論、眼前の櫟少年のものである。櫟少年はそのまま指先を頬から顎へとゆっくり伝わせていく。少年らしさとはあまりにかけ離れた艶かしい指の伝わせ方に、薺はさらに体を強張らせ、硬直するほかならない。

 そんな薺の姿を捉え続ける櫟少年は、それまでの無表情な相貌を突然崩し、口許だけで意地悪そうに笑みを作ると、冷たい指先とは打って変わった熱を含ませた、大人の男性よりも色香漂う声で囁きながら、さらに薺との距離を詰める。


「そんなに死にたいなら、俺がお姉さんを………」


 顎を伝わせる冷たい指に力を込めながら櫟少年は、神の宣告のようにその言葉の先に続くたった一言を、死神が鎌を降り下ろすように宣言する。


「殺してあげる」


 刹那、薺の口を塞ぐように櫟少年の唇が押しつけられた。薺は何が自分の身に起きているのかわけが分からなくなった。しかし、頭が真っ白になる余裕も時間も与えないといった風に、櫟少年は薺の唇に自分の舌を割り入れさせ、薺の口中を蹂躙させてくる。

 その舌の動きは、まるで毒蛇が獲物に喰らいつくかのような勢いで、薺は本当に自分はこのまま酸欠で死ぬのではないかという考えが頭を掠めた。それでも、櫟少年の舌先が薺の口を解放させることはなく、薺も、抗うようなことはしなかった。この少年には、きっと、誰も逆らうことはできない。薺は、櫟少年の舌で溶かされた脳の片隅で、そのようなことを思った。

 櫟少年の舌使いは激しいけれど、不思議と淫猥さを感じさせず、この接吻も単なる深い口づけというよりも、何か、自分のなかの特別な何かを人に与えるような、そんな神聖な行為のようだと薺は感じていた。だからこそ、薺は櫟少年に自分の唇をされるがままにしているのかもしれない。


 意識が甘い痺れと火照りの最中を朦朧とし始めると、櫟少年は薺の口から自分の舌を引き抜いた。

 二人の唇を繋ぎ結ぶように、透明な唾液が糸を引いている。櫟少年はその淫靡な糸を気に止める様子もなく、口許に甘美な涎を滴らせたまま、薄弱昏睡に陥る薺に一言告げる。


「逝ってらっしゃい」


 霞んでいく世界のなかで薺は、涙がでてしまいそうなほど美しくて恐ろしい、死神の笑顔を見たような気がした。

 がしゃんっ。という磁器が無惨に床に落ちる音を最後に、薺の心臓は、止まった。

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