「8月31日」 成宮りん 【ヒューマンドラマ】
あと少し。
思っていた以上に天井が高かったことに気付いた美咲は、爪先立ちで古くなった蛍光灯の電球を取り外した。
「お母さん、危ないよ」
「お父さんが帰ってきてからにしなよ」
双子の息子達は憎たらしいほど、綺麗に声を揃えて言う。
「……大丈夫だってば」
「でも、お父さんが言ってた」と、長男。
「お母さん、意外と鈍くさいから、気をつけて見張っていてくれって」と、次男。
「あなた達のお父さんは、子供に妻の悪口を吹き込むような人だったのね?」
「……でも」
「ほんとのことだし」
カチン。
「……大丈夫よ。私が何年、仲居の仕事をやっていると思うの? 切れた電球の取り換えなんて、朝ご飯前なんだから」
かつて男手のなかった時には、全部自分でこういうこともこなしていたことを思い出す。
「新しいのを取って」
新品の電球を受け取りながら、ふと、美咲の視界にカレンダーが入った。
今日は8月31日。
「……それよりあなた達、宿題は全部終わったの?」
「もちろん」
双子は声を揃える。
「……それならよかった……と」
ああ、腕がしんどい。足元もプルプル震えている。
けど、電球も上手くハマったし、子供達の宿題も終わったみたいだし。
一つ息をついて、美咲が足台にしていた椅子から降りようとした時だ。
ぐらり、身体全体が揺れるのを感じた。
「お母さん!!」
※※※
椅子から落っこちてしまった。
しばらく目を回して、意識が飛んでいたらしい。
目が開いた時、美咲は子供達の姿がないことに気付いた。誰かを呼びに行ったのだろうか?
しかし……気のせいだろうか?
ついさっき、自宅のリビングの電球を変えていたはずだが。今、自分がいるのは仕事場である旅館の事務所だ。
変ね、と呟いてからふと美咲は壁のカレンダーを見る。
今年は確か、西暦……えっ?!
二度も三度も見直したが、自分の認識と約20年ほどズレている。
これはまさか、小説や映画でよく見る『タイムスリップ』?!
夢よ、夢。
そんなこと、ある訳ないじゃない!!
美咲が慌てて事務所を飛び出すと、扉の向こうに誰かいた。
「おっと、サキちゃん。血相変えてどうしたんじゃ?」
「……」
そこに立っていたのは、既に亡くなったはずの父親のような人。
「……あ、あのね……」
「それより、はようせんと。そろそろお客さんが到着するけぇの」
これは、過去の夢の中か何かなのだろうか?
何でもいい。
『そろそろお客さんが到着する』
その一言で仕事モードに入ってしまった。
美咲は着物の裾を整えて、勝手知ったる仕事場へと出向いて行った。
※※※
お客様の事情は決して詮索しないこと。でも、お客様が話したがる時には、しっかりと耳を傾けること。
それが、仲居の仕事を初めてからずっと、美咲が守ってきた決まりごとだ。
広島県の離島の1つに数えられる厳島。
一般に宮島と呼ばれるこの島には、世界遺産に登録された神社のおかげで、いつも観光客が絶えない。
その日は夏休み最後の8月31日。
夏休み期間中は毎日のように満室で嬉しい悲鳴を上げていたが、最終日の予約はさすがに少ない。
しかしその日、美咲が担当した部屋の客は、小学生ぐらいの男の子一人を連れた家族だった。チェックインが始まってすぐ、彼らはやってきた。
明日から二学期ではないのだろうか。
不思議に思ったが、他所の家庭のことだ。
「いらっしゃいませ、お待ち申し上げておりました。お荷物をお持ちします」と、美咲が手を伸ばすと、妻の方は旅行カバンを放り投げた。
「おい、何やってるんだ!!」
夫が大きな声を出すが、我関せず。男の子は冷めた目で一連の流れを見ていた。
美咲は笑顔を見せながらカバンを拾い上げ、フロントで手続きをするように案内した。
父親が宿帳にペンを走らせている間、男の子がなぜかじっと美咲を見つめていることに気づく。
「……何年生なの?」
すると少年は、口元を歪めるような笑い方をした。
「夏休みの最終日に泊まりに来るなんて、変な家族だと思ってるんでしょう?」
それはその通りだが。
「いいえ。お父様かお母様のご都合が、今日しかつかなかったのでしょう?」
「……ご都合、ね。まぁ、そんなところかな」
この子、いくつなのかしら?
美咲はそら恐ろしい気がした。
「ちなみに明日は日曜日だってこと、知ってる?」
「……」
部屋に案内する。用意したのは海側の、広い和室である。
「弥山側の部屋に替えてちょうだい」
中に入り、窓からの景色を確認した母親が言う。
たいていの客は海側の部屋を好む。だから余裕のある今日のような日には、景色の一番良い部屋を用意している。
「ワガママを言うな!!」
彼女の夫は慌ててそう言ったが、
「少々お待ちください」
美咲は事務所に戻り、女将に相談した。
しかし……やっぱり夢を見ているようだ。自分の知っている女将とは人物が違う。
夢なら夢でいい。
とにかく、お客様の要望を伝えなければ。
幸いなことに今日は部屋に空きがある。とはいっても、急いで支度をしなくてはならない。
美咲は用意した部屋に戻り、
「少しお待たせすることになりますが……弥山側のお部屋をご用意できます」
「だったら、ここでいいわ」
なんなの?
時々変わった客はあらわれる。いちいち気にしていたらキリがない。
「美咲と申します。本日はどうぞ、よろしくお願いいたします」
美咲がお茶を入れながら館内の説明をしていると、急に母親が立ち上がる。
「私、出かけてくるから」
「おい……!!」
すみません、と一家の主は恐縮しきりである。
妻の方はかなり自由奔放な感じだが、夫の方は常識人のようだ。
お気になさらず。
「どちらからいらしたんですか?」
「東京です」
「奥様も、長旅でお疲れなのですね」
「ただ単に、空気が読めなくて無神経なだけだよ」
「賢司!!」
へぇ、この子はケンジ君っていうのね。
え、けんじ……?
「賢司君っていうの……?」
「なに?」
「ごめんなさい、よく知っている人と同じ名前だったから……」
ふーん、とたいして興味なさげだ。
だが美咲にとっては、決して無関心でいられる名前ではなかった。
忘れられない、忘れてはいけない。
大切な名前。
いけない、それどころじゃない。
今は仕事に集中しないと……。
夕食と朝食の時間を確認し、部屋を出ようとした時。
「美咲さん」賢司が話しかけてきた。
「えっ?」
「ねぇ、どうせ暇でしょ? 弥山を案内してよ」
「こら、賢司!! すみません、失礼なことを!!」
確かに、今日は少しの余裕はある。それに。
この【賢司】と呼ばれている少年に、たとえようもない興味を覚えているのは確かだった。
「いいわよ、じゃあ行きましょう」
※※※
旅館から歩いて5分もしないうちに、弥山の登山口へと到着する。
桟橋から厳島神社までは比較的平らな道だが、それ以外の場所は途端に狭く険しい。
小さな子供の歩幅に合わせてゆっくりと歩いて行く。
紅葉谷公園はその名の通り、秋になると素晴らしく美しい紅葉が景色を彩る。だから紅葉シーズンは毎年忙しい。
「ここが紅葉谷公園。秋になるとね、カエデや銀杏が色づいて、とっても綺麗なのよ」
賢司は聞いているのかいないのかわからないが、ぼんやりと木々を眺めている。
「紅葉のシーズンにまたいらっしゃい」
「……営業上手だね、お姉さん」
「あら、さっきは【美咲さん】って呼んでいたのに、今度は【お姉さん】なの?」
すると。賢司は顔をそむけた。
可愛い。
「手、つなごう?」
「やだよ、子供じゃないんだから」
「何言ってるの、迷子になっても知らないわよ?」
「……」
「こっちに行くと、水族館なんだけど……賢司君、興味ある?」
「別に。生き物はあんまり、好きじゃない」
「そう……」
「だって、可愛がるだけじゃ済まないし」
そう言って彼は伺うような視線を向けてきた。
「子供のくせに、って思った?」
「……そんなことないわよ」
美咲は首を横に振る。
「無責任に動物を可愛がる人がいる。赤ちゃんの頃は可愛がっていても、大きくなったら可愛くないからって捨てたりする人が。その点、賢司君はとっても賢いのね。名前のとおりだわ」
すると。
白い頬にうっすらと赤みが刺した。
「……学校の帰りに……」
彼は話し出した。「後ろをずっとついてくる子猫がいて……別に、猫が好きって訳じゃなくて……放っておいたんだけど。いつの間にか、庭に棲みついてて。家政婦さんが餌をあげてたんだ……」
家政婦さん?
この子は相当、いいところの家のお坊っちゃまなんだわ。
美咲はあらためてそう感じた。
ブランド物に疎い自分でも、彼の母親が高価そうな装飾品を身につけていたのはなんとなくわかったから。
「でも、ある日突然いなくなった」
「そう……」
猫は自分の死期を悟ると、姿を消してひっそりと息を引き取ると聞いたことがある。
「だから僕、猫は特に嫌。黙っていなくなるから」
「そうだったのね……」
それからしばらく歩き進めると、ロープウエー乗り場に到着する。
「乗りたい?」
「……うん」
ロープウエーの終点が弥山の頂上と言う訳ではなく、そこからさらに登山した場所に、絶景ポイントと呼ばれる【獅子岩】がある。
しかし、子供連れで特に何の装備もしていない今は、やめておいた方がいいだろう。
終点に降り立つと、賢司はたたっ、と駆けだす。
「……すごいね……」
眼下に広がる瀬戸の海。
今日は快晴だから、四国までくっきりと見える。
「素敵な景色でしょう?」
彼はしばらく無言で遠くを見つめていたが、
「……いつか、行けるかな……あの島に」
「行けるわよ」
四国まで連絡船が出ているし、今は橋もかかっているし。
でもきっと、そういうことではない。
この子はきっと、自分を取り巻く環境から離れて、まったく知らない場所へ行ってみたいと考えているのだ。
ほんの短い遣り取りだったけれど。
彼の両親を見ていて理解した。
上手くいっていない……。
不仲な親の元で暮らす子供の気持ちを、美咲は痛いほどよく知っている。
いや、母の場合は……ただひたすら父の仕打ちに耐えていただけだ。
暴力こそ振るわなかったけれど、夫として、父親としてしなければならない役割をまったく放棄していた。
どうして別れないで耐えているのか。
なぜ黙っているのか。
聞いても教えてもらえなかったし、あまり深く追求すれば母が悲しむことに気付いたので、それ以来訊ねるのはやめた。
気がつけば美咲は、賢司の頭を撫でていた。
「私の知っている【賢司】君はね……お父さんのことが大好きだったの。賢司君は?」
「……なんでそんなこと聞くの?」
「……なんとなく、じゃダメかしら?」
賢司はふん、と鼻を鳴らす。
「女の人ってそうだよね。その時の気分とか、特に理由はないけどそう感じるからとかさ」
「そういう生き物なのよ」
理屈で説明できないのは好きじゃないけど、と彼は答える。
「……お父さんのことは嫌いじゃないよ。親が別れることになっても……僕はお父さんについていきたい」
直接聞いた訳ではないけれど、なんとなく。
彼の両親が今日、この日にこちらへやってきたのは、ある意味で【決別】をつける為ではなかったのか。
夏休み最後の日に思い出を作るために。
この日しか都合がつかなかったにしても。
子供を連れて旅に出るなんて、きっともう、二度とないことだから……。
「素敵なお父さんだったものね」
「……たったあれぐらいの時間で、わかるの?」
幼い少年は意地の悪そうな眼で問いかけてくる。
「わかるわよ、女の直感ってやつ」
「非科学的だね」
生意気で、理屈っぽくて、それでいて寂しがりな小さな子供。
意地を張って背伸びをして、誰も知らない場所で一人泣いている。
本当に【あの人】にそっくりだ……。
「非科学的なついでに、予告してあげる。あなたはこれから先、とっても素敵な妹と弟に、家族に出会うの。それから、素晴らしいお友達に」
賢司はしばらく黙っていた。
胸の内で何を思っているのか、その横顔から読みとることはできなかった。
それからふと、
「……アイス食べたい……」
「なんでいきなり、そうなるの?」
と、思ったが。美咲は、売店の店番をしているオジさんが暇そうな顔をしているのを見て、カウンターの前に立った。
「オジさん、かき氷の上にアイスクリームを乗せたりできる?」
オジさんはにこっと笑って、
「そろそろ店じまいだから、好きなように作っちゃるよ」
「じゃあ……メロンのシロップに、バニラのアイスで」
幼い【賢司】は驚いている。
「なんで僕の好み、知ってるの……?」
「さぁ、どうしてかしらね?」
一度だけ。
美咲の知っている賢司が話してくれた。
子供の頃。父親が連れて行ってくれた近くの神社のお祭りで、メロンのシロップとバニラアイスクリームが乗ったかき氷を食べたこと。
基本的に甘いものは好きじゃないけれど、父が美味しそうに食べていたから、少し欲しくなってしまった、と。その時の味が忘れられないと。
星の綺麗な夜だった。
お父さんに肩車をしてもらって、二人で長い時間、空を眺めていたこと。
花火も綺麗だけど、星空もすごく素敵だ。
その時、彼のお父さんが言ったそうだ。
「いつかきっと、家族みんなで……日本一綺麗な星空を見に行こうな……」
家族みんな。
……ねぇ、そこに私は含まれていたの?
「……お姉さん?」
「ごめ、ごめんなさい……私……」
皆が元気だったら。
きっと叶えられていたはずの願い。
「女の人って、すぐ泣くから……」
賢司は困った顔をしている。
「ごめんね……」
「うちの母親もそうだよ。泣けば何でも、思う通りになると考えてるんだ。でもお父さんは、そんなの相手にしなくて……いつもケンカばっかり」
わかる気がした。
「早く別れればいいのに」
「……本当に、そう思う?」
幼い賢司は驚いたような顔をしたかと思うと、黙ってしまった。
「ねぇ、賢司君。これから何があっても……どんなことがあっても、あなたにはあなたを愛してくれる人達が必ずいるから……負けないでね?」
彼は返事をしなかったけれど、なんとなく。
ちゃんと理解しているのではないだろうか。
そんな気がした。
「……そういえば、賢司君。夏休みの宿題はもう終わってるの?」
すると賢司は『愚問だね』と言わんばかりの表情を見せた。
「終わってなければ、お姉さんのこと誘ったりしないよ」
イラっときたが、かろうじて飲み込む。
「お姉さんじゃないの、美咲。み、さ、き」
「……」
するとなぜか、彼はそっぽを向いてしまった。
美咲は腕時計を確認した。
「そろそろ帰ろう? 晩ご飯の時間になっちゃうわよ」
手を差し出す。
素直につながれたその小さな手を取った瞬間に、景色が変わった。
※※※
「……き、美咲!!」
「お母さん!!」
「……?」
「しっかりしろ!!」
気がつけば夫が、心配そうな顔でこちらを覗きこんでいる。
「子供達が止めたのに、聞かないからだ」
「あら? 私……ここはどこ?」
すると彼は、
「まさか、記憶を失ったなんて言わないだろうな」
「……??? 私の名前は駿河美咲、二児の母で……宮島のとある温泉旅館の若女将をしていて……」
「それだけ理解してるなら、何も問題はないな」
夫は溜め息をつき、お母さん、と息子達は抱きついてくる。
「ねぇ、いったい何があったの……?」
「それはこっちが聞きたい」
「あのね、お母さん。切れた電球を取り変えてる時に、椅子から落っこちたの」
「頭を打ったみたいで、しばらく寝てたよ」
と、いうことはあれは夢だったのか。
賢司という名前の小さな男の子と過ごした、短い時間。
だとしたら。
とても幸福な夢だった。
もう少しだけ、見ていてもいいと思うぐらい。
ふふっ、と思わず微笑む。
「……楽しい夢だった?」
「ええ、とても。もう一度見たいって思うぐらいにね」