「少年の日の殺人 解決編」 奥田光治 【本格推理】
童踊りは予定通り三十分ほどで終わりました。祭りはこの後も夜の十時くらいまで続きますが、僕はさっきの榊原さんの言葉が気になっていて、これ以上祭りを楽しむ気になれませんでした。
そこで、僕は榊原さんの「最後まで祭りを楽しめ」という約束を破る事にはなりますが、祭りを途中で抜けて少し早めに天体観測に向かう事にしました。出店の隅に置いてあった望遠鏡を持って、祭りの会場をそっと抜け出して村外れの丘へと向かいます。
それからしばらく、今にも降ってきそうな満天の星空の下、僕は外灯一つない暗闇の静かな田んぼ道を一人で歩きました。そして、祭りの会場を出てから二十分ほどで村の外れにある小高い丘の上に到着していました。丘から村の中央の方を眺めると、祭りの明かりがそこだけ集まっていて、とても幻想的な雰囲気であるように感じました。一瞬、その景色を呆然と眺めていた僕ですが、すぐに当初の目的を思い出して、担いできた望遠鏡を持っていつも通り丘の一番上にある一本杉の辺りに行こうとしました。
ところが、一本杉の辺りに行こうとすると、すでに誰か別の人影が立っているのが見えました。暗闇の中でよく見ると、なんとそれは僕がさっきまで祭りの会場で話をしていた探偵の榊原さんでした。正直、何であの人がこんなところにいるのか僕には全くわかりませんでしたが、気軽に声をかけられる雰囲気ではなかったので、僕は抜き足差し足で丘の天辺に少しずつ近づいて、そのまま近くに会った草むらに身を潜めました。そこからでは暗くてよくわかりませんでしたが、榊原さんは静かに目を閉じて誰かを待っているようでした。
と、その時丘の向こう側から草を踏みしめて別の誰かが近づいてくる音が聞こえてきました。それを聞いて、榊原さんがゆっくりと目を開けるのを僕は何とか見て取っていました。やがて、音の主はゆっくりとした歩き方で榊原さんのいる一本松の根元まで近づいてきて、榊原さんと無言で対峙しました。
僕のいるところからでは暗すぎてやって来たのが誰なのかわかりません。ただ、この恐ろしいほど綺麗な星空の下で、静かに、しかしそれでいて緊迫した何かが始まろうとしているのを僕は肌で感じ取っていました。
そして、僕が草むらから固唾をのんで見守っている中で、榊原さんはゆっくりとした口調で話し始めました。
「どうも。驚かれましたかね。実は、あなたにどうしても話しておかなければならない事があったもので、こうして待たせて頂きました。ここにいれば、あなたがやって来ると思ったものですから」
「……」
相手は何かを話したようですが、僕の位置からはそれを聞き取る事はできません。ですが、榊原さんにはちゃんと聞こえているようで、会話はそのまま続いていきます。
「えぇ、忙しいのは承知しています。ですが、この話はあなたにとって重要なものだという事は私が保証します。……時間もないので端的に言いましょう。今日、この村で起こった二つの殺人事件の真相がわかりました。私は、あなたにはそれを聞く義務があると思っています」
「……」
言葉は聞こえませんが、相手の影が少したじろぐ様子が草むらからでもよく見えました。そして、榊原さんは構わずに話を続行します。
「一度、今回の事件を整理しておきましょう。昨日の午後十時から午後十一時の一時間の間に、松宮小学校のプールで蓮厳さんが、『人形の家』と呼ばれる別荘で木之本光奈さんがそれぞれ立て続けに殺害されました。死因は蓮厳さんが後頭部を殴られた後でプールに投げ込まれた事による溺殺、光奈さんは頸動脈切断による斬殺です。今回の事件、問題は『誰が』『なぜ』この二人を殺害したのかという点に尽きるでしょう」
「……」
「まず、推理をするにあたっての前提条件として、この二つの殺人事件は同一犯によるものであると考えます。普段事件など起こりそうもないこんな山奥の片田舎で、ほぼ同時刻に別々の人間がほぼ同じ場所で殺人を起こすなどという事は確率的にもあり得ないからです。従って、この二つの事件には何らかの関連性があるという事は間違いないと考えます。さて、そう考えると最初に考えなければならないのは『両者の殺害の順番』です」
「……」
「今回の事件、発見されたのが蓮厳さん、光奈さんの順番だったため実際の殺人もこの順番で行われたように錯覚しがちですが、実際の所は先程も言ったように両者とも死亡推定時刻は午後十時から十一時の間となっていて、当たり前ながら明確に何時何分まで出ているわけではありません。すなわち、発見順序とは逆に光奈さん殺害後に蓮厳さんが殺害された可能性も否定できないという事です。では、どちらの順番であれば事件を推理するにあたって納得できる筋書を構成する事ができるのか。色々考えましたが……私は光奈さん殺害後に蓮厳さんが殺害されたと考えます」
「……」
「理由については、光奈さん殺害現場を見たときに感じたある疑問が、この順番であるなら説明がつくからです。その疑問とは、光奈さんを殺害した際に犯人に付着したであろう代物……早い話が『返り血』の問題です」
そこで榊原さんは一息入れると、すぐに推理を続けました。
「木之本光奈殺害事件の現場は周囲に大量の血痕が飛び散った凄惨なものでした。頸動脈を切断されたのだからある意味当然とも言えますが、この出血では犯人側にも大量の返り血が付着する事は避けられなかったはずです。では、犯人は付着した返り血をどのように処理したのか? 衣服などは燃やすなりして処分できたとしても、皮膚に直接付着した返り血はそうはいきません。人に見られる前に水なりなんなりで洗い流す必要があるのは自明です。では、犯人にそれができたのか? あの現場の状況を思い出すと、それを可能とするものが一つ存在しました。言うまでもなく……浴槽のシャワーです」
「……」
「犯人は、犯行後現場にあったシャワーで自身に付着した返り血を洗い流すつもりだった。その前提条件があったからこそ、返り血が飛び散る頸動脈切断などという犯行を実行したのでしょう。返り血の問題さえなければ、それが一瞬かつ確実に被害者の命を奪える方法ですから。ところが……いざ犯行を終えて現場のシャワーで返り血を洗い流そうとした犯人に、思わぬアクシデントが発生しました。そう……現場のシャワーは、事件当日に故障していて使えなくなってしまっていたんです」
「……」
「事件当夜にあの家のシャワーが故障していた事は巾木さんの証言ではっきりしていますし、警察の現場検証でもシャワーから水が出ない状況だった事が確認されています。つまり、犯人は自身の思惑に反して現場で返り血を洗い流す事ができなかったという事なのです。犯行を追えてシャワーを使おうとして水が出ない事がわかった時、犯人は相当焦ったはずです。返り血を放置しておくわけにはいきませんが、現場でそれを処理する事ができない。一刻も早く、人に見つからないうちに現場以外の場所で返り血を洗い流す必要があります。悩んだ犯人の頭の中に、しかしやがてある一つの解決手段が浮かび上がりました」
「……」
「そう、現場から歩いて十分ほどの距離の場所にある松宮小学校……そこのプールのシャワーを使うという方法です。真夜中の田舎道ですから十分くらいなら人に会う確率はかなり低く、会ったとしてもすれ違った程度なら暗闇で返り血を誤魔化す事ができます。さらに校舎でなければ小学校の敷地内に入ること自体はかなり容易でした。犯人は現場で返り血が洗い流せない事を知ると、現場を脱出してそのまま人に見つからないように小学校へ向かいました。そして誰もいないプールに侵入し、そこの入口のシャワーで体に付着した返り血を洗い流そうとしたんです。このように考えれば、犯行当日における犯人の移動の順番が『人形の家』が先で小学校が後だった事が論理的に説明でき、それは同時に殺人の順番が、木之本光奈さんが先で蓮厳さんが後だったという事の証明にもつながります」
「……」
「そして、この考えなら、蓮厳さんがなぜ殺害されたのかという動機の部分もはっきりするのです。事件当夜、蓮厳さんは祭りの会場を出た後の帰宅途中になぜか小学校のプールに侵入して殺害されたと見られています。一見すると不可解な状況ですが、仮に犯行が先程説明した経緯で行われていたとすれば蓮厳さんの不可思議な行動にも説明がつきます。おそらく、蓮厳さんは帰宅途中に小学校の中に入っていく犯人の姿を目撃してしまったのでしょう。そして、それを不審に思った蓮厳さんは後をつけ、プールで犯人と鉢合わせしてしまった。先程の推理が正しければ犯人はプールのシャワーで返り血を洗い流していたのですから、それを蓮厳さんに見られたとすれば彼を生かしておくわけにはいかなかったはずです。手近にあった何かで咄嗟に蓮厳さんを殴りつけ、その後彼をプールまで運んで突き落とし溺殺した。わざわざプールで殺害したのは、警察の目をプール入口にあるシャワーから逸らして自身がシャワーで返り血を流していた事実を隠すためで、プールサイドに彼がお土産で持っていたたこ焼きが落ちていたのも、犯行がプールサイドで行われた事をより印象付けるための小細工と考えるのが妥当です」
流れるような榊原さんの推理に、僕は息をする事も忘れて聞き入っていました。そんな中、相手の返事も待たずに榊原さんは話を続けていきます。
「……さて、このように考えると犯人の目的はあくまで木之本光奈さん殺害がメインで、蓮厳さん殺害はあくまでもアクシデントによる想定外の殺人だった事がわかります。そして、この流れが正しいならば、犯人を特定するための条件がいくつか存在する事がはっきりとするはずです」
「……」
「まず、先程も言ったように犯人は当初犯行後に現場のシャワーを使う事を前提にしていました。しかし、実際に現場のシャワーを使って返り血を流したとすれば、そこに血痕以外の犯人の痕跡……例えば犯人の髪の毛などが残ってしまう事は自明です。この慎重な犯人がその事実に気付かなかったとは思えません。にもかかわらず、犯人はそのリスクをわかった上で現場のシャワーを使おうとしていました。ここから考えられる事は一つ。犯人は、現場となったあの家から自身の痕跡が見つかっても充分に言い逃れる自信がある人物だった。すなわち、被害者と犯人は顔見知りで、なおかつ犯人は犯行までに正式な理由であの家に入った事がある人物です」
「……」
「第二に、先程も言ったように犯人はシャワーを使おうとしたものの、シャワーが故障していたがために小学校のプールのシャワーを使うというリスクを冒さなければならなくなりました。当然、最初から故障していた事を知っていればこんな事をする必要はありません。よって、犯人は事件当日にあの家のシャワーが壊れていた事を知らなかった人物です。この時点で、事件当日にシャワーが故障した事を知っていたあの家の持ち主の巾木豪造は犯人候補から除外されます」
「……」
「第三に、先程の推測が正しければ、蓮厳さんは夜間に学校に侵入する犯人を不審に思って後をつけたと思われます。何しろ真っ暗な田舎道ですから蓮厳さんが返り血の付着している事を不審に思った可能性は低く、学校へ入っていった人間が明らかに場違いだった事から不審に思ったと考えるのが自然です。そして、少なくともこれで、犯人が学校関係者でない事は明確です。なぜなら、深夜であるとはいえ学校関係者が学校に入っていくのを蓮厳さんが不審に思う事はないからです。一方、犯人は明らかに学校のプールにシャワーがあることを知っていて学校に侵入しています。つまり、犯人は学校内のプールの位置などをよく知っている人物です。ここから、犯人は学校関係者でないにもかかわらずあの学校の構造を熟知している人物である事がわかります」
その瞬間、榊原さんの雰囲気が急に変わり、その場に緊迫した空気が漂いました。
「そして、これらの条件に当てはまる人物が、今回の事件関係者の中にたった一人だけ存在しました。すなわち、その人物こそが今回の事件の真犯人です」
そう言うと、榊原さんは鋭い言葉で告げました。
「そうですよね? 木之本光奈、蓮厳の二人を殺害した真犯人の……筧勇人先生!」
その言葉が響いた瞬間、今まで話を聞いていた影がゆっくりと前に出て、僕にもその姿が見えました。そして、僕はそのまま草の陰で言葉を失っていました。
そこに立っていたのは、いつも優しい笑顔で僕たちと接してくれていた、松宮診療所の院長・筧勇人先生だったのです。
榊原さんと筧先生はしばらく星空の下でそのまま睨み合っていましたが、少しして筧先生が押し殺した声で言葉を発しました。
「……随分失礼な話ですね。よりにもよって私が犯人だとは……言い掛かりもいいところです」
「認めませんか?」
「認めるわけがないでしょう」
「しかし、あなたが先程から述べた条件にすべて合致しているのは事実です。木之本光奈は病気療養のためにあの別荘を訪れていました。病気療養、という事は当然医師の治療を受ける必要があり、それができるのはこの村で唯一の医者であるあなたしかいません。しかも昨日診療所であなたから聞いた話では、彼女があの診療所を訪れた事はないとの事。記録が残っている以上それは確かなのでしょうが、彼女が医者の治療を必要としていたのも事実です。となれば……木之本光奈は在宅で医者の診察を受けていた可能性が非常に高い。それはすなわち、あなたは訪問治療のためにあの『人形の家』を訪れたはずだという事につながります。診療所ではぼかしていたようでしたが、こんな事は調べればすぐにわかる事です。それも認めませんか?」
「……」
筧先生は一瞬厳しい顔をしましたが、やがて小さくため息をついて首を縦に振りました。
「確かに、彼女に頼まれて訪問医療をした事はあります。別に隠していたわけではなく聞かれなかったから答えなかっただけです。でも、数回だけですし、事件当日には行っていません。それは断言しておきます」
「……結構。では二つ目の論拠ですが、この村で唯一の医者である以上、あなたは二件目の現場である松宮小学校の指定医も担当しているはずです。すなわち、学校関係者でないにもかかわらず、あなたには校舎内の設備などを知る機会があった事になります。これもまた、犯人の条件と合致する内容です」
「……否定はしません。ですが、それだけで犯人扱いされるのはいささか乱暴な話です。単に校舎内の設備を知るだけなら、私以外の村人もできたはず。何しろ、あのプールは夏休み中、一般の村人にも公開されていたんですから」
あくまで認めない筧先生に、榊原さんの口調が少しずつ鋭くなっていきました。
「では、事件のあった昨日午後十時から十一時の間、あなたに何をしていましたか?」
「……アリバイですか? そんなもの、あるわけがないでしょう。その時間なら家で休んでいましたから。でも、それは私だけでなくほとんどの人間に言えることのはずです」
「えぇ、そうでしょうね。ですが……犯行時刻にあなたにアリバイがない事は確かです。その上で、ここからが本格的にあなたが犯人である事を立証するための論理証明です」
筧先生は表情を硬くして榊原さんを睨んでいましたが、榊原さんは意に介していない様子でした。
「まず、改めて犯人の犯行当時の動きについて検証してみましょう。昨日の深夜十時を過ぎた頃、犯人……すなわちあなたは現場の『人形の家』にやって来ると、そのまま寝室の窓から侵入した。巾木さんの話では被害者は風で涼むために窓を開ける習慣があるようだったので、侵入自体は比較的容易だったでしょう。そして、以前の訪問治療の際にあらかじめ持ち出しておいたナイフで彼女の頸動脈を切って殺害した」
と、そこで筧先生が早速反論をします。
「ちょっと待ってください! 簡単に言いますが、いくら寝ていたとしても窓から誰か侵入したら彼女が目を覚ましたかもしれないじゃないですか。そんなリスクを犯人が犯したとはとても思えません!」
ですが、榊原さんはすぐにこの反論に答えました。
「ならば、犯人には被害者が絶対に起きないという確証があったのでしょう。例えば……被害者が睡眠薬を飲んでいた、とか」
「……睡眠薬、ですか」
「それなら窓から侵入したところで起きる事はないはずです」
「馬鹿な! 何で被害者がそんなものを飲まないといけないんですか!」
「無論、犯人が飲ませたからです。具体的には、あなたの処方した薬の中に睡眠薬が混ざっていたと私は考えます」
筧先生の顔色が変わりました。
「何を言って……」
「訪問医療をしている以上、あなたは彼女に薬を処方したはずです。その薬の中に睡眠薬を混ぜておけば、素人である彼女がそれを見分ける事は不可能です。知らずに飲んで、そのまま寝てしまったとしても不思議ではありません。いかがですか?」
「た、確かに私が薬を彼女に処方した事は否定しませんが……睡眠薬入りの薬をいつ飲むかわからないのにそんな事をするのは無謀すぎます!」
「だったら、処方したすべての薬に睡眠薬が含まれていたと考えるべきです」
「なら、調べてくださいよ! 現場に残されていた処方薬に睡眠薬が含まれていたのか」
「言われるまでもなく調べてあります。結果、現場の机の上から見つかった処方薬から睡眠薬は検出されませんでした」
「だったら……」
「ですが、あなたが犯人ならこんなものは簡単に小細工できます。犯行時に、睡眠薬の含まれていない処方薬と現場の睡眠薬入り処方薬を入れ替えるだけでいいんですから。こんな事ができるのは、薬の用意ができるあなただけです」
「っ!……し、しかし、遺体からは睡眠薬の痕跡なんか見つかっていませんよ!」
「その解剖をしたのはあなた自身です。死因や死亡推定時刻については確かに事実だったようですが、捜査線上に出てさえいない睡眠薬の有無に関して解剖結果を偽造するのは簡単だったはずです。まぁもっとも……警察で再解剖を行えばこんなものはすぐにでもわかる話ですが」
榊原さんの言葉に、筧先生は言葉を詰まらせました。
「……まさか、再解剖の指示を出したんですか?」
「えぇ。県警本部の監察医が主導するそうで、結果は明日にでも出るそうです。一度自分が解剖をしてしまえば偽造をひっくり返される事はないと思っていたんでしょうが……残念でしたね」
「……」
「あぁ、ちなみに今から私のする話はすでに県警にも伝えていますので、私を殺してすべてをなかった事に……とはいかない事はあらかじめ言っておきます」
榊原さんのセリフに、筧先生は怖い顔で榊原さんを睨みつけていました。でも、榊原さんは涼しい顔で話を続けます。
「さて、彼女を殺害したあなたは当初は予定通りシャワーで返り血を洗い流すつもりでした。ところが、先程も言ったようにここで現場のシャワーが使えず返り血を洗い流せないというアクシデントが発生した。あなたは焦ったはずですが、すぐに近くにある小学校のプールの事を思い出し、返り血はそこで流す事にした上で事後工作に取り掛かりました」
「事後工作?」
「あなたはこの事件をあの家に保管されていた高価な人形を狙った物取りの犯行に見せかけるつもりでした。わざと家中に血痕付きの足跡をつけて物色したふりをし、そして実際にあの家にあった高価な人形を一つ盗んだ。この行為には、浴室で返り血を流そうとした事を悟られないようにするという目的もあったんでしょう」
榊原さんは筧先生から目をそらさずにさらに畳みかけました。
「そして、あなたは寝室の窓から現場を脱出し、そのまま小学校へと急いだ。その後はさっき証明した通り、侵入の過程でたまたま夜道を歩いていた蓮厳さんに見つかり、プールのシャワーで返り血を洗い流している姿を見られたあなたは蓮厳さんを殴打。プールに投げ捨てて溺殺し、殺害現場がプールであるように見せかけるためにプールサイドに彼の持っていたたこ焼きを放置した。これが今回の事件の一部始終だったと私は考えたわけです」
そこまで言って、榊原さんは何か言おうとする筧先生を遮ってこう言いました。
「さて……私は今回の事件がこの流れで進んだと確信しています。しかし、これはあくまで私の推測であり、今の段階では事実上ただの言い掛かり。あなたに指摘されずともその事は重々承知しています。これを『真実』にするには、この一連の流れが実際にあなたの手によって行われたという証拠をこの場で提示しなければなりません」
「……」
筧先生はどこか警戒した風に黙り込んでいます。
「では、この流れの中で犯人の罪を立証する事ができる証拠が発生する余地があるのか? 私は、仮に先程の流れで犯行が行われていた場合、あなたの犯行を立証する明らかな証拠がいくつか発生すると考えます」
「そんなもの……あるわけが……」
「第一に、現場から持ち去られた人形です」
榊原さんは断定するように言いました。
「盗まれた人形はオーダーメイドの一点物です。当然、その辺で適当に処分するわけにもいきませんし、そもそも事件から一日しか経過していない現状では処分する時間もない。また、表向きは人形を狙った強盗目的による殺人に偽装している以上、下手な処分の仕方をして万が一にでも発見されてしまったら、犯人の狙いが人形目的の強盗ではない事がばれてしまいます。だとするなら……問題の人形をまだ犯人が処分できていない可能性が非常に高い」
「……」
「どうでしょう。あなたの自宅と診療所……この二カ所を家宅捜索するというのは。もしかしたら……面白いものが出てくるかもしれませんね。それが問題の人形なら、少なくともあなたが犯行後のあの家から問題の人形を持ち出していた事は明確に証明されるはずです」
ところが、この言葉に対して筧先生はなぜか真剣な表情で切り返しました。
「……いいでしょう。それで疑いが晴れるならぜひやってもらいましょうか。ただし、それで何も出なかった場合はあなたの推理が的外れだったという何よりもの証拠になるはずです。それを認めるなら、家宅捜索でも何でも受けますよ」
その自信満々な態度に、僕は榊原さんが間違った推理をしたのではないかと心配になりました。でも、この切り返しに対して、榊原さんの表情は全く変わっていませんでした。
「まぁ、そうでしょうね」
「は?」
「いえ、自分で言っておいてなんですが、さすがに犯人もこの人形が致命的すぎる証拠になる事は想定済みでしょう。そんなものをのんきに自宅に置きっぱなしにしている可能性は低いと私も思いますし、犯人もそこまで馬鹿ではないはずです。ですが、万が一の事もあるので念のためにあなたの反応を確認しました。……その反応だと、人形は自宅にも診療所にもないようですね」
さりげない様子でそう言うと、榊原さんはすぐに口調を厳しくしました。
「しかし、さっきも言ったように下手にこの人形を処分できないし、そんな時間が存在しないのもまぎれもない事実。ならば、あなたは事件発生から警察が診療所に遺体を運び込んでくるまでのわずかな時間に、自宅でも診療所でもない絶対安全な場所に人形を隠した事になります」
「そんな……そんな都合のいい場所があるわけが……」
「例えば『棺桶の中』というのはどうでしょうか?」
それを聞いた瞬間、僕は自分が何か聞き違いをしたのかと耳を疑いました。そして、それは筧先生も同じのようでした。
「は……はぁっ?」
「私が診療所を訪ねたとき、あなたはこう言っていましたね。『数日前に児玉のお爺ちゃんが亡くなって、親族間でごたごたした末に、今日やっと葬儀業者が遺体を棺に入れて引き取っていった』と。例えば、引き渡し予定のその棺の足元にでも布にくるんだ人形をこっそり入れておけば、自分が何をするまでもなく明日にはその児玉さんの遺体もろとも火葬されてしまう事になったはずです。遺体の引き渡し手である医者のあなたなら、この小細工が充分できるはず。違いますか?」
「それは……」
「よって、私が家宅捜索を申請する場所は三カ所。あなたの自宅と診療所、それに昨日あなたの診療所から棺に入った遺体が引き取られたという児玉家です。私の推理が正しければ、その棺の中から問題の人形が見つかるはず。そして、棺から人形が見つかった場合、それが可能なのは診療所関係者だけであり、すなわちあなたが犯人である決定的な証拠につながる事になるんです。今日、この場であなたを追及しているのはこれのせいでしてね。明日になれば児玉家で火葬が行われて、証拠が消えてしまいますから」
今度こそ筧先生は顔を青くしました。しかし、榊原さんはまだまだ追及を緩める気はないようです。
「第二に、『蓮厳さんを殴った凶器』です。先程も言ったように、二件目の蓮厳さん殺害は返り血をシャワーで流している場面を見られた事による口封じ目的の突発的殺人である可能性が高い。となれば、最初に蓮厳さんを殴打して気絶させたのもほとんど反射に近い状況だったはずで、すなわちその凶器はその時身の回りに存在したもののはず。そして、私の推理が正しいなら、ちょうどいいものがその時犯人の手にはありました。言うまでもなく、犯人が盗んだ人形そのものです」
それを聞いて、筧先生は嘲るように笑いました。
「正気ですか? フランス人形で人を殴っても気絶させる事なんか……」
「とぼけるはなしにしましょう。問題の人形は桐箱に入れて保管され、その桐箱ごと盗まれています。確かに人形そのものは凶器になり得ませんが、その人形が入った桐箱なら、相手を気絶させる程度の衝撃を与えることはできるはずです」
「っ!」
「当然、その凶器になった桐箱は人形もろとも棺の中に隠されているはず。そして、その桐箱を調べれば、そこから蓮厳さんの血痕が検出されるはずです。少なくとも、これで蓮厳さんの殺害が『人形の家』の殺人の後にあった事と、『人形の家』での殺人犯と蓮厳殺しの犯人が同一人物である事は立証できます。そうでなければ、『人形の家』から盗まれた人形の桐箱に蓮厳さんの血痕が付着する事などあり得ないからです」
「……」
筧先生は何も言えずに拳を握りしめながら榊原さんを睨みつけます。ですが、榊原さんはさらに筧先生に容赦なく言葉をぶつけ続けます。
「第三に、あなた自身の発言です。というより、あなたは今まさにこの場で致命的な発言をしてしまっているんですよ」
「い、いい加減な事を……」
「では聞きますが。あなたはどうして犯人が現場から持ち出した人形が『フランス人形』だと知っていたんですか?」
「…………え?」
「あの家には古今東西たくさんの人形が保管されていましたし、問題の人形に至ってはずっと桐箱に入れて保管されていました。普通なら『人形が盗まれた』と聞いてもどの人形かわからないはずですし、百歩譲って問題の人形だとわかっても、桐箱の中にどんな人形が入っているかを知っているはずがありません。なのに、あなたは盗まれた人形が『フランス人形』だと言った。……これは実際に人形を盗んだ犯人しか知りえない情報ですよ」
その瞬間、筧先生の表情が今度こそ真っ青になりました。
「それは……あなたが、フランス人形が盗まれたと言ったから……」
「いいえ。診療所でも今この場においても、今まで私はあなたに対して『人形が盗まれた』としか発言していません。注意していましたからその点は間違いない話です」
「そんな……」
ついに筧先生が体を大きくよろめかせました。でも、榊原さんは追及を緩めません。
「それ以前に、診療所であなたと会話をした時点で、あなたの発言には決定的すぎるものがありました。あなたが診療所で解剖結果を報告して、その後で人形が盗まれた事に話が移った時に、あなたは『人形を盗むだけなのに、寝ていた彼女を殺すなんて』と言いました。しかし、冷静に考えてみるとこの発言はおかしいんです」
「どこが……どこがおかしいって言うんですかっ!」
吠えるように叫んだ筧先生に榊原さんは容赦なく言葉をかぶせます。
「おかしいでしょう。警察はあなたに遺体の解剖を依頼しただけで、検視に当たって余計な先入観を与えないために現場の状況は必要最低限しか知らせていませんでした。にもかかわらず、あなたはなぜこの段階で被害者が『寝たまま殺害された』事を知っていたんですか?」
「……え……」
「確かに被害者はベッドの上で寝ているところを殺害されました。しかし、その現場を見ない状態で『被害者が殺害され、現場にあった人形が盗まれた』と聞けば、普通考えつくのは被害者が室内を物色中の犯人と鉢合わせして殺されたという筋書です。わざわざ犯人が危険を冒して寝ている被害者を殺害したなどとは、先程の情報だけではまずは考えないはずです。にもかかわらず、あなたは現場を一切見ないまま何の疑いもなく『被害者が寝ているところを殺害された』と言い切った。そう確信できたのはなぜですか?」
「そ、それは……」
「それに、この推理の最初の方で事件の流れを振り返っていた時に、私は『犯人は被害者の寝室の窓から侵入して殺人を決行した』と発言しました。この時も私はあくまで侵入経路が寝室だと言ったに過ぎず、『彼女が寝室で寝ていた』とはあえて一言も言っていません。ところが、それに対してあなたは何の疑問も持たずに『寝ていた被害者が気付かれないはずがない』などという、被害者が就寝中に殺害された事を前提とした反論をしました。この反論は『被害者が就寝中に殺害された』という条件を知っていない限りできないもので、つまり今この時に至るまで、あなたは一切の情報もなしに犯人しか知りえない情報をさも当たり前のように示し続けていたという事なんです。これを致命的と言わずして何というでしょうか」
その瞬間、筧先生の血の気が引くのが僕にもわかりました。
「まさか……さっきからの推理の中にも私を追い詰めるための『罠』を仕込んでいたというんですか?」
「私は『探偵』ですからね。真相を明らかにするためだったらこのくらいはします。さて……これらの矛盾に対する納得のいく回答を示せますか? 示せないのなら……その時点で、あなたの負けが確定してしまいますが」
榊原さんの言葉に、筧先生は一瞬ひるみます。
「……では……ではっ!」
しかし、ここまで来ても筧先生はまだ諦めませんでした。目を血走らせながら、榊原さんに食って掛かります。
「動機は何なんですか! 百歩譲って今までの推理が正しかったとしても、私に彼女を……木之本光奈さんを殺す動機なんかありません! 私が彼女を殺す理由は何なんですか!」
筧先生はゼエゼエと息を吐きながらそう言い放ちました。しかし、それに対しても榊原さんの顔は落ち着いたものでした。
「当然、それも当たりはつけてあります。鍵を握るのは、現場のキャビネットに飾ってあった彼女の幼少期の写真です」
僕は、光奈さんの部屋に飾ってあったあの海水浴の写真を思い出していました。そして、星空の下で、なぜか筧先生の顔が一瞬引きつるのが見えたのです。そして、榊原さんがそれを見逃す事はありませんでした。
「心当たりがあるようですね」
「い、いや……そんな事は……」
「問題の写真は砂浜海岸で撮影されたもので、背後の海に虹がかかっている前で小学四年生だった木之本光奈が写っているというものです。写真の裏には日付や場所が書かれていて、それによれば撮影日は十年前の八月十六日、撮影場所は高知の桂浜となっていました」
「それが……どうかしたんですか?」
しらを切るように言う筧先生に、榊原さんは簡潔に答えます。
「あり得ないんですよ」
「は?」
「あの写真の光景と裏に書かれた日時や場所……この二つのデータが矛盾してしまっているんです。少なくとも、あの写真が高知の桂浜で撮影されたなどという事は絶対にあり得ません」
「何でそんな事がわかるんですか!」
「鍵を握るのは写真に写っていた虹の存在です」
そう言って、榊原さんは具体的な推理をしていきます。
「そもそも、虹が発生するには大きな条件が二つ存在します。一つは、直前に雨が降るなりして空気中に水滴が漂っている事。そして、太陽・水滴・観測者の角度が40度~50度前後であり、すなわち観測者から見て水滴が前方、太陽が後方にある事です。そして、それを踏まえて考えた場合、現場に飾ってあったあの写真は大きな矛盾を生じさせることになるんです」
「ど、どういう事ですか?」
筧先生の戸惑ったような言葉に、榊原さんは静かに語りました。
「先程の条件が正しいとするなら、虹が発生するのは観測者から見て必ず太陽と反対側になります。そして、地球上において太陽は東から登った後で南の空を通過し、最後に西へ沈むという動きをします。だとするならば、虹が見える方角は観測者から見て朝方が西、昼は北、夕方は東と固定されるはずです」
そこで榊原さんは突然語気を強めました。
「ですが、あの写真はその当たり前の物理法則に大きく矛盾しているのです。さっきも言ったように、あの写真の裏には撮影場所が高知市の桂浜であると書かれていました。この桂浜は高知市の南側に海が広がっている砂浜海岸ですが、あの写真においては虹が海の向こうの水平線にかかるように写っていました」
「それが何なんですか? 別におかしなことは……」
筧先生の言葉を遮るように、榊原さんは言葉を続けました。
「いいですか、先程も言ったように桂浜が南に面している以上、その海の上に虹ができるためには太陽は観測者から見て必ず反対側に存在しなければなりません。しかし、南に海がある桂浜に虹ができたとするなら、太陽があるべき場所はその反対……すなわち『北側』です。最初に言ったように、地球上において太陽は必ず東から南を通って西に沈むという動きをし、その動きの中で太陽が北の空に存在するなどという事は絶対にあり得ません。つまり……どれだけ直前に雨が降っていようとも、南方面の水平線上に虹が発生するなどという事は絶対に起こりえない話なのです!」
その言葉を聞いた瞬間、筧先生の表情が怖くなったのを僕ははっきりと見ていました。そして、筧先生はそのまま何かを押し殺したような声で榊原さんに反論を加えたのです。
「ですが……いくら砂浜海岸でも桂浜のすべての場所で海が南に面しているとは限らないはず。だったら……」
「残念ながら、あの写真の裏に写真を撮った正確な日付と一緒に撮影時刻も書かれていました。それによると撮影時刻は『十四時三分』。日本においては太陽がちょうど一番南にある時間帯です。そして、あの写真において被写体となっている少女の影はまっすぐ海の方に伸びており、その先の水平線上に虹がかかっていました。そこからわかる事は一つ。あの写真においては『虹がかかっている海岸の方が北で、カメラマンの背中側が南だった』という事です。そして、桂浜の海岸線がどのような形状をしていようとも、高知県内に『北側に水平線が広がるような海がある』などという地形が存在しない事は明白です」
即座にそう反論されて、筧先生は言葉に詰まったようでした。当時の僕にとっては少し難しい話も入っていましたが、ギリギリ小学校で習った範囲内の話だったので何とか話についていく事は出来ていました。
「じゃあ……その写真は一体何なんだっていうんですか!」
「少なくとも被害者が言うように高知市で撮影したものでない事は明白です。その情報を排除して考えるなら、虹と撮影者の位置関係、それに影の方角と撮影時刻などの状況から『北側に海の広がる砂浜海岸』で撮影されたと考えるしかないでしょう。確認したところ、彼女に海外渡航歴はなかったので、そうなればむしろ日本海側のどこかで撮影したと推察するのが自然でしょうね。そう、例えば……『鳥取砂丘』とか」
その瞬間、筧先生の顔色が大きく変わるのがわかりました。そして、榊原さんが鋭い言葉を相手に畳みかけます。
「今から十年前、あなたは夫婦旅行に出かけ、その旅行先で奥さんを亡くしていたそうですね。旅行先は鳥取。死因は事故で、奥さんを助けられなかったあなたはそれまで勤めていた医院を辞めて僻地医療のためにこの村にやって来た……という事になっているようですが、果たしてこれは『事実』なのでしょうか?」
「……」
「実はこの事について気になったので、先程鳥取県警に連絡して問題の『事故』について詳細を確認しました。被害者はあなたの奥さんの筧紗季。記録では、夜間に宿泊していた鳥取市内のホテル近くのコンビニに一人で買い物に出かけた際、途中の川にかかっていた橋から誤って転落し死亡した……という事になっていました。状況的に不自然な部分もあったので県警も一応捜査はしたらしいですが、結局明確な証拠が出なかったので最終的には事故で処理されています。ですが……これが事故ではなかったとすればどうでしょうか?」
「何を言って……」
「端的に言って、筧紗季さんの『事故死』があなたによる『殺人』ではないかと言っているんです」
その言葉が発せられた瞬間、その場に重い空気が漂いました。
「そんな……一体何を証拠に……」
「確かに今はまだ小さな疑惑でしかありません。ですが、十年前の鳥取県警ならいざ知らず、私が今の県警に協力して本気で調べればこの『事故』についての新しい事実が出てくるはずだと確信しています。実際、証拠が出ていないだけで傍から話を聞いただけでも怪しすぎる事件ですし、再捜査するだけの価値は充分にあると考えます。試してみますか?」
榊原さんのその言葉に、筧先生は黙り込んでしまいました。それが、何よりもの答えになっている事は、僕にもよくわかりました。すかさず榊原さんが切り込んでいきます。
「今から十年前、鳥取県で起こった筧紗季さんの死は『事故』はなくあなたによる『殺人』だった。それが私の推測です。そして同じ十年前、今回の被害者である木之本光奈も鳥取を訪れていた可能性が高い。十年前の同じ時期にあなたと被害者が同じ鳥取にいたとすれば、あなたが木之本光奈に殺意を抱く動機が一つ浮かび上がってくるのです」
「……」
「そう……今から十年前、当時十歳だった木之本光奈が、あなたが奥さんを殺害したまさにその瞬間を目撃してしまっていた、という可能性です」
その瞬間、筧先生の肩が大きく震えました。でも、榊原さんは止まりません。
「十年前、木之本光奈は何かのきっかけであなたが奥さんを橋から突き落としている場面を目撃しまった。そして、あなた自身も彼女が自身の犯行を目撃した事に気付いていたのでしょう。しかし、この時点では彼女はすぐにその場から逃げ出す事に成功し、あなたもそんな彼女を捕まえる事ができなかったと推察します。そうでなければ彼女が今この時まで無事でいられたはずがないからです」
榊原さんはさらに言葉をぶつけます。
「あなたは目撃者を逃がしてしまった事に焦ったはずです。何しろ、自分の犯行が目撃されたのは確実ですが、相手は偶然その場を目撃した第三者ですから自分からしてみればその目撃者の身元は全くわからず、一度逃がしてしまったら探し当てることなど不可能に近いからです。あなたはその目撃者の証言で自身の犯行が明るみに出る事を恐れた。ところが、その後彼女はどういうわけかその目撃証言を警察に話す事もなく、他に証拠を残していなかった事もあってあなたは計画通り彼女の死を事故として処理する事に成功しました。本来なら、十年前の事件はそれで終わっていたはずだったんです」
「……」
「しかし、十年経った今になって、木之本光奈という女性が『人形の家』にやってきました。彼女の依頼であの家に往診にやって来たあなたは、キャビネットに飾られていた写真を見て飛びあがるほど驚いたはずです。何しろそこに写っていたのは、忘れもしない十年前の自身の犯行を目撃した少女の姿だったんですから。その瞬間、あなたは目の前にいる女性が、十年前のあの少女だったという事を理解したんです。そして、あなたは十年前の事実が明るみに出るのを恐れ、向こうが自分に気付く前に彼女を殺害する事を思いついた。……これが私の推察する今回の事件の動機なのですが、何か反論はありますか?」
「……反論も何も、すべてあなたの想像です! そのストーリーが本当だという証拠はどこにも存在しません。それに、あなたの推理には問題があります!」
筧先生は腹の底から振り絞るような声で答えました。
「問題、ですか?」
「その話が本当ならそのキャビネットの写真は私にとって致命的すぎる物証のはず。その写真のために殺人を犯したのに、そのまま現場に放置しておくなんて本末転倒じゃないですか! つまり、現場にその写真が残っている事こそが、私が無実だという証拠になるはずです!」
確かに、言われてみればそうでした。ところが、榊原さんは全く動じることなくこう言い放ちました。
「逆です」
「逆?」
「犯人にとって、あのキャビネットの写真は、持ち去る事ができない代物だったんです。何しろ、物が写真ですからそこには必ずネガが存在するはずで、いくら写真を持ち去ったところでネガの場所がわからない以上、焼き増しされて終わってしまうからです。それどころか、写真を持ち去ってしまうと殺人の動機が強盗ではなくその写真にある事が一発でばれてしまう事になり、焼き増しした写真から逆に事件の手掛かりを与えてしまう事にもつながりかねません。ゆえに、犯人はあの写真を持ち去る事ができなかったんです」
あっさりと反論されて、筧先生は焦ったように反論を続けました。
「だったら……そう、その写真は確かに高知で撮影されたものではないかもしれませんが、鳥取で撮影されたというのはあくまであなたの推理による推測で証拠はありません! それに百歩譲ってその写真が本当に鳥取で撮影したものだったとして、どうして彼女はそれを『高知で撮影したもの』などと偽っていたんですか! やましい事がないならそんな事をする必要がないじゃないですか!」
「ならば、その『やましい事』があったんでしょうね」
その場が静まり返りました。
「……何を言っているんですか?」
「そもそもの話として気にならなかったんですか? なぜ『探偵』の私が、今この時、こんなに都合よくこの村にやって来たのか、という事に」
「なぜって……」
「私は基本的に何もないときは東京から動きません。そんな私がこんなところまで出てきている以上、その理由は一つです」
榊原さんは静かに言いました。
「依頼です。私は元々彼女……木之本光奈を調べるよう東京の警視庁から依頼されてこの村にやって来たんです」
「な……警視庁って……」
予想外の話に筧先生は戸惑っているようでした。そして、それは僕も同じでした。なぜ東京の警察が榊原さんまで使ってあの優しい光奈さんの事を調べようとしているのか、僕には全くわかりませんでした。一方、榊原さんは口調を変える事なく話を続けていました。
「今から十年前の八月十七日、鳥取市内にある空き地の一角で、都内在住の藤永栄作という無職の男の遺体が空き地を管理していた不動産会社の社員によって発見。遺体の後頭部に打撲痕が見つかった事から、鳥取県警及び合同調査をする事になった警視庁は他殺と断定して捜査本部を設置しました。警視庁がこの一件に関与したのは、被害者が都内在住の人間だったという事もありますが、それ以上に被害者の藤永が、その一年前に都内を走る都営バスで起こった爆弾テロ事件の容疑者だったからでもあります」
「爆弾テロ……」
「えぇ。走行中の都営バスの運転席近くに放置されていたボストンバッグが爆発。運転手が即死してバスはそのまま横転し、乗員乗客十五名が死亡しています。そして、その十五人の中に『木之本初奈』という女性がいました」
「木之本……って、まさか」
榊原さんは頷きました。
「えぇ。木之本光奈さんの母親で……彼の父親・木之本光秀の妻でもあります。どうやら周囲には事故死と言っていたようですが、実際は爆弾テロによる死だったというわけです。警視庁はかつて過激派組織『血闘軍』に所属していたという前歴から藤永がテロの犯人だと推定していましたが、結局決定的な証拠を上げられなかった事から逮捕につなげる事ができず、その矢先に彼が旅行先の鳥取県内で遺体となって見つかったというわけです。当然、警察はテロの犠牲者の遺族が藤永に復讐をした可能性を考え、捜査の結果その可能性が一番高いと考えられたのが、妻を亡くして自身も病気で余命を宣告されていた木之本光秀だったというわけです。実際、状況証拠はかなりそろっていて、逮捕も時間の問題とされていました」
「……」
「しかし、警察の取り調べに対し、光秀はアリバイを主張した。それによれば、藤永の死亡推定時刻に彼は当時十歳だった娘の光奈と高知へ三泊四日の旅行をしていたというのです。そして、その証拠として光秀や光奈が写った旅行中の写真を警察に提出し、また娘の光奈自身も『ずっと高知にいた』と証言した事から警察もこのアリバイを突破できず、結局その数か月後に光秀自身が病死してしまった事から嫌疑不十分のまま事件は今も未解決のままになっています」
「……」
「で、その時の担当刑事が私の知り合いでしてね。こう見えて、私は昔警視庁で刑事をしていたもので、その時の先輩の一人と言ったところですか。まぁとにかく、その刑事が先日私に接触してきて、自分のキャリアの中で唯一解決できていない十年前のこの事件をもう一度私に調べ直してもらえないかと頼んできたんです。この十年、その刑事も日々の捜査の合間にこの事件について考えてきたんだそうですが、この度停年退職をする事になって、こっちにお鉢が回って来たという事です。ただ、その刑事は依頼の際に十年の間ずっと疑惑に感じていたある可能性について私に語っていきました」
「……可能性、ですか?」
「えぇ。彼は今もなお犯人が木之本光秀であると確信していました。その上で、問題の光秀のアリバイの肝になっているのは写真と当時十歳だった娘の証言。いずれも突破が難しい代物ですが……『嘘をついていない事が前提になっている当時十歳の木之本光奈が、実は父親をかばって嘘をついていたとすれば?』とその刑事は考えていたんです。私もその意見には説得力があると思いましてね。……子供が嘘をつかないというのは大人の勝手な思い込みですし、むしろ殺害の動機が木之本初奈の復讐となれば、その少女自身が積極的に嘘をついている可能性も否定できなかったからです」
子供が嘘をつかないというのは思い込み……それを聞いて、僕は一瞬ドキッとしましたが、当然榊原さんは僕に気付く事なく話を続けていきます。
「なので、当人の話を聞くために現在の彼女の行方を調べました。私なら彼女と直接話す事さえできれば、その嘘を暴く事は充分可能だと考えたからです。その結果、現在二十歳の彼女が病気療養で長野県のどこかで静養しているというところまでは突き止めたので、県警にも協力してもらって彼女の居場所を探し、ようやくここまでやって来たというわけです。まさか……話を聞く前に殺されてしまうとはさすがに予想外でしたが」
そこで、榊原さんは声のトーンを落としました。
「ここまで言えば、彼女がなぜ鳥取の写真を高知と偽っていたのか……さらに言えば、写真の偽造がわかった時点でなぜ私が本当の撮影場所を即座に『鳥取』と予想できたのかわかったはずです。彼女は、十年前に鳥取で父親が犯した復讐殺人の事実を隠すために今もなお『高知にいた』という嘘の証言をし続けていたんです。警察に提出された写真についても、彼女が協力していたと考えれば、殺害当日に桂浜に見せて鳥取砂丘や近隣の砂浜で撮影したと考えれば矛盾がなくなります。被写体が砂浜でさえあれば特徴的な建造物でも写っていない限りは誤魔化す事ができますから、光秀としては鳥取という土地は好都合だったんでしょう。もっとも、あのキャビネットの写真だけは提出しなかったようですがね。虹の矛盾がある事を光秀自身が理解していたのか、あるいは虹の存在そのものから夕立の有無などで偽造がばれる事を恐れたのか……本人が死んだ今となってはどちらかはわかりませんが、生憎娘の方はそれを知らずに写真立てに飾り続けていたようです。何にせよ、私からしてみればあの写真が高知で撮影された物でないと立証できた時点で、その撮影場所は鳥取以外にあり得ないという結論を出すしかなかったんですよ」
そう言ってから、すっかり黙ってしまった筧先生に榊原さんは追い打ちをかけました。
「あぁ、そうそう。今さら言うまでもない事だとは思いますが……藤永栄作が鳥取で殺害された死亡推定時刻は、あなたの奥さんが『事故死』した当日と全く同じ、遺体発見前日の八月十六日でした。むしろ、藤永の事件があったからこそ、鳥取県警はあなたの事件の方に時間や人員を割くわけにいかず、結果的に『事故』という結論に飛びついてしまったと私は考えていますがね。……そんな事情を知らないあなたからしてみれば、実際は鳥取にいて自分の犯行を目撃していたにもかかわらず『高知にいた』と主張する彼女の存在は不気味だったでしょうね。そこからくる疑心暗鬼も、あなたが彼女を殺害する動機の一つになったと私は考えているわけですが」
もう、筧先生は何も言いません。
「これで、新たにいくつかの事が立証できたと考えます。まず、彼女の部屋にあった写真は高知を撮影したものではなく、それがわかった時点で藤永栄作殺害のアリバイ工作の観点から撮影場所は鳥取以外に考えられない。鳥取以外を撮影したとなれば、そんな偽造をやる意味がなくなってしまうからです。そして、藤永栄作と筧紗季が殺害された日付が同じである以上、今回の被害者・木之本光奈があなたの犯行を目撃してしまった可能性は高くなり、これが事実だとすれば今回の殺人につながる直鉄的な動機の立証につながります」
榊原さんは静かに筧先生に語りかけました。
「……もちろん、詳細な事についてはわかっていない事も多いですが、それはこれから警察が本格的に調べればいくらでも証拠は出てくると思いますので、真実が明らかになるのも時間の問題でしょう。それを承知でなお言い逃れを続けるか、あるいはこの時点ですべてを認めるか……選ぶのはあなたです」
「……」
「さて、どうしますか? 夜は長いですし、反論するというのなら私はいくらでも付き合いますが」
その瞬間、筧先生が肩を落とし、そのまま全身を震わせ始めたのを僕ははっきり目撃しました。そして、直後に筧先生の口から震えつつもはっきりとこんな言葉が発せられました。
「………私が悪いんじゃない……私はこうするしか…………私が……私が、か、彼女を……この手で……あ……アアァァァァァァッ!」
そのまま、筧先生が地面に崩れ落ちて泣き声を上げるのを僕は聞いていました。榊原さんはそれを冷静に見下ろしていて、同時に満天の星空に一筋の流れ星が流れたのが印象的でした。
筧先生が敗北を認めてからしばらくの間、二人の間にはずっと沈黙が漂っていました。でも、しばらくして榊原さんが地面にへたり込んだままの筧先生を見下ろしながら静かに声をかけました。
「十年前、どうして奥さんを?」
「……仕方がなかったんです。あの時の私は、もう、あぁするしか……」
筧先生はうなだれたままポツポツと話し始めました。
「あの時、私たちの夫婦生活は最悪でした。あの女は医者一家の跡継ぎだった私の財産目的で結婚したに過ぎなかったんです。派手な生活をするだけならまだしも、ついには浮気まで始めて……。離婚を持ち出しても絶対に応じず、それどころか私の大学時代の素行不良をネタに逆に脅してくる有様でした。それで、もうこの状況をどうにかするにはああするしかないと思って……」
「旅行先の鳥取で殺した、というわけですか」
筧先生は黙って頷きました。
「ところが、あいつを橋から河川敷に落として辺りを見回してみると、橋の入口の辺りに停車していた車の中から、一人の小学生くらいの女の子がジッとこっちを見ていたんです。正直、何でこんな夜遅くに女の子がこんな場所にいるのかわかりませんでしたが、私があいつを橋から突き落としたのを見たのは間違いありませんでした。咄嗟に彼女の方へ向かおうとしたんですが、ちょうどそのとき近くの建物の陰から親と思しき男が小走りで出てきて車の運転席に駆け込み、そのまま車は発進してしまいました。ナンバーを見る余裕さえなかった。私は……あの少女が運転席の男に見た事を話して、その話が警察に伝わる事を恐れました。でも、結果的には彼女が目撃した事が警察に伝わる事はなく、事件は当初の私の予定通り『事故』として処理される事になりました」
筧先生の独白は続きます。
「ひとまず、私の犯行がばれる事はありませんでしたが、そのまま病院に勤め続ける事は心理的に無理でした。私は勤めていた病院を辞めて、僻地医療の名目でこの身を隠すためにこの村にやってきました。正直、たまたまたどり着いたのがここだっただけで、身を隠して暮らせるんだったらどこでもよかったんです。だから……まさか十年も経った今になってあの時の少女とこんな田舎で再会する事になるなんて思っていなかったんです」
「木之本光奈、ですか」
「えぇ。往診に行ってあのキャビネットの写真を見て心臓が止まるかと思いました。しかも、彼女はそんな私にその写真が『高知で撮影したものだ』と言ったんです。私には……彼女がすべてをわかった上でわざと嘘をついて、私にプレッシャーをかけて脅迫しているようにしか聞こえませんでした。いつ彼女が私の過去を誰かに話すかもしれない。そう思うと、このまま彼女を放置しておく事なんてどうしてもできなかったんです。だから……私は彼女を……」
筧先生はがっくりと肩を落としました。でも、榊原さんは容赦なく先を続けます。
「蓮厳さんを殺したのは、やはり返り血を洗い流しているところを見られたからですか?」
「……あなたは本当に恐ろしい。何であそこまで、まるで実際に見たかのようにあの時の状況を再現できるんですか?」
「という事は、やはり……」
「はい。あなたが言ったように、本来返り血は現場の浴槽で洗い流すつもりでした。でも、いざ使おうとしたらシャワーから水が出なくて……。診療所までは遠すぎるし、小学校のプールのシャワーで洗い流すしかなかったんです。でも、小学校に入るところを蓮厳さんに見られたらしく……。シャワーで返り血を流しているところを蓮厳さんに見つかって、何をやっているんだと詰問されました。私は、咄嗟に近くに置いてあった人形の入った桐箱で蓮厳さんを殴りつけました。その時点で生きている事はわかっていましたが、今さら引き返せなかった。私は、気絶した蓮厳さんをプールに投げ込んで息の根を止めました。そして、そのまま最低限の隠蔽工作をしてから、診療所に戻ったんです。人形は、あなたの言ったように児玉さんの棺の中に隠しておきました。次の日になったら葬儀業者が引き取りに来る事はわかっていましたから……」
そして、筧先生は肩を落としたまま力なく言います。
「それが、私のやったすべてです」
再び、丘の上に沈黙が漂います。それから少しして、榊原さんはこんな事を言いました。
「では最後に。あなたはなぜ今、こんな丘の上にやって来たんですか? それをあなたの口から聞きたいのですが」
確かに、それは不思議でした。すると、筧先生は恨みがましそうな目で榊原さんを見上げます。
「人が悪いですね……ここで私を待ち伏せしていた張本人のあなたが、それがわかっていないわけがないじゃないですか。この上、自分を貶めるような事は言いたくありません」
「……いいでしょう。最後にその点についての推測を述べておきます。あなたが今回の殺人を決行した動機は例の写真にありました。その写真について木之本光奈は『高知へ行った』と嘘の話をしていたわけですが、鳥取の藤永殺しの事など知らないあなたにとって、彼女が他の人間にあの写真の真実を……つまり十年前の筧紗季殺しにおいて彼女が目撃した事を誰かに話している可能性を考えないわけにはいかなかった。では、その可能性があるのは誰なのか? 事件後、あなたはその可能性のある人間を知ります。すなわち、ほぼ毎日のようにあの『人形の家』を訪れていて、彼女とお茶をしながら色々な話をしていた少年の事を。そして、その少年が夏休みの宿題の自由研究の一環で、この丘へ毎晩のように天体観測に来ていた事を」
それを聞いた瞬間、僕の背筋が一気に凍り付きました。
「あなたは、この丘にやって来る青原昭介君に何かするつもりだったのではありませんか? その恐れがあったからこそ、私は彼が来る前にこうしてこの場所であなたを待ち伏せし、第三の悲劇が起こらないようにしていたわけですが」
「……それについて話すのは無意味でしょう。現実問題として、今この場にその青原という子供はいなくて、まだ何も起こっていないわけですから。まさか、まだ何も起こっていない事についてまで私は罪を償わなくてはならないんですか?」
筧先生の最後の悪あがきとも思える反論に、榊原さんは黙って首を振りました。
「いいえ、そこまでの事は言っていません。ただ……何も起こらずによかった。あなたの罪がこれ以上増えなくてよかった。それだけです」
「そう、ですか……」
そこまで言って、筧先生は立ち上がりました。
「それで、これから私はどうすればいいんでしょうか?」
「……さっきも言ったように、この推理はすでに県警側にも伝えてあります。そして、私が連絡すればすぐに麓にいる駐在さんがやって来る手はずになっています。最初は任意同行の形になりますが、さっき挙げた証拠が見つかればすぐにでも逮捕令状が出るでしょう」
「……用意周到ですね」
筧先生は自嘲気味に笑って、そのまま頭を下げました。
「もう抵抗はしません。正直……疲れました。こうなったら、もうすべてを話して楽になりたいです」
「……わかりました」
それからしばらくして、丘の反対側から駐在さんが昇ってくるのが見えました。そしてそのまま榊原さんと何か言葉を交わした後、筧先生と一緒に丘を降りて行ってしまいました。後には榊原さんだけが残り、そのまま無言で星空を見上げています。
僕は、このまま出ていくべきかどうか少し迷いました。気付かれていないのなら、今日はこのまま家に帰ってしまってもいいかもしれないと思っていました。ところが、それを決断する前に、一本杉の下の榊原さんが空を見上げたまま声を上げました。
「青原君、いるんだろう? もう、出てきても問題ないよ」
その言葉に僕は飛び上がるほど驚きましたが、無視するわけにもいかず、少しばつの悪い思いでおずおずと草の陰から出て、榊原さんのいるところまで行きました。榊原さんは、相変わらず星空を眺めながらこう言います。
「まったく、最後まで祭りを楽しんでおくようにわざわざ忠告したのに、無駄になってしまった。本来なら君がここに来るまでに片をつけるつもりだったが……まぁ、聞いてしまったものは仕方がない、か」
僕は、いつから僕がいる事に気付いていたのか尋ねました。
「最初からだ。聞いていたとは思うが、これでも一応元刑事でね。自分を隠れて見張っている視線はよくわかるんだよ。もっとも、君の存在を明かせば筧が何をしてくるかわからなかったから、あえて知らないふりをしていたわけだが」
そう言ってから、榊原さんはこう聞き返してきました。
「後悔していないかね? 君にとって優しいお姉さんだった、木之本光奈さんの隠されていた過去を聞いてしまって。君からしてみれば、彼女の思い出は綺麗なままの方がよかったかもしれないがね」
確かに、光奈さんの事は少しショックでした。でも、不思議と光奈さんに対する気持ちは以前と変わらないままでした。
「そうかね。まぁ、何にせよこれで不本意ながら私の依頼も完了だな。筧の自供で十年前に木之本光奈が鳥取にいた事を立証できれば、必然的にそれは木之本光秀が写真の偽造までやって鳥取にいた事を証明でき、ひいては十年間未解決だった木之本光秀による藤永栄作の殺害を立証できる。もっとも……もう少し私が来るのが早ければ、彼女を殺される事もなかった。それだけが残念だ」
そう言うと、榊原さんは急に話題を変えました。
「ところで、せっかく来たのに天体観測をしなくていいのかね?」
そう言われて、僕は慌てて望遠鏡を組み立てると、少し恥ずかしい気持ちになりながらも星の観察を始めました。榊原さんは後ろからそれをジッと眺めています。そのまま、何とも言えない気まずい時間が過ぎていきました。
「……東京ではね、こんな見事な星空は見る事ができないんだ」
突然、榊原さんはそんな事を言いました。
「地上が明るすぎてね。そんな星空を食いつぶすほどの光を生み出す人間だが、光が強ければ強いほどその裏に闇ができる。強すぎる光は、人を歪めてしまう。私の仕事はその闇を暴く事だが……そんな強い光の中にも、闇だけではなく普段は見えないこの星空のような『光』を持っているのが人間だと信じている。……まぁ、私には似合わない言葉だがね」
そう言うと、榊原さんは僕の方をジッと見つめてこう言いました。
「どうか、君は闇の中に輝くこの『星の光』を大人になっても忘れないでほしい。それが、今回の事件で人の『闇』を見てしまった君に対して言える、私のアドバイスというかフォローという事になる。もっとも、所詮はしがない探偵の戯言だ。忘れてもらっても構わないが」
そう言うと、榊原さんは観察を終えた僕の所に近づきました。
「家まで送ろう。さすがにこのまま一人で帰すわけにもいかない。そこまでが、この事件における私の役割だ」
僕は少し戸惑いましたが、少ししてから小さく頷いて榊原さんと一緒に丘を降りて行きました。それが、僕が少年時代に体験したこの少し悲しい事件の終わりを告げる合図になったのでした。
その後、僕は榊原さんと一緒に家まで帰る事になりました。帰る途中、僕は榊原さんに色々な事を聞き、榊原さんもそれに丁寧に答えてくれました。探偵とは普段どんな生活をしているのか、どんな事件を調べた事があるのか、事件を通して知った人間というものの本質……高校生の女の子が自称助手として勝手に事務所に出入りしている事まで少し苦笑しながらも教えてくれました。
僕を家の所まで送った後、榊原さんはそのまま無言で手を振って、どこかに去っていきました。次の日、村は殺人事件の犯人として筧先生が逮捕された事で大騒ぎになっていましたが、すでにその時榊原さんは村からいなくなっていました。駐在さんの話だと、自分の仕事は終わったと言って朝一番で始発電車に乗って帰ってしまったそうです。それ以来、僕は一度も榊原恵一という探偵に再会した事はありません。今、彼がどこでどうしているのかはわかりませんが、多分今もどこかで事件を解決し続けているのでしょう。
僕はそのまま中学時代まで松宮村で過ごしましたが、高校になって長野市の高校に進学し、下宿のために村を出る事になりました。それ後もほとんど村に戻る事はありません。でも、あの夏の思い出は今でも僕の中に大きな影響を残しています。僕という人間の根幹には、あの時学んだ色々な事が今なお根強く残っているのです。




