「辺境天使エルの奉仕録4」 羽野ゆず 【人間ドラマ×推理】
そう、俺の変装は“完璧”だった。なぜなら――
「星影さんの手。小っちゃくて可愛いね。身長が低い人は、やっぱり手も小さいのかな」
いつの間にかエルに手を取られ、占い師のようにしげしげと観察されていた。
低身長。星影が抱える最大のコンプレックス。
今回はそれを逆手にとった。
初めての本が刊行され作家デビューした際、浮かれていた星影は、自分にご褒美を購入した。
シークレットシューズの専門店で、20センチアップの代物を特注したのだ。うちは15センチまでやってない、と業者がごねるのをゴリ押しして作らせた。素材にこだわったので、重さはそれほど感じず、履き心地も悪くない。
想定外だったのは、その靴を履くシチュエーションがなかったことだ。もし鮎川とプライベートで会うようなことがあれば履こうと、家のなかで歩く練習はしていたが、とうとうそのチャンスは訪れなかった。
153センチの身長が、173センチにアップ。劇的に印象が変わるのはいうまでもない。
他にはキャップを被り伊達メガネをかけシャツを替えただけだが、変装する前後の星影を〈同一人物〉とすぐに気づく者などいなかったはずだ。
だから、一瞬目が合っただけのあの少年に、見破れたわけがない。
星影をよく知る人物に、じっくりと観察されたらさすがにバレるかもしれないが……
「あ、金元」
忘れてはいけない。まだ容疑者が残っている。公園向かいのコンビニにいた編集者の金元だ。
なぜあの場にいたのかは謎だが、新作の打ち合わせのたび顔を合わせているし、奴ならば変装を見抜く可能性はゼロじゃない。たとえ背格好が違っていても、個人が放つ雰囲気や佇まいは変えられないからだ。
いったんバイクで走り去ったが、実は公園に戻ってきていた。
星影の怪しい変装を見抜き、尾行すると、あわや少女誘拐の場面に遭遇する。担当作家が逮捕された、となれば出版社も少なからず汚名を被ることになる。かねてから売れない作家の星影を疎んじていた金元は、これさいわい、と天誅を下したのであった。
……いやいやいや。ストップ。落ち着け、俺。
さっき検討したばかりじゃないか。
少女に直接的な危害を加えようとしていたならまだしも、あの時点での星影は、“親切なお兄さん”の域を出ない。絆創膏を渡して、トランクの荷台に座って貼るよう勧めていただけだ。
では、こういうのはどうか? 少女を説得して口裏を合わせ、星影を誘拐犯に仕立てあげようとした。――これも巧くない。金元が自らの手を汚してまで星影を排除するメリットがどこにある。星影純也など、放っておいても近い将来どうせ消える家だ。合理主義者の彼らしくない。
仮説を思いついては、打ち消す。そればかりを繰り返している。
頭脳労働をしたせいか、むしょうに糖分が恋しくなった。
雲の綿菓子を乱暴にちぎって、獣のようにかじりつく。うん。やっぱり奇跡的に美味い。
「――孤軍奮闘しているところ悪いんだけどさ、星影さん」
エルが申し訳なさそうに口をはさんできた。
「辺境の地で犯人を推理しても、無駄だよ。生き返ったら、ここでの記憶は失くしているんだ。雲の綿あめも僕のことも全部」
「記憶を失くす……そうなのか」
「ごくまれに記憶を持ったまま生き返る人もいるけど。百年に一度あるかないかくらいの確率だね。しかし、さすがは推理作家。面白い発想。いっそ今回の事件を小説に仕立てみたら?」
犯人の気持ちを味わう、という当初の狙いは叶わなかったが、被害者の無念さや恐怖は存分に味わうことができた。被害者視点で描くミステリー。悪くないかもしれない。
星影が満更でもなさそうな顔をすると、エルははっとして、「いけない。余計なアドバイスしちゃった! 師長にまた怒られちゃう」と羽を縮こませた。
過去に何をやらかしたんだろう、この天使は。
コホンとあまり威厳の感じられない咳ばらいを、エルがした。
「ところで、お手洗いは大丈夫? たまにいるんだよね。肉体の生理が抜けきらず、尿意を訴える人。どうしてもしたくなったら、南東五百メートル先に雲の切れ目があるからそこからするように。雨に浄化されるから衛生的にも問題なし」
レクチャーされたものの、今のところ尿意は感じられない。
現世で中央公園に出向く際、進んだ道をわざわざ引き返して自宅で小便を済ませておいた。だって、あの古ぼけた〈赤ペントイレ〉で用を足す気にはなれないし……あ。
星影はまたも重大な疑問にぶつかる。
俺はどこに監禁されていたのだろう――?
おそらく襲撃犯は、星影が死んだか、もう助からないと判断したのだろう。ゆえに、『死体』をその場に放置できず、とりあえず人の目が触れないところに移動させた。四肢を拘束したのは、万が一の用心のため。また、身体を運びやすくする目的もあったかもしれない。
頭に何かを被せられ視界を封じられていたが、あのとき、かすかに祭りばやしが聞こえていた。つまり、公園からそれほど離れていない場所ということになる。
拘束されていた手足を少し揺すっただけで、壁のようなものに触れた。極端に狭くて息苦しい空間だった。
まさか、〈赤ペントイレ〉に閉じ込められた?
想像して星影は眉間にしわを寄せた。ところどころ塗装が剥がれた古いトイレは一人用の和式便所。「狭い」という条件は満たす。
だが、なにかが違うような気がした。――そうだ、高さ。赤ペントイレの広さは直径1メートルに満たないが、円柱型で天井までの空間には余裕がある。
肉眼で確認したわけではないが、星影が監禁されていた空間は上下左右のスペースに余裕がなく、息苦しいほどの圧迫感があった。そもそも盆踊りの最中に公共のトイレを封鎖するのは一般人に難しいのではないか。
赤ペントイレじゃなければどこだ。
犯人の視点になってみる。周囲に不審がられないよう一刻も早く、星影の『死体』を隠さねばならない。どこに――?
「……レンタカー?」
星影が手配したワンボックスカー。おあつらえ向きに、トランクの蓋も開きっぱなし。『死体』のズボンのポケットを探れば、キーも簡単に手に入る。
犯人は、星影の体をトランクの中に隠したのだ。
トランクの中に入った経験などもちろんないが、かなり息苦しく感じるであろうことは想像に容易い。さらに頭に被せられていた袋状のもの。あれは、少女を拉致するため星影が持参した麻袋ではなかったか。車のキーとともに、ブラックジーンズのポケットの中に忍ばせておいたのだ。
星影は息を深く吸って吐き出す。
考えれば考えるほどに、思考が冴えていくような感じがした。内に秘めていた熱が溶かされていくような感覚。
昔から、推理小説が好きだった。とくに探偵が推理を披露するシーンは毎回高揚感をおぼえずにはいられない。古今東西のミステリーを読み漁るだけでは足りず、いつしか自分でも書いていた。読者として目が肥えていただけに読み返すたび、己の筆の稚拙さを痛感したが、だからこそ次は、と精進できた。
そうやって地道にコツコツとやってきたんだ、俺は――。
たぶん、もう良いところまで来ている。ゴールは近い。集中力よ、極限まで高まれ。
「よしっ!」
気合を入れるため、頬をぺちりと叩いた。
残る謎は、星影を殺した真犯人ともいえるあの『爆音』。
どんな音だったか。表現するのは難しい。とにかく、五感すべてが麻痺するような、破壊的な音だった。ミサイルでもテロ攻撃でもなければ何だったのか。
推理小説に無駄な描写いらない。
そこにあるすべてが伏線で、合理的な解決に向いていなければらない。だからこそ本格推理小説は美しい。
己のポリシーがふっと浮かんだ。もちろん、これは小説などではない。星影に降りかかった過酷な現実である。それでも、いや、だからこそ、わずかな伏線も見落としてたまるか。
中央公園。盆踊りのやぐら。ステージと周囲にセッティングされた大小の太鼓。赤ペントイレ。草むらに転がっていたサッカーボール。金元のハーレーダビッドソン。
もっと――もっとだ。会話の断片なども回想してみる。
『そうですか。じゃあお願いします』――金元の冷たい声音。
『まいったよ、生徒が増えすぎちゃって……太鼓の数が足りなくってさ、作りかけのでもいいから義父が持ってこい、ってさ。まだ鋲打ちが終わってないっていうのに』――商売繁盛で結構なことだな、神田川。
『トシ!』――やぐらから飛んできた神田川の義父の怒号。
『おまえさ……やっぱり、鉢巻きに法被のほうが似合うよ』――少年よ、君は少しお世辞というものを覚えたほうがいい。
『もう大丈夫だから、早く行きなよっ』――かんざしを揺らして、そっぽを向く少女。行きなよって、どこに……?
星影はしきりに無精ひげを撫でている。
必死に構想を練っているとき、ふっと閃きが訪れることがある。
小説の神が地に降りてきたような、かろやかな足音が脳内で奏でられる。
「いや……まさか」
そんな恐ろしいことがあるものか。あり得ない。信じたくない。
けれども、監禁場所をあそこと仮定すると、失っていたパズルのピースが見つかったかのように、すべてが綺麗に収まっていく――
「なんてこった」
星影は低くうなった。




