「ビッグボーイ」 ナツ 【純文学】
電車が大きく揺れて、少年は目が覚めた。彼はあくびをすると、瞼を指でこすった。そして腕時計をたしかめて、もう夕方になっていることに驚いた。祖母の家に寄るつもりだったのに、下車をせずにもう何駅も通り過ぎてしまっていたのだ。さらに窓の外を眺め、太陽が海を赤く輝かせていることに、時間の経過をひしひしと肌で感じていた。
隣に誰かが座っていることに少年は気づいていた。しかし彼はその者のことよりも、祖母に申し訳ない気持ちで一杯だった。僕が遅れたことで、きっと祖母はすごく心配しているだろうな、もう堪らなくなって母さんたちに電話もしているはずだ、なんてことを思っていた。それにしても少年は、どうしてこんなにも長く眠ってしまったのか不思議でならなかった。彼はいつも夜の九時にはベッドで横になっており、それからしっかり八時間以上の睡眠をとっているのだ。昨日もそうしていた。
長くそのことについて少年が考えていると、電車が再びごうんと揺れて、隣から大きないびき声が一緒に聞こえた。少年はびっくりすると、横に座っている者に怪訝そうに視線を移し、その巨大さに思わず絶句した。その者はホッキョクグマのように大きかった。座っている席も二人分を陣取っており、しかもそれで身体を小さくしようと脚の感覚を狭めたり、腕を組んでいたから、余計にその異様さが際立った。よく観察すると、なかなか筋肉質であり、骨も太くて丈夫そうだ。しかし、少年が何よりも異質に感じたのは、その者がパンダのお面で顔を隠していることだった。
少年は一種の畏怖の念を感じてしまい、巨人を見つめるのをやめようとしたところ、その巨人が偶然ぱちりと目覚めて二人は目が合った。咄嗟に、少年はもごもごと言葉にならない声で言い訳のような何かを言おうとしたが、巨人の仮面の奥から放たれる眼光に堪えられず、それさえもできなかった。代わりに、巨人が大きな伸びをして言った。
「すみませんね、お隣さん。私のいびきがうるさかったでしょ? 」
「いえ、大丈夫です」と少年はたどたどしく言った。
「それはありがたい」
巨人は納得したように頷くと、頭をわしゃわしゃと掻きながら大きなあくびをした。それから少年にもう一度謝り、頭を深々と下げた。この無骨でありながらも、礼儀正しくあろうとする巨人の態度に、少年もそれまで感じていた恐怖が少しだけ薄れた。
「私はビッグボーイ」と巨人は名乗った。「あなたは? 」
最初、少年はいったい何を言われて、訊ねられたのか理解できなかった。しかし、巨人がもう一度訊ねたので、彼はどこか不可解に感じながらもゆっくりと自分の名前を相手に伝えた。ビッグボーイは指をぱちんと鳴らし、彼の名前の響きが気に入ったと言って褒めた。そしてズボンのポケットから汚い手帳を取り出すと、適当なページを開き、ペンで彼の名前をさらさらと書き記した。
「ビッグボーイとは本当の名前ですか? 」と少年は気後れしながらも言った。
ビッグボーイは仮面の額を指で叩きながら、幅のある肩を曖昧にすくめた。
「だいたい本当でもあるし、少しだけ嘘でもあります」とビッグボーイは言った。「この名前は小学生の頃の渾名なんです。だけど、ある意味こっちの方が、生まれた頃からある名前よりもしっくりきています。この気持ち、わかります? 」
少年は考えてみたが、申し訳なさそうに首を振った。しかしビッグボーイは「気にしないで」と明るく言うと、自分の話を続けた。
「私だって、別にこの名前を気に入ってはいません。ただ、仕方なく名乗っているのです。もし、こんなに身体が大きくなければ、もっと女の子らしい名前にしていたでしょう。だけどこの図体では、本来の名前である『萌子』なんて恥ずかしくて言えないし、周りも冷やかしてからかうのです。それならまだしも、もっと酷いのは同情されることです。これだけはどの屈辱よりも辛い」ビッグボーイはここまで喋ると、ふいに黙ってから言った。「……そういえば、よく勘違いされるけど女なんですよ、私。気づいてくれましたか? 」
少年はまたも頷くことができなかった。巨人はただでさえ一般的な女性のサイズではないのに、胸の形は胸襟のようにも見えたし、声も低かった。なにより唯一の女性らしさである長い髪も、整えられてなくて切ってないだけでぼさぼさに見えた。
「……そうですか」とビッグボーイは先ほどと違って明らかに落ち込んでみせた。「もっとお洒落した方がいいのかなあ。でも、どうにもその手のことは長続きしないんです」
「ちなみにそのパンダのお面は? 」
少年は雰囲気を変えようと、そう訊ねてみた。すると、ビッグボーイはパンダの目の周りを触りながら説明を始めたが、途中でぷっと吹き出すと、腹を抱えてげらげらと笑い出してしまった。おかげで少年は、巨人が祭りの屋台でお面を買ったという以外に、何も知ることはできなかった。ビッグボーイはすぐに謝って、また説明をしようとするがその度に笑ってしまい、ついには本人も話すことを諦めてしまった。どうしようもないので、代わりに、少年の話を聞いてみたいと彼女は言った。少年は一生懸命に、年齢や、通っている学校や、電車に乗っている理由を語った。その最中、ビッグボーイは佇まいを正して、けっして笑うことはなかった。しかし、彼女が思い直して、またお面の話をしようとすると、思い出し笑いを始めて、やはり言葉が続かなかった。
「まあ」と彼女は開き直って言った。「私がパンダのお面を被っている経緯を知ったところで誰も困ったりしませんからね。もちろん、あなたも。……それよりも生きていれば、もっと不思議なことが起こっても、その原因や正体が知らないままでいることの方が多くなるものです」
「……そうですか」
「ええ」とビッグボーイは答えた。「不思議でしょうけれど、ここで大切なのは客観的な真実ではなく、あなたが求めている考察なのです。あなたは私のお面について、どう思いましたか? 」
少年は困ったように指を組んだ。そして眉間に皺を寄せながら、じっとパンダのお面を見つめた。しかし彼には、唇を開けるだけの決意がまだ足りないでいた。
「大丈夫です」とビッグボーイは優しい声色で言った。「私は怒ったりしません。遠慮は必要ないですからね」
少年はこくりと頷いた。
「……あなたが自分の顔を見せたくなくてお面を被っているのだと思いました。きっとあなたの顔はあなたが望んでいるものとは違うだろうから」
「なるほど、面白い見解です。たしかに、そういう部分もあるかもしれません。素晴らしい、これは頑張って言えたで賞です」
ビッグボーイはそう言うと、マジックテープの小銭入れをばりばりと開いて、その中から十円玉と一緒に飴玉を掴んだ。そして、長いこと考えてから十円玉を小銭入れに戻し、飴玉だけを少年に渡した。少年がぽかんとしていると、彼女は「あげます」と言って中指を立てた。しかし、それが不適切であることに気づいて、すぐに中指を折りたたむと、代わりに親指を立てた。
「この飴玉はいずれ食べてください。タイミングを間違えては駄目ですよ? 」
「ただの飴玉ではないのですか? 」
「ただの飴玉です。だけど、十年も食べないでいたらお腹を壊しちゃうかもしれませんのでね。何事にもタイミングがあるということです。たとえば、あなたが電車を乗り過ごしてしまったように」
「きっとみんな心配しているかもしれません」と少年は俯いて言った。「……はやく安心させてあげないと」
「問題ありません。よく見ていてくださいね? 」
少年は首を傾げると、ビッグボーイは「ここです」と言って仮面を指差した。そして右手で仮面を下から掴みながら、左手で少年の髪をぎゅっと掴んで引き寄せた。少年はあまりの痛さに悲鳴をあげたが、ビッグボーイは先ほどのように笑っていて、何も聞いてはいないようだった。しかし、それは男性的ではなく、女性特有の高い声に変わっていた。そして巨人は震えている右手にぐっと力を入れて、少年の眼前でお面を外した。その間、少年は泣き叫んでいたが、その声は誰の耳にも聞こえなかったらしい。もしかしたら、それを搔き消すようにビッグボーイがげらげらと笑っていたせいかもしれない。
★
以上のことが、大学時代の友人に喫茶店に呼ばれて話していると、小学生の頃の話題が持ち上がり、彼が話した内容だ。どうしてそんな話をしたことになったのか、僕にはそのとき皆目検討もつかなかったが、きっと彼にとって話さなければならない時期であったのだろう。もちろん、それがどんな時期であるのかも僕にはわからない。もしかしたら、とても些細なことかもしれない。だが、この時を境に、もう二度と僕たちが会うことがないことから、僕がこの話題に何らかの意味を感じてしまうのも、しかたないことだろう。
「それで? 」と僕はコーヒーカップから唇を離し、困惑したように言った。「ビッグボーイの顔はどんなのだった? 」
彼はつまらなそうに首を振る。そしてタバコに火を点けて、それを吸わずに灰皿に置いた。
「覚えてない」と彼は言った。「多分、平凡な顔だったんじゃないかな。どこにでもある平均的な日本人の顔」
「もしかして、その後のことも? 」
「ああ、あんまり覚えてないんだ。まるで夢のように忘れてしまった。だけど、僕たちは普通に別れてさよならをしたんじゃないかな」
僕はこくりと頷いた。だけど、心のうちではあらゆる疑問で埋め尽くされていた。とはいえ、その問いに答えは返ってこないのだろう。
「信じたいけれど、にわかには信じられない話だ」と僕は思ったことを正直に言った。
彼は別に気を悪くするわけでもなく、にこりと微笑んだ。僕に話を聞いて欲しかっただけで、後のことはどうだって構わないみたいに。
「大切なのは」と彼は言った。「君の考えなんだよ。信じてなくても構わない」
「なぜ、この話を? 」
彼は目を瞑ると、ふうとため息をついて、タバコにもう一本火を点け、また意味もなく灰皿に置いた。そしてズボンのポケットに突っ込んでいた左手をテーブルの上に拳で置くと、花が咲くようにゆっくりと指を伸ばして開いた。
「もっとはやく食べるべきだったし、それこそ僕が得た教訓であったのだが」と彼は言って、肩をすくめた。「……つまりは、タイミングだよ」




