「辺境天使エルの奉仕録3」 羽野ゆず 【人間ドラマ×推理】
目を開けると、眼前にいっぱいのスカイブルーが広がっていた。
なんだ、まだ夢の中か。
残念だ。これが現実なら、最近滅多にない爽快な目覚めだったのに。意識も身体もさっぱりとして、精気がみなぎっている。心は凪のように穏やかで落ち着いている。
星影は大の字のまま、首だけ左右に動かした。
染みわたるような美しい青空の地平線に、ふわふわの白い絨毯が続いている。いったい何畳分あるのだろう。絨毯はしっかりとした弾力があり、低反発マットレスに横たわっているかのように寝心地が良い。
ずっとこのままでいたい。星影がまどろみかけたところで――
「いらっしゃい、星影さん」
それはそれは、まばゆいほどの光に包まれた。
目が慣れるまでどのくらいかかったろう。細く開けた視界に、神々しいとしか表現しようのないものが飛び込んできた。
天使だ――。
実物を見たことはないが、そうと確信できた。
七色に輝く羽。西洋風でも東洋風でもない、地球上のどこにも属さない神秘的な顔立ち。
白髪に近いウェーブのかかった金髪をたなびかせている。肌は抜けるほどに白く、唇は血のように紅い。どんなに才能豊かな画家や作家も、この美しさを正確に表すことなどできない。ただ“完璧な美”がそこに在る。
「まあまあ、くつろいでいってくださいませ」
やけに呑気な口調だった。
天使が枕元に正座したので、星影も起き上がって正座する。そうせずにはいられなかったからだ。天使はにっこりと微笑み、おもむろに絨毯をちぎると、口の中に放り入れた。もぐもぐと咀嚼する。
食べた、だと……? 星影があ然としていると、天使はもう一片ちぎって、手渡してきた。
「雲の綿あめ。どうぞ。甘くて美味しいよ」
綿あめ? たしかに見た目はそれっぽいが。
おそるおそる口に含んでみると――美味い……!!!
舌の上に乗るとじゅわっと溶ろけて、甘いだけでない優しい風味が後を引く。このどこか懐かしい味は、ミルキー飴のよう。ミルキーはママの味。
気づくと夢中で食べていた。両手に綿あめを掴み、頬張っている状況に、星影はようやく我に返る。天使は、ほら美味しいでしょう、といわんばかりのドヤ顔をしていた。
雲が綿あめ、だなんて、やっぱり夢みたいな話だ。頬をつねると痛みを全く感じない。ひとしきり首をひねった後に、星影は訊ねる。
「ここは?」
「どこって? どこでもない、Not anywhere――あえていうなら、天国と地獄の境目、辺境の地」
歌っているような独独なリズムの発声で、天使が答える。
「星影さんの肉体は今、意識不明状態で生死の境をさ迷っている。魂と肉体の接続が不安定な状況ね。天界か下界か。行き先がはっきりするまでここに留まってもらうよ。魂の待合所みたいなものだね。生死の行方は、神様のサイコロ……あっ、やべ。えっと、運次第だからさ。気楽にいこう」
「意識不明って。俺は死んだのか」
「だからまだ死んでないって。話聞いてた?」
「はあ……」
どうせ夢だ、と思い込もうとするが、急激に記憶のフラッシュバックが起こった。
真っ暗で、狭い、息苦しい空間――最期の光景が鮮明に思い出される。
目隠し越しに感じた喧騒。衝撃。そして、耳をつんざくような、あの『爆音』。
「は……っあ、はあはあ……っう……!!!」
星影はパニックになった。心臓の動悸が激しくなる。うずくまった星影の背を天使がさすってくれた。
「はいはい、落ち着いてね。怖かったね。もう大丈夫だよ。安全だからね。ほら、ゆっくり深呼吸してごらん。ひっひーふー、ひっひーふー」
「ひっひふー」
いわれたとおりに呼吸を繰り返すと、嘘みたいに心拍が落ち着いてきた。
上昇した波が穏やかになっていくイメージだ。ラマーズ法偉大なり。大波、小波、とほぼ平らになったところで、星影は独りごちた。
「俺を、ころしたのは一体誰なんだ……?」
*
中央公園。盆踊りのやぐら。白熱灯の熱気。ブルーハワイのかき氷。太鼓の音色。子どもたちの笑い声。
五感から得た記憶がまざまざと蘇ってくる。
そう。浴衣の少女をレンタカーに招いたところで、背後から何者かに殴られ、星影は意識を失った。
後頭部の下あたりに触れてみる。あれだけ鮮烈だった痛みは、今一切感じられない。天使の説明によると、魂と肉体の接続が不安定だという。本当なのだろうか。
「――ええっと、天使さん」
「天使さんは止めてよ。名前? そんなのないよ。僕は僕さ。天のしもべだから僕」
「でも、会話しにくい」
「じゃあ、ただの『エル』でいいよ」
「エル? ミカエルやガブリエルの『エル』か」
「人間が知ってるのって上位天使だけなんだよね。ま、僕はどうせ名もなき下位天使さ」
ふてくされた様子で、雲に「の」の字をなぞり始めるエル。いちおう伝えておくけどさぁ、と巻き毛を指に絡めて唇をとがらす。
「星影さんの直接の死因は〈心臓発作〉ね。生まれながらに疾患があるのに、ストレス過多で不摂生な生活を送っていたから、心臓が弱っていたでしょう。それが極度のショックを与えられたことにより重篤なダメージを受け、死に至ったってわけ」
「心臓発作か。でも、俺は、誰かに襲われたんだ。それが原因で……」
「ふざけたこといってんじゃないよ」
愛らしいスマイルのまま、天使が口早に言い放つ。
「あんただって、女の子を拉致監禁しようと企んでいただろ? すぐ解放するつもりだったって? そんなのクソの言い訳にもならねえよ。犯罪者のまねごとをして、創作のインスピレーションを働かそうとした? マジでふざけんな。
十二歳の少女だ。恐怖がきっかりと記憶に刻まれ、一生忘れられないトラウマになるだろうよ。今後、男と交際することも、結婚することも叶わず、孤独な人生に絶望した彼女は自殺しちゃうかも。そうなったら、売れない作家のあんたに責任取れんのかよ。ああ?」
「……っひ!」
異様な迫力に、星影は縮みあがった。
こちらに見せびらかすかのように、エルが、右手の五指を開いて閉じてを繰り返している。開閉のリズムが、星影の心臓の鼓動と完全に一致していた。握って開いて、握って開いて……
心臓を握りつぶされる――!
あまりの恐怖に全身が怖気立った。声にならない悲鳴が漏れる。
お前の生き死になど些末なことだ、と示されている気がした。神が創造した完璧な美はまるで人間味がなく、その気配もプラスチックのように冷ややかだ。
星影は否応なく悟った。悟るしかなかった。こいつは、あきらかに人外。人を超越した存在。
金魚のようにぱくぱくと口を開きながらも、一方で、星影はエルの言葉を反芻した。ぐうの音も出ない、正論すぎる正論だった。俺は、俺はなんということをしようとしていたのだろう。
「死んだほうがマシかもね。運よく現世に戻っても、世の中に貢献できるタイプじゃないし」
「今、現世はどうなっているんだ……ですか?」
ビビって語尾が敬語になってしまったのは仕方がない。エルは意に介せずといった様子で、肩をすくめてみせた。
「それは教えられない。現世で知り得なかった情報は、こちらでも教えちゃいけない決まりになっている」
「え、そうなの?」
「ここでウジウジ考えても仕方がないでしょ。復讐できるわけでもないし。決定が下るまで、半日くらいかかるから。どうせならそれまで楽しくやろうよ。暇つぶしに簡単な願い事なら叶えてあげる。エクレア食べたいとか、空を飛びたい、とか」
エルば片羽をばさりと振ってみせた。
巻き毛の頭上に、黄金に輝く輪がある。あれが天使の輪というやつか。何気なく手を伸ばすと、すごい勢いでバックステップされた。
「触らないでよ、ばかっ変態! エンジェルリングに触ろうとするなんて、何考えてんの。すけべ! まったく日本はいまや変態の国って、ほんとだね」
ひどい言われようだった。
なんだろう。初対面はあれだけ神々しかったのに、喋るたびに小物感が増していっている気がする。
星影は雲の絨毯にあぐらをかいてどっかりと座り込む。ブルースカイは糖度の高そうな淡い水色に変化していた。あの少女がまとっていた浴衣の色によく似ている。
「ひとつだけ聞いても?」
「なあに。現世についてなら答えられないよ」
「いや。〈辺境の地〉のことだ」
「ならばOK」
「ありがとう。たとえばの話だが。同じ地で同じ時間に同じ状況で、複数人が意識不明状態になったとすると、ここに来るのは皆一緒にってことになるのか?」
「戦争とか災害が原因で、ってこと? まあ、そうだね。辺境の地はいくつかあるけど、番人の数も限られているし。昔はね、戦争があるたび僕の担当地区は賑わいをみせていたものだよ」
さびれた商店街の店員のように、エルが遠い目をした。
星影が気にかかっていたのは、あの『爆音』だった。
てっきり、どこぞの国からミサイルが投下されたか、無差別テロで爆撃されたのだとばかり思っていたが、違うらしい。もしそうなら肉体が意識不明状態でさ迷う魂が他にも存在するはずだ。
盆踊りをひかえた中央公園は賑わっていた。あれほどの人数がいて、星影ひとり、ということはあるまい。ようするに、あの場で死んだ(まだ死んでいないが)のは、星影だけ、ということになるのか。
「無駄な考えごとしないでさ、遊ぼうよ」
エルは雲を粘土のように捏ねはじめた。無邪気な表情だ。その顔は、幼女のようにも見えるし、老女のようにも見える。
「星影さんは反対側から穴を掘ってよ。僕はこっちから掘るね」
「え? ああ……」
星影は、雲を集めて作られた山にそろりと手を入れる。
もこもことした感触が気持ち良い。低温のミストサウナの中にいるようだ。掘り進めていくと、やがてエルの指先に触れる。
「かんつ~う~!」
天使が全力でバンザイをした。
柔らかそうな素材のリネンで織られた、ゆったりとしたドレスの裾が乱れ、崩した足の太ももがあらわになっている。その肌のきめ細やかさに見惚れていると、すかさず、
「両性具有だからね、僕」
「えっ」
「そういうのが好きってマニアもいるけど。これだけは覚えておいて。天使を襲った人間は例外なく地獄行きだよ」
無表情で忠告された。
地獄――。現世で意識が戻らずに死んでしまったら、魂はどこに行くのだろう。社会貢献できる功績を残すどころか、少女拉致監禁を企てた悪人は、問答無用で地獄行きだろうか。
もしそうなら、星影を殺そうとした犯人も道連れにしたいところである。
「君は犯人を知っているのか?」
問われた天使はきょとんとして、「そりゃあね」としたり顔になった。
「天使たるもの下界で起こったことは、まるっとお見通しさ!」
「すごいな。ちなみに、誰?」
「えっとねぇ――って、教えちゃうところだったじゃん! もうっ、油断も隙もないんだから!」
天使は意外とちょろいのかもしれない。
暑くも寒くもなく、湿度も丁度良い。ひたすら快適な空間だ。このままエルと雲遊びしていても良いが、現世で燻っていた思考が驚くほどにクリアだ。泉のようにアイディアが湧き出た学生の頃のように冴えている。
おのずと、星影はあの日の出来事を回想していた。
編集者の金元から電話がかかってきたところから。原稿の進捗状況をたずねられ、大嘘を吐き、自己嫌悪で鬱々としていたところ、祭りばやしが聞こえてきた。気まぐれで拉致監禁計画を思い立った星影は、変装の道具を揃え、レンタカーを借り、犯行の準備を進めた。
あらためて振り返ると、ぞっとした。
本当に捕まらないとでも思っていたのだろうか。万が一、誰かに犯行現場を目撃されていたら、レンタカーの車種やナンバープレートから一気に足がつく。日本の警察は優秀だ。星影が少女を解放しようとモタモタしているうちに、たどり着かれていたかもしれない。まったく、どうかしていたとしか思えない。
いまさら己の愚かさを悔いても仕方がない。先に進もう。
午後五時頃、レンタカーで中央公園に乗りつけた。そこで、小学校の同級生・神田川と会った。向こうから話しかけてきたくせに、和太鼓ショーの準備で忙しそうだった。少し話して、すぐに別れた。
神田川が犯人という可能性は――?
いいや。何年間も没交渉だった相手だ。襲われる動機がない。されど星影の知らぬところで恨みを抱かれていた可能性は否定できない。再会したチャンスに、積年の恨みを晴らした。
と、そこまで考えて星影は思考を止めた。ナンセンス。
二人があの場で再会したのは全くの偶然だ。それに、午後六時からショーを控えた神田川があんな突発的に犯行を起こすだろうか。なんだかんだで要領良く人生を送っていた彼らしくない。神田川犯人説はひとまず保留しておく。
「それから、ええと」
屋台をひやかして、かき氷をひとつ買い、遊具スペースに移動した。
ターゲットを物色していたところ、浴衣姿の少女を見つけた。そうだ、一緒にいた法被姿の少年。
ケンカ別れしたものの、少女が気になって見守っていたところ、不審な人物(星影)が彼女をレンタカーに招く場面を目撃し、星影を襲った。細身の体型だったが上背があり、星影を殴打することも可能だったろう。
「んん?」
しかし、矛盾に気づく。
危機感を抱く……? どうやって?
襲われる寸前までの星影は、下駄擦れで傷ついた少女に絆創膏を差し出し、親切に接していただけである。レンタカーのトランクを開け、荷台に座るよう招いたが、無理やり手を引いたりはしていない。不審を抱かれるような行動はなかったはず。襲われる理由がない。
後頭部の強烈な打撃。下手したら即死していた。
もし、あの少年が犯人だとしたら、他に理由があったとしか思えない。ブランコの付近で、一瞬彼と目が合った。その際に、星影に何かしらのひっかかりを感じ、少女に害を及ぼすと思い込んだ……?
「ありえない」
みずからの仮説を打ち消す。
雲の上に寝転がったエルが頬杖をついて、思索にふける星影を興味深そうに眺めていた。
さっきから薄々気づいてはいたが、この天使は人の心を読めるらしい。現世での悪行もバレているのだ。もう何も驚くまい。
だよねぇ、とエルはニヤニヤと笑って、星影の考えの先を読んだ。
「――だって、星影さんの『変装』は完璧だった。でしょ?」




