「辺境天使エルの奉仕録2」 羽野ゆず 【人間ドラマ×推理】
午後五時。中央公園は自宅から徒歩五分もかからない位置にある。
にもかかわらず、わざわざ調達してきたレンタカーを公園脇に停め、星影は車外に降り立った。夏のぬるい風が頬を撫でていく。
この公園は敷地の半分が遊具スペース、もう半分がグラウンドになっており、住民が草野球やパークゴルフをたしなむ場となっている。
現在、グラウンドの中央には、盆踊り用のやぐらが組まれている。
ステージには直径二メートルほどの大太鼓が鎮座しており、法被姿の子どもたちが順繰りに祭りばやしを奏でていた。本番に向けてのリハーサルだろう。ステージの下には、やぐらを囲むように大小の太鼓がセッティングされている。
「――星影? もしかして、星影純也か?」
名前を呼ばれて振り向くと、ねじり鉢巻きをした長身の男が軽トラックから降りてくるところだ。
筋肉質で引き締まった長身に法被を粋に着こなしている。こいつは……。
「神田川?」
「やっぱり星影か。何年ぶりだよ。驚いたな」
小学校の同級生、神田川寿彦。
特別親しいわけじゃないが、昔から誰とでも分け隔てなく接するタイプの人間だった。
よいしょ、と軽トラの荷台から太鼓をひとつ下ろして台車に乗せ、押しながら歩み寄ってくる。間近で見ると、ますます体格が良い。身長153センチ、体重45キロしかない星影と比べると、まるで大人と子供だ。
星影は威圧されないよう薄っぺらい胸を張る。一方、神田川は朗らかな笑顔をみせた。
「同窓会にも顔を見せないし、どうしているのかと思っていたんだ。今もこの辺りに住んでいるのか」
「ああ……太鼓、叩くのか?」
星影は、〈田丸太鼓店〉のロゴが入った軽トラを指す。
太鼓教室に長年通っていた神田川は、師匠の娘と結婚し、今は教室の講師を務めているはずだ。市広報の『まちの人』特集で、“文化芸能の若き継承者”として華々しく取り上げられていたっけ。
「六時から和太鼓ショーがあるんだ。よかったら見ていってくれよ。まいったよ、生徒が増えすぎちゃって……太鼓の数が足りなくってさ、作りかけのでもいいから義父が持ってこい、ってさ。まだ鋲打ちが終わってないっていうのに」
「トシ!」
やぐらの上から老人の怒号が飛んできた。
高齢のわりに張りのある声だ。子どもたちを指導している様子からして、神田川の義父だろう。神田川は、やべ、と太い眉を八の字にした。
「今度飲みにいこうぜ。じゃあ」
毎日が充実して自信にあふれた男の顔だった。
星影は舌打ちする。まったく。来て早々に出ばなをくじかれてしまった。
地元はこれだから嫌だ。できることなら離れた地に引っ越したいが、死んだ両親から相続した家屋を始末できず、しかたがなく留まり続けている。
しかし、利点はある。星影がこの地を知っている、ということだ。そう。嫌になるほどに。
微かな風に吹かれて、甘じょっぱい香りと煙が漂ってくる。
グラウンドの楕円形に沿って並ぶ、屋台からだ。かき氷、アイス、骨付き肉、綿あめ……星影が子どもの頃からあまり変わり映えのないラインナップ。端から端まで物色した星影は、スタート地点に戻って、かき氷をひとつ買った。
「ブルーハワイね。250円。はい、どうも」
不自然に蒼ざめたシロップが氷にたっぷり回しかけられた。店主は不愛想な痩せた中年オヤジで、星影の顔を見ようともしなかった。
値段も味も並みの氷菓をちびりと口に含みながら、遊具スペースへと移動する。
市内で最大規模の盆踊りだけあって、参加者は多いようだ。
イベントが始まるのを今か今かと待ちわびた子どもたちが、ブランコやすべり台に群がっている。幼児から小学校低学年くらいの小さな子には、保護者が付き添っている。
だから星影が狙うのはそれよりも少し上の年代の子どもだ。
陽は落ちてきたが、まだじっとりと汗ばむくらいに気温が高い。
星影はトイレの壁にもたれて額の汗をぬぐった。溶けかけのかき氷をストローでちゅうっと吸いながら、ターゲットを物色する。
「……っ」
突如、針で刺されたような痛みを背中に感じて、星影は飛び上がった。
何事かと半身をひねると、トイレの壁の塗装がボロボロに剥がれている。その尖った破片がシャツごしに刺さったものらしい。
「くそ!」
シャツの裾をばさばさとやると、サーモンピンク色の破片が落ちてきた。直接手で払おうとするが、体が硬いせいで背中の中央まで届かない。
まったくもって、忌々しい……!
トイレは一人用の和式便所。円柱型の三角屋根で、先端が尖った鉛筆のようなかたちをしている。屋根の色から通称・赤ペントイレ。老朽化している上、修繕もロクにされておらず、お城のようなメルヘンな色合いの塗装がかえって不気味だ。
「おまえ、浴衣似合わないな」
シャツを脱いでしまおうか迷っていると、ぶっきらぼうな少年の声が耳に入ってきた。見ると、ブランコの安全柵に少年と少女が腰かけている。年頃は小学校高学年くらいか。
法被姿の少年はすらりと背が高く、サッカーボールを足元でこねくり回している。かたわらの少女は、薄い水色地に桜模様が入った浴衣をまとっている。
「もうっ、うるっさいなぁ」
少女が唇を尖らせてそっぽを向いた。かんざしの飾りも揺れる。
色黒の肌で、目鼻立ちがはっきりしているせいか、浴衣の淡い配色が浮いてみえる。
たしかに似合わないな。少女は怒った顔のままうつむいて、しきりに足指を気にしていた。慣れない下駄のせいで鼻緒が擦れてしまったらしい。
少年がぼそっと言う。
「おまえさ……やっぱり、鉢巻きに法被のほうが似合うよ」
「っ、うるさい! もう大丈夫だから、早く行きなよっ」
怒鳴られた少年はためらった様子を見せつつも、少女から離れていった。
その際、星影をちらっと一瞥するが、むすっとした顔のまま通り過ぎていく。
きっと、あの娘は、あの少年のために、わざわざ浴衣を着付けてもらい、精一杯めかし込んできたのだ。それなのに、褒められるどころか、からかわれた。さぞ悲しかろう。悔しかろう。青春の残酷な光景の一ページだ。
一人ぼっちになった少女は、深くうなだれたまま、肩を小刻みに震わせはじめる。
あーあ、泣いちゃった……。
――そうだ、彼女にしよう。
決断は早かった。
思い立った星影は足早にレンタカーまで戻り、誰にも見られていないことを確認して、すばやく車内に乗り込んだ。車種はありふれた黒のワンボックスカーだ。
後部座席で変装をする。といっても、汗で湿ったTシャツをポロシャツに着替え、キャップをかぶり、伊達メガネをして、靴を履き替えただけだ。ズボンは元のブラックジーンズのまま。
バッグミラーに自らの姿を映しだす。
マスクも付けたほうがいいかな? 一瞬迷ったが、止めた。不審を抱かれたら元も子もないし、何より暑い。だが、これで十分なはずだ。ぱっと見だけじゃ絶対に、扮装前の俺とはわからない。星影には勝算があった。
周囲に気を配りながら、そそくさと車を降りる。
「……ん?」
公園を囲む柵を越えた草むらに、サッカーボールが転がっているのに気づいた。
誰かが遊んでそのまま放っていったのだろう。星影はシューズのつま先でボールを軽く蹴った。
左手首に巻いたG-SHOCKの腕時計を見やると、午後五時四十分。
あと二十分で和太鼓ショーが始まる。なるべく速やかにことを済ませなければならない。
星影はキャップを目深にかぶり、用心のため、もう一度付近を見回した。
それが目に止まったのは、偶然だった。
公園から大通りを挟んで、星影のバイト先と同系列のコンビニがある。
その駐車場に、ひと際目立つ大型バイクが停まっていた。バイクに詳しくない星影でも知っている、ハーレーダビッドソンだ。コンビニから出てきた皮ジャンパー姿の男がハーレーに近づき、かろやかな動作で跨る。ヘルメットを装着しようとする横顔を目にして、星影は心臓が止まりそうになった。
あれは、まさか――。
肩の下まで伸びた長髪。死んだ魚のような、よどんだ双眸。間違いない。編集者の金元だった。
「金元……なぜここに」
思わずつぶやいていた。
出版社からここまでは高速を飛ばして一時間かかる距離だ。
まさか、俺に会いにきたのか? 敏腕編集者の勘で原稿が全く進んでいないことを察知し、責め立てにきた。いや、違う。もしそうなら、必ず事前にアポを取るはず。わざわざ訪れたのに留守で会えずなんて、時間を無駄にしかねないリスクを多忙な金元が負うはずがない。
ぶぅん、と低い唸りを上げて駐車場からハーレーが走り去っていく。金元がバイク乗りとは知らなかった。
待てよ? バイク――?
そのとき星影が連想したのは、鮎川をひき逃げした犯人のことだった。
犯人は大型バイクに乗っていたことが目撃証言で明らかになっている。果たしてこれは偶然だろうか。
ぶるり、と、得体のしれない悪寒がして、星影の心臓がきりきりと痛みだした。
落ち着け。落ち着くんだ。今はやるべきことがあるだろう。
仮に金元が星影の家を訪ねていたとしても、何の支障もない。当時留守だったという事実が明らかになるだけだ。大丈夫。
いつまでも売れない作家だと思うなよ。俺はやるときはやる男なんだ。きっとやり遂げてみせる。見てろ、金元。
意外なことに、金元を目撃したことで決意がより強固なものになっていた。暗示をかけるように自らを鼓舞し、星影は歩をすすめた。
遊具スペースに戻ると、少女はまだブランコの安全柵に腰かけている。
よし――。
今からこの少女を拉致監禁する。
星影の計画はこうである。少女をレンタカーまで誘い、隠し持っている麻袋を頭にかぶせ視界を奪い、トランクに閉じ込め、自宅まで運ぶ。さいわい古い家だが戸建てなので、スペースは十分にある。
最大の難関は車の確保だったが、町外れにある中古車販売業のレンタカーサービスで、難なく借りることができた。そこの店員の中年女が、金さえきっちり払えば審査がいい加減なことを星影はよく知っていた。
翌朝までには解放するつもりだ。
監禁するだけで暴行はしない。星影には幼女を犯すような趣味はない。
ただ法を犯す体験を――犯罪に手を染めるスリル、その一抹を味わえさえすれば良い。作家は空想を売る仕事だ。一抹さえ体験できれば、それを何倍にも膨らまして、表現できるはず。
しかし犯行が明るみに出たら逮捕は免れない。ここからはより慎重に行う必要がある。
「痛そうだね。大丈夫かい?」
横から話しかけると、少女はゆっくりと顔を上げ、こちらを見た。泣きはらした二重の瞳。足の指には血がにじんでいる。
「これ、よかったらどうぞ」
絆創膏を出して見せると、少女は表情をこわばらせた。受け取って良いものかどうか迷っているらしい。
「たまたま持っていたんだよ。よかったら使って。少しはマシになる」
「……ありがとう」
目尻の涙をぬぐって、恥ずかしそうに絆創膏を星影から受けとった。その、わずかに開けた心の隙に蛇のように入り込む。すかさず甘い声音で誘う。
「そんなところじゃ体勢が不安定で上手く貼れないでしょ。近くに僕の車があるから、トランクの荷台に座ってやるといい」
「でも……」
「大丈夫だから。おいで」
少女は戸惑っているようだったが、すぐそこだよ、と実際に車があることを示すと、ようやく腰を浮かした。痛めた足を引きずりながら付いてくる。
グラウンドでは、やぐらを囲む太鼓に演奏者がスタンバイしている。
会場全体の熱気が高まってきている。雑踏に紛れて、星影は少女をワンボックスカーへと導く。
「待っていて。今トランクを開けるから」
星影は微笑んでみせる。ちゃんと笑えているだろうか。誰かに微笑みかけるなんて、いつぶりだろう。
少女は、下駄の片方を脱いで提げていた。
車のキーを出すため、星影はブラックジーンズのポケットに手を突っ込んだ。刹那――
「う……!」
後頭部の下側に強い衝撃を感じた。
目の前がチカチカして、足元がふらつく。生暖かいものが顔に垂れてくる。
血……血だ。全身がぐらついて、踏ん張りがきかずに膝をついた。そのままうつ伏せに倒れる。
青草の香りが鼻につく。悲鳴を上げる気力もなく、まもなく星影の意識はブラックアウトした。
*
次に彼が味わったのは、恐怖に満ちた不可解な体験だった。
目を覚ますと、真っ暗だった。
わずかに身じろぎすると、後頭部に激痛が走り、星影は呻き声をもらす。
なんだ。なにがどうなっているんだ……?
周囲の喧騒はかすかに感じ取れる。しかし、何も見えない。
頭に何かを被せられ、視界を塞がれている。身動きもとれない。手足を縛られているらしい。芋虫のような姿勢のまま体を揺すると、肘と足裏が壁のようなものに当たった。なんという狭い空間に拘束されているのだろう。
いったいなぜこんなことに。
かすかに聞こえてくるのは、祭りばやし。ということはまだ盆踊りの最中で……
「ぐわあっ!」
そのとき、彼の思考を根こそぎ奪う出来事が起こった。
とんでもない『爆音』が彼の聴覚を襲ったのである。あまりの衝撃に硬直することしかできない。耳を塞ぎたいが、手が拘束されていてそれも叶わない。
爆音。爆音。爆音――!
耳の奥で、くしゃ、と何かがつぶれるような感覚がして、音が弱まった。ああ、そうか。鼓膜が破けたか……
「――ッ!!」
さらに爆音は容赦なく彼を襲った。
誰かたすけてくれ。頼む。お願いします。神様ッ!
星影は力の限りわめいた。しかし、彼の叫びなど最初からなかったもののように爆音で消し去られる。神の慈悲などなかった。
そしてついに、星影の病弱な心臓は限界を迎え、断末魔の悲鳴を上げたのであった。




