「辺境天使エルの奉仕録1」 羽野ゆず 【人間ドラマ×推理】
「原稿の進み具合はどうですか、星影さん」
スマホの受話口から、金元が感情のない声で尋ねてきた。
金元がわざわざ電話をしてくるなんてめずらしい。業務連絡はたいていメールで済ますのに、今日はどういった風の吹き回しだろう。
星影は、いつもどおりやる気に満ちた真面目な『新人』作家を演じる。
「順調ですよ。来週中には第一稿をお目にかけられるかと」
「そうですか。じゃあよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いしま……あ、切れた」
編集者がどれだけ多忙なのか知らないが、担当作家の返事を最後まで聞かずに電話を切ってしまうのはどうなのか。そもそも社会人のマナーとしてどうなんだよ。
「まあ、マトモに社会に出たことがない俺が言ってもなぁ」
星影は自嘲ぎみにつぶやき、バイト先のコンビニで買ってきたペットボトルの蓋を開けた。
芳醇なアロマ漂う、とラベルに謳ってあるブラックコーヒーからは何の香りもしない。最近ずっとこうだ。何を食べても飲んでも味がしない。
食べ物だけじゃない。かつて夢中になった映画、小説や漫画、どれを観ても読んでも面白いと感じられなくなっていた。感覚も感情も死んでいる。
冷蔵庫のモーター音だけがうなる居間で、ふぅと一息つき、座卓の上のノートパソコンと向き合う。そして、絶望する。
原稿はちっとも進んでいなかった。
頭にちらついたフレーズを綴っては消し、読み返しては消しを繰り返している。
金元から指定された締め切りは二週間後。来週中に第一稿をお目にかける、というのは真っ赤な嘘で、締め切りにさえ間に合うはずがなかった。
書けない。一文字も――
*
大学三年生の夏休み、星影は、十万文字弱の物語を書き上げ小説投稿サイトに登録した。
ジャンルは偏愛している推理小説。猛吹雪のため外界から閉ざされた洋館で連続殺人が起き、偶然居合わせた探偵が謎を解く、という超ド級の本格ミステリである。
それまでもノートやワープロで物語を綴っていたが、妙な気恥しさがあり、誰にも読ませたことはなかった。匿名で投稿できるネット上だからこそ冒険できたのだろう。
当時の人気ジャンルは、異世界転生やゲームを題材にしたファンタジーで、星影の作品が上位ランキングに入ることなどなかった。ただ、作品のアクセス解析で、自分の小説が読まれている、と知るたびに心が躍った。「面白かった」と一言感想をもらった日には、天にも昇る心地になった。
もっとたくさんの人に読んでもらいたい。軽い気持ちで、受賞作品を手広く書籍化するネット小説新人大賞にエントリーした。
それがどういった因果か、ある出版社の編集者の目に留まった。
ファンタジーの力作が二十作以上も並ぶ隅っこで、まるでそこだけ異世界が入り組んだ強烈な違和感を放つかたちで、星影の作品がぽつりと入賞した。他のユーザーも「おいおいマジかよ」と驚いたことだろう。星影自身も、嬉しいというより、「なぜ?」という戸惑いが勝っていた。
しかし、担当編集者に会って納得させられた。その女性編集者は、鮎川といい、星影も顔負けの本格マニアであった。三十代半ばで、星影よりも一回り以上も年上だったが、いつも丁寧な言葉遣いで、当時学生だった星影を「先生」と呼んでくれた。
彼女に激励叱咤され、二人三脚で書籍化の作業を進めた。
大学の講義は卒業所要単位と睨めっこして極限までサボり、寝食さえ忘れ、原稿とひたすら向かい合い、より高みを目指しブラッシュアップに没頭した。今まで生きてきたなかで一番過酷な経験だった。
最終稿を提出し無事にOKをもらえたときは、安心のあまり失禁し、後始末もせず失神するように眠り込んだ。冗談でなく死ぬかと思った。だが、あれほど輝いていた時間は後にも先にもなかった、と星影は懐かしむ。あの充実感は一生忘れられない。
ところが、である。
渾身のデビュー作『猛吹雪山荘の虐殺―彼女がオレを殺しにくる!』はさっぱり売れなかったのだ。同レーベルで受賞した作家たちの作品が売れ行き好調のなか、星影だけが辛酸をなめる結果となった。
「これしきで腐っちゃいけませんよ、先生。今の作風を大事にしてください。私はずっとずっと先生のファンですから」
鮎川は明るい笑顔でそう告げ、文芸とは全く畑違いの部署に異動してしまった。
事実上の更迭だった、とのちに噂で聞いた。星影という新人を独断で発掘したものの、結果を出せなかった責任を取らされたのだ。
さらなる悲劇が彼女を襲う。
ある深夜、仕事を終えた帰宅途中、鮎川が大型バイクにひき逃げされたのだ。通行人が意識不明状態の彼女を発見し、救急搬送されたもののまもなく出血性ショックで死亡した。今から二年前の事件である。
その訃報を知った夜、星影は苦手な酒をひとり呑み、夜が白むまでむせび泣いた。
ひき逃げ犯はいまだに捕まっていない。
もちろん犯人は憎い。だがそれよりも、聖母のような情に溢れた鮎川を天に召した神を星影は呪った。これが運命というなら神はサディストに違いない、と。
本当の地獄はここからだった。
彼が受賞した出版社は三巻までの続刊確約を売りにしている新人賞だが、初刊の売れ行き低迷によりてっきり打ち切りになると思いきや、そうはならなかった。
続刊のため、別の担当者が彼に当てがわれたのである。それが金元だった。
金元は星影の一歳下。肩下まで伸ばした蓬髪に、小太り体型。もっさりとした外見で垢ぬけない印象の男だが、編集者としてはやり手であった。金元が担当した作品は漏れずヒット、重版している。ただひとつ星影が困っているのは、
「もっとこう、地方グルメとかあやかしとか出してみますか」
と何かにつけて流行りの要素を入れ込もうと、無茶な提案をしてくることだ。
そのために星影は作中で、本編の筋書きとは全く無用な、探偵が立ち寄った地方のドライブインでB級グルメを食すシーンを挿入したり、探偵の夢で事件解決のヒントを囁くあやかし(金髪ロリキャラ)を登場させたりするはめになった。
作品を売り出すために、金元が一生懸命アドバイスしてくれているのはわかる。星影だってヒット作を生み出し、亡くなった鮎川に恩返しをしたい。でも……。
推理小説に無駄な描写はいらないんだよ。
そこにあるすべてが伏線で、合理的な解決に向いていなければらない。だからこそ本格推理小説は美しい。そんなポリシーを持つ星影には屈辱以外の何物でもなかった。
しかも、こういった魂を売るような努力をしたにも関わらず二冊目もいっこうに売れ行きが伸びなかったのである。
おそらく今執筆している三冊目が最後の本になろう。
あれだけ小うるさかった金元も、最近ではめっきり助言をしなくなった。出版社のお荷物早く消えろよ、とでも思っているのだろう。
心はとっくに折れた。魂もすり減っている。
ある真夏の日、とうとう筆が止まった。キーボードをたたく指が微動だにしなくなった。
戦友ともいえる愛用のノートパソコンの前に座るだけで嫌な汗が吹き出す。もともと丈夫でない心臓の動悸が激しくなる。不摂生な生活もたたり、これ以上悪化したらペースメーカー植込み手術が必要になる、と医者には脅されている。
星影は常々考えている。
世の中には、二種類の人間がいる。書くことを許された作者と、その才能を享受する読者だ。自分は前者ではなく後者だったのだろう。越権行為をしてしまった代償を払わされている。
「死ぬか」
ぽつり呟いてみる。それはあまりに空虚に響き、星影は嗤った。
大学卒業以来、彼はコンビニでバイトしながら執筆に励む生活を送ってきた。
バイト先でお気に入りの商品、「もっちりたこ焼きパン」の袋を開ける。餅のように弾力のある生地と青のりとソースの風味が香ばしい一品だ。
デビュー作の脱稿明けに鮎川が差し入れてくれて、「私これが好きなんです」とスマイルをみせた彼女の白い歯には青のりがついていた。(食後に気づいて「やだっ、恥ずかしい!」と赤面して悶えていた。)
回想した星影は無精ひげの生えた口元に笑みを浮かべ、パンをかじる。やっぱり何の味もしない。
正直に打ち明けてみようか。原稿はちっとも進んでいない、と金元に。
いや――。星影は考え直す。
腹いせのつもりでそんなことをしても無駄だ。金元はあの爬虫類を思わせる冷たい声音で「そうですか。わかりました」と、すぐに代わりの新人作家を起用するだろう。何の躊躇もなく。
星影の代わりなんて吐いて捨てるほどいる。いつか書籍化を、と野望を抱いた何千何百というアマチュア作家が、ギラギラした大都会のネオンの数ほどにひしめいているのだ。
作家をやめる。そうだ、辞めてやる。……辞められるのか? 作家を。
星影は若白髪混じりの髪を抜けるほどに強くつかみ、頭を掻きまわした。
だめだ――できない。いまさら辞めることなどできるはずがなかった。
星影にとって、書くことを放棄するのは『死』を意味していた。だって俺は他に何も持っていない。執筆に代わる趣味も仕事も、両親は高校生の頃に亡くしていたし、恋人も親しい友人さえいない。
「やっぱり、死ぬしかないのかな……」
でも、どうせなら何かを成し遂げてからにしたい。
作家として、至高の物語を紡ぎたい。
だが俺に何ができる? 星影は自問する。かつて彼のなかで、果てのない空想の海が広がっていた場所には、カラカラに乾いた土がひび割れしているだけだ。草一本生えていない。完全に枯渇している。
座椅子にもたれていた星影は、目線を窓の外にやる。
ところどころ破けた古い網戸の外から、祭りばやしが聞こえてきたからだ。
チャンコチャンコでおなじみの子供盆おどり唄。ワンテンポ遅れて、太鼓の音色が付いてくる。
盆踊り、か。
星影はおもむろ立ち上がり、床に積み上げていたダイレクトメールやちらしの束から、市の広報誌を引っ張り出す。求人情報、つり教室、ツーリングフェスタなどのイベント情報に紛れて、目当ての記事があった。
【中央町内会盆踊り~8月15日。中央公園グラウンドで。午後6時~和太鼓特別ステージもあり!】
どどんがどん。
少しズレた太鼓の響きとともに、突如、星影に天啓がひらめいた。
物語を生み出せないなら、実際に体験したことを綴るのはどうだろう?
つまり、体験記――ルポタージュならばきっと、臨場感に満ちた、生き生きとした文章を綴れるに違いない。
次作のおおまかな概要は決まっている。
ヨーロッパの古城を舞台にした〈倒叙ミステリー〉。倒叙ミステリとは、犯人視点で展開し、あらかじめ犯行や動機を明らかにした上で、犯人が探偵によって倒されるさまを描いた物語である。「面白いかもしれませんね」とめずらしく金元にも即OKを得て、意気込んで執筆したものの、主人公の犯人に感情移入できず初っぱなから筆が滞りがちだった。
どうせ死ぬのなら、犯人の気持ちを味わってみるのも悪くない。
犯罪を犯してみようじゃないか――。
時刻は午後四時。夏の日はまだ高い。星影はノートパソコンを閉じた。
軽く口笛をふきつつ準備を進める。久しぶりに愉快な気分だった。




