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真夏のミステリーツアー【アンソロジー企画】  作者: 真夏のミステリーツアー参加者一同
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「猫のいる喫茶店」 Kan 【純文学】

 無頓着な僕は、今日まで知らずにいたが、梅雨入りしたものらしく、喫茶店にはこもった雨音が響き渡っていた。窓の外を見れば、灰色の空と冷たいビルの壁が目の前に広がり、その眼下には、揺らめく傘がふらふらと街路を漂っている。

「ああ、雨が降っているのか……」

 誰に対するものでもなく、僕は呟いた。


 それから、僕はただ、木造りのテーブルの上に置かれた白いカップの中の深い黒色を見つめた。それは、香り豊かな珈琲だった。そうして、沈黙を続けているうちに、時間が押し流されてゆくようだった。

「時間が……」

 僕は、もう一度、誰に対するものでもなく、呟いた。


 喫茶店には、湿った空気が充満していた。薄暗い店内に垂らされたいくつものランプの灯りは、星空みたいだった。奥には、カウンター席があり、小さなステージもあった。ガラス戸の棚の中には、さまざまな国の人形が置かれていた。ロシアのマトリョーシカもあった。それ以外にも、可愛らしい女の子の人形も置かれていた。その先のテーブル席には、高校生ぐらいの女の子が座っていて、学校の宿題をしていた。


 ふとカウンターを見ると、店主がエプロンをつけていて、古いレコードを眺めていた。変てこなことに、彼は猫だった。その猫は、お盆にコーヒーフロートを乗せて、宿題をしている女子高校生に渡した。彼女は、店主が猫であることは、気にも留めていないようだった。


 それから、しばらく、ぼうっとしていると、いつの間にか、その女子高生は帰ったようだった。そうなると、この喫茶店にいる客は僕ひとりだった。


 猫の店主は、ふと思い立ったように、飾られていたバイオリンを抱えて、カウンターから出ると、小さなステージに上がろうとした。

「お客さん、一曲、弾いて差し上げましょう」

 と、その猫が自信ありげに語るので、僕は、自分の左手首に視線を落とし、

「もう、時間だから帰るよ……」

 と言った。

「お客さん。せっかく来たのだから、一曲聴いていきなさいよ。人間は自分の時間を持たなすぎる。体に毒ですよ」

 猫の言葉は真実だったが、僕が時間を気にしているのは現実だった。

「それが、人間の時間というものだよ」

 と僕は柄にもなく、どこか冷めたことを言った。


 猫は、僕の顔を悲しげに見つめた。そして、もしかしたら、今日は出番が来ないのかもしれないバイオリンに視線を落とし、また、僕を見つめてこう言った。

「人間ということを、今日は忘れなさいな……」

 僕は、その時、はっとして窓を振り返った。雨音が突然、大きくなったような気がしたからだった。

 ……窓ガラスを伝ういくつもの雨粒は、白く輝いて見えた。


「今、帰ると濡れますぜ……」

 猫は、パイプを咥えて、シャーロック・ホームズを気取っていた。

「しかし、バイオリンの音色は好きじゃない」

 僕は、嘘をついた。それは紛れなく、嘘だった。家に帰るための嘘だった。しかし、その嘘は口にした途端に、あまりにも白々しくて、あからさまな気がした。僕は瞬く間に、自分の気持ちを偽ったという、自己嫌悪で醜く汚れてしまった気がした。


「バイオリンが嫌いなら、ピアノを弾きましょうか」

「君の太い指で……?」

 僕は、しつこく勧められるのを煙たがって、猫を意地悪く笑った。途端に、猫がまた悲しげな顔をしたのを見て、僕は悪いことをしたと思った。

「悪い。僕はもう帰るよ。明日があるんだ」

「本当ですかい」

 僕は、猫の顔を見た。一体、何を疑っているのだろう、という気がした。

 猫はまた言った。

「明日があるんですかい」

 僕は、猫が喋ることが変てこな気がして、可笑しかった。

「明日はあるだろう」

「明日もなければ、昨日もありませんよ。あるのは、今という一瞬だけ……」

 猫の言うことは、僕には分からない。


「ねえ、また来週来るよ。今日は、明日も早いし、そんなに僕には時間がないんだ」

「悲しいですね」

 と猫は言った。

 僕が、お代を払うと、猫はそれを受け取って、今度は僕の許可もなしにバイオリンを弾き始めた。とても美しい音色がふわりと天井を伝ったような気がした。僕は、もう一度座って、ゆっくりとこのバイオリンの音色を聴きたい気がした。それでも、僕は、猫に会釈をして、逃げるように、扉の外に出た。


 空が壊れたみたいに、雨が降っていた。喫茶店の看板も、花壇も、道路に立て掛けてある自転車も、何もかもが雨水に濡れていた。道路に広がる水たまりが、いくつもの波紋を浮かべていた。そして、なんだか、埃くさいような雨の匂いがあたり一面に立ち込めていた。

 僕は、傘立てに突っ込まれたビニール傘を手に取った。ぶつっと音を立てて、開くと、僕はなんだか、これから家に帰ることがはっきりと分かった。実感があった。僕は途端に悲しくなった。

 猫に会いたいと思った。

 僕は、しばらく考えて、傘を置くと、もう一度、喫茶店の扉を開いた。しかし、開けてみて驚いた。そこには埃まみれの物置のような部屋があるだけだった。

 そして、僕はこう思った、またひとりか、と。


 そして、こうべを垂れて、僕はその建物を後にした。開かれた傘にぼつぼつと雨の落ちる音がしていた。僕は、ひどい湿気の中を歩いている。なんだか、とても惜しいことをした気がして、妙に寂しさが込み上げてきた。ふと、傘をずらして、見上げると、空に虹が浮かんでいる。その時……。


 ……どこかでバイオリンの音が聞こえた、気がした。

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