「Take the "S" Train 5」 孫遼 【恋愛×鉄道ミステリ】
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夏も終わりに近づいたその日、僕は部屋の片付けを終えて出発の準備を整えていた。
僕は今日、家を出る。
八月三十一日が欠けた絵日記を発見したのも、そもそもは独り暮らしをするための荷物整理がきっかけだった。
あの時ノートを見つけていなければ、僕は心に区切りをつけることができなかっただろうと思う。
長年住んだこの大宮ーー鉄道博物館があり、新幹線をはじめとした全ての列車が止まるターミナル駅。ここから僕も出発する時が来たのだ。
父親も巣立つ息子に思うことがあるのかもしれない、珍しく休暇を取って車で送ってくれると言う。
母はてきぱきと昼支度をしていた。キッチンの様子をちらりと見たとき、冷やし中華のパッケージが目に入った。
――しばらく母さんの料理も食べられなくなるのか。
母の様子は特に変わらず、いつもどおりに見える。
日記の記憶を取り戻した今、少しだけ親のことに敏感になったのが変化といえば変化かもしれない。
僕はリビングの椅子に座って、携帯電話を確認する。
あれから千早の連絡はない。
彼女と別れて数日の間は、特に通知もないのにメッセージアプリを起動するのが日課になっていたけれど、数週間も経つうちに諦めに似た感情が僕を支配していた。
キッチンから聞こえていた包丁の音と水音が消えると、チチチという音がしてコンロが点火される。
「食べ終えたら出発するよ」
そうキッチンにいる母親に声をかけた。
「そうしなさい。本当なら、引越は午前中にするものよ」
「大丈夫だよ。持っていく荷物もほとんどないし」
母の小言を軽く流すと、熱した鍋の蒸気がここまで漂ってくるような気配がした。
「三分、計ってもらえる? タイマーの電池、切れてるみたい」
「わかった」
僕はもう一度携帯電話を起動して時間を確認した。すでに正午を過ぎている。
昼御飯が出来たら、外で洗車をしている父も呼びにいかなければ。
時間を確認する間にメッセージアプリを確認したけれど、やはり千早からの連絡はなかった。
「三分、経ったよ」
そう声をかけると、流しで麺をザルにあける音がした。あとは麺を流水にさらして冷やせば出来上がりだ。
僕は父を呼ぼうと椅子から立ち上がると、水道の音にかきけされるのを覚悟で口をひらいた。
「母さんでしょ、日記をあそこに置いたの」
流水の音は鳴り止まなかった。しかし麺をかき回す手の音が、ほんのわずかだが止まった気がする。
「心配しないで。僕は大丈夫だ」
その声が母に聞こえたかどうかはわからない。
窓を叩いて外にいる父に合図すると、腕組みをしてクルマを見ていた彼はゆっくりと玄関に向かって歩いてくる。
その間に母は手際よく冷やし中華を盛り付けると、どんと音を立ててテーブルに置いた。
「先に食べちゃいなさい。のびないうちに」
「うん。いただきます」
僕が箸を手に取ったその時――視界の先に点滅する携帯電話のランプに気付いた。
僕は慌てて箸を置くと、飛び付くように携帯電話を手に取る。
食事の前に携帯電話を覗き込む息子に眉をひそめる母の気配がしたが、ただならぬ僕の様子に気付いたのか、彼女は何も言わなかった。
それは千早からのメッセージだった。どんなに平然を装おうとしても、緩んでいく表情を止めることはできない。
心臓の辺りを中心にじんわりとした感覚が広がって、飛び上がりたくなる気持ちを懸命にこらえた。
そして寸胴を洗うために盛大な水音を立て始めた母の背中に向かって、そっと声をかけた。
「またいつでも戻ってくるよ……彼女を連れて。たぶん」
今度は水音は止まらなかった。でも、たぶん聞こえているだろう。
八月三十一日。今度は僕が家を出る。
きっと僕の人生はこれからも大きく大きくSを描いて遠回りするだろうけど、いつかは目的地にたどり着くんだ。
破り捨てたページのように、そして千早という存在のように、一見失ってしまったように見えるようなものでもこうしてこの手に取り戻すことができたのだから。
あの事件の被害者であり、証人であり、探偵であり、犯人でもあった僕は、大事な存在を失うことの意味をよく理解しているつもりだ。
だから僕は、絶対に千早を傷つけない。
作り物のジオラマの中に自分の心を閉じ込めるようなことも、もう絶対にしない。
テーブルの正面に座った父が食べ始めるのを待って、並んで座った母がようやく自分の食事に箸をつけ始めたのを見ると、何故か全てが解ったような気持ちになる。
十五年前の僕が、僕自身に課した宿題ーーそこから学んだことは二つある。
一つ。僕は意外に繊細な心の持ち主だということ。
そしてもう一つ。女心は最大のミステリーだ。これまでも、そして、これからもね。
(了)




