「Take the "S" Train 4」 孫遼 【恋愛×鉄道ミステリ】
4
千早の細い腕を掴んだまま、僕は静かに呼吸を整えた。
周囲の視線を感じる。他人から見たら、この格好は彼女を引き止める情けない男の姿に映るだろうか。
冷静を取り戻した僕は、ゆっくりと視線を下に落として彼女の足元を確認する。歩くことを見越してだろうか、多少履きこなした感のあるリボンのついたフラットシューズ。
「少し歩ける? 近くに "海" があるから見に行かないか。少し頭を整理したいんだ。歩きながら話そう」
僕がそう言うと、彼女は黙って頷いた。
駅から小田原の堀沿いに行けば、その先に御幸の浜という小さな海水浴場がある。
「あの日……八月三十一日もね、そうしたんだ。急ごしらえで海パンを買ってもらって、生まれて初めて海で泳いだ」
当時のことを思い出すと、先に感情だけが呼び起こされて胸がつまったようになる。
僕の記憶はぶつ切りになっていて、まだシーンがうまく連続していない。だから心に整理をつけるために、僕は真相の周辺にある大事な情報から少しずつ話すことにした。
「さっきも少し話したけど、父さんは仕事一筋でね。家のことはほとんど顧みない人だった」
千早は黙って僕の話を聞いている。電車のことでは饒舌な彼女が、こういう時に急に聞き役になるのはいつものことだ。
「だから八月三十一日は本当に特別だった。父さんと出かけることなんて今までなかったから。しかもそれまで指をくわえて見てるだけだった憧れの新幹線に乗れるなんて――電車が好きだった僕には、嬉しくてたまらない出来事だったんだよ」
夏の日差しを避けるように、なるべく日陰の場所を選んで歩く。
ジャワジャワというアブラゼミの鳴き声が、僕の声を打ち消すぐらいにやかましく頭上に響いていた。
「でもね、新幹線に乗りこんだ時に気づいたんだ。三列の座席に父さんと並んで座った時に、ぽっかり窓際の席が空いていることに。そこに座っているべき人がその日はいなかった……母さんだ」
ーーねぇ、父さん。もう帰ろうよ。
楽しいはずの父との外出で僕が駄々をこねたのは、急に母が恋しくなったからだ。家に帰れば母がいる、それが当たり前のことだったから。
しかしその日だけは違った。父が小田原に向かったのは、いなくなった母を連れ戻すためだ。
何も事情を知らない僕は、小型のスーツケースを引いて改札を出てくる母の姿を見つけて抱きついた。
『母さん!』
「母さんは一瞬驚いた顔をして……抱きついて顔を上げた時の泣き顔が忘れられない。その表情で僕は悟ったんだ。母さんは家出したんだって」
そこまで話したとき、僕らは御幸の浜にたどり着いた。
平日の海はそこまで混雑していなかった。海の家の前にある椅子に腰を落ち着けると、僕は千早に確認を取る。
「何か食べたいものはある?」
「イチゴ味の "かき氷"」
「氷イチゴ、二つください」
そうオーダーすると千早は「二つも? さっきアイス食べたばかりでしょう」と目を丸くする。
「いいんだ。アイスクリームはかえって喉が渇くよ」
僕は笑ってそう答えると、海を見つめた。
太陽に照らされて光っている波を見ると、失った日記の一ページを少しずつ取り戻していく気がする。
正直なところ、僕の記憶はまだ曖昧な箇所も多い。それでもこの謎を解くには十分だ。
「きっと、こんな一日だったんだと思う」
テーブルに置かれた氷の山をさくさくとシロップに馴染ませながら、あらためて僕は八月三十一日に起こったことを整理しながら話した。
八月三十一日、母が家出した。
父は母が居ないことに気付くと、僕を連れて母の実家のある小田原まで後を追うことにした。
そこで湘南新宿ラインに乗らずに新幹線に乗ったのはさすがというか、いかにも仕事優先の父らしい発想だ。出張が多かったから『ひかり』の方が早いことは知っていたのだろう。
事情を知らされないまま父に連れ出された僕は、それが夏休みのちょっとしたお出かけなのだと喜んでいた。
切符の記憶に、ワクワクした思い出があるのはそのせいだ。
しかしやがて父のピリピリとした様子と、新幹線の空席を見て僕は不安になった。
家に戻りたいと訴える僕に父は、アイスクリームを与えてなだめようとした。だから僕の記憶には、アイスクリームの記憶が残っていたのだ。
結果として僕たちは、小田原駅で母に追いついた。
「どうして父さんは、母さんを追い越したことが解ったんだろう? それが今でもよくわからない。直接母の実家に向かった方が確実だと思うんだけど……」
千早はそれを聞いて少しだけ微笑んだ。
「もしかするとお母さんも、期待してたのかもしれませんよ。お父さんが追いかけてくることに」
そう言われると、ざわざわとしていた心が少しだけ落ち着きを取り戻す。
それが長年連れ添った夫婦の勘、というやつなのかもしれない。
いつも乗っていた湘南新宿ラインで確実に小田原に向かうあたりは、決められたルーチンを崩さない生真面目な性格の母らしい行動だと思う。夏休みの日記をこつこつ漏らさず書くあたり、僕もそんな性格を受け継いでいる。
「僕は小田原の駅で立ったまま動こうとしない親に甘えたくてワガママを言った。『夏休みの最後だから、海に行きたい』ってね。だから八月三十一日の最後の思い出は、海の記憶なんだ」
最後の僕の記憶は、海で終わっていた。
海で夢中になって遊ぶ僕が、ふとした瞬間浜辺にいる両親に声をかけようと振り向くと、そこには真剣に話し込む二人が見えた。まさに千早と座っているこの場所で、二人は決して和やかとは言えない空気で会話をしていた。
八月三十一日の絵日記を再現するなら、きっと僕は新幹線でもアイスクリームでもない。浜辺で話している両親を描くだろう。
僕にとってはそれほどまでに衝撃的なシーンだった。そのページごと心の奥深くに封じ込めてしまうほどに。
記憶する限り、多少の夫婦のケンカはあっても母が家を出るなんて事態にはならなかった。
しかしその日は真剣な顔で二人が話し合っている。その内容は、考えるまでもなく想像がつく。そして、その理由も。
僕はあらためて千早の顔を真っ直ぐに見つめた。千早の唇は、氷イチゴのシロップの色で、ほんのりと赤く色づいて光っていた。
どちらかというと慎重な性格な僕も、手段を選ばず積極的に行動を起こすことがあるーーそれはたぶん父の方から受け継いだ性質なのだと思う。
父の過ちを許すことはできないけれど、その誘惑がとても強いものだということを僕は知っている。
千早の存在がなかったら、きっと僕は父を憎むだけで話はそこで終わっていただろう。
なにしろ八月三十一日のその日、母は僕を捨てようとしたのだから。
当時の僕も、そのことにうっすらと気づいていたからこそ、日記を破いて記憶ごと封印することにした。大人になってその事実を受け止めることができるようになるまで。
「日記を破いた犯人は、僕だ。それが八月三十一日の謎の答えだよ」
ここまでの話ですでに明らかなことだったが、僕は改めて千早に告白した。
八月三十一日の真実は、少年時代の僕が未来の僕に託したものだった。僕は十五年の時を超えて、ようやくその一ページを受け取った。まるで日記の一ページだけがワープしてきたみたいに。
千早には真相の全てを語りつくした。だからこそ、もう一つだけ伝えたいことがある。
「ねぇ千早、聞いて」
僕は高鳴る胸から絞り出すように、声を出した。
「君が好きです。付き合ってください」
千早の目は不意打ちを食らったように大きく見開かれた。
彼女にとっては唐突すぎるタイミングだったかもしれない。しかし僕はそのチャンスを逃したくなかった。
彼女はかき氷のスプーンを置くと、その赤い液体に視線を落として何も言わなかった。
僕は静かに彼女の答えを待った。
やがてかき氷が赤い液体になって太陽がかげりだす頃、ようやく彼女は波の音に打ち消されそうなほど小さい声で言った。
「少しだけ、考えさせて」
それは彼女がその日発した最後の一言だった。
京浜東北線の上りは空いていて、のんびりと座って帰るには最適だったけれど、僕は終身刑を宣告された罪人のような気分でうちひしがれていた。
新幹線には、いや、現実を走る鉄道には、どうにも良い思い出を持てそうにない。
虚構のジオラマの中で、行く場所も帰る場所もなく、ぐるぐると巡っている方が僕にはお似合いだ。
千早はずっと文庫に目を落としたままだ。
しかし中身をちらりと盗み見た僕は知っている。それは彼女が行きに既に読み終えたページであることを。
別れの駅が近づくと、千早はそっと文庫を閉じた。
まるでそれが、事件の終わりだと宣言するかのように。
僕の心は締め付けられるように痛んだ。
こんな気持ちになるぐらいなら、今の僕自身も八月三十一日の記憶ごともう一度封印してしまいたい。
僕は取り戻した記憶と引き換えに、大切なものを失ってしまったのだから。




