「Take the "S" Train 3」 孫遼 【恋愛×鉄道ミステリ】
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新宿のホームに降り立つと、千早は反対方向の電車に乗り込もうとする僕のシャツの裾を掴んで止めた。
「せっかく新宿で降りたし、普通に大宮に戻るんじゃなくて『大回り』のルートで東京に向かいませんか?」
「大回り?」
千早は少し驚いた顔をする。
「大回りを知らないんですか? 本当に現実に走ってる電車には興味がないんですね」
「言っただろ、僕は模型鉄だって。ジオラマを見てるだけで幸せで、移動ならむしろクルマで十分だ」
それでも電車に乗るのは、君と一緒にいたいからだ。
言い返す言葉の中に、つい本音がこぼれそうになる。
「大回りは……決まった都市近辺の範囲で、一度通った駅を二度と使わないルートであれば、どんな経路を使っても最短経路の料金になるという特例を使った乗り方のことです。たとえば山手線の内回りと外回り、どちらを利用しても運賃は同じになるでしょう?」
そう言いながら人の少ない壁際に移動すると、彼女は携帯をいじって路線地図を出した。
「大宮から南に来て、今はここ新宿にいます。中央線を使って東京に出て品川経由で小田原へ……」
路線図をなぞる彼女の指が、山手線の円沿いに大きな"S"の字を描く。
確かに遠回りだが、どの駅も一度だけしか通過しない一筆書きのルートだ。
「こんな風に乗り継ぎをすれば、走行距離に関わらず同じ料金で長く乗っていられるんです。いかにも乗り鉄が考えそうなことでしょう?」
僕は深く頷いた。
「そうか……だからあの時の切符も」
僕は、経由する駅が変われば切符の料金もそれに合わせて変わるものだと思いこんでいた。
しかしこんな特例があるのなら、新宿駅を経由して湘南新宿ラインに乗っても、東京駅を経由して新幹線を乗り継いでも同じ料金になるはずだ。
そのとき、ふと自分が持っている切符のことを思い出す。
「あれ? でも僕たちが今持ってる切符は青春18切符だから、そもそも乗り降りし放題だよね?」
そう言うと、千早はペロリと舌を出した。
「気付いちゃいましたか。確かにその切符なら大回りどころか、何度でも同じ駅を行ったり来たりし放題です。ただ……」
そう言いながら、千早は少しだけ表情を曇らせる。
「ただ?」
そう聞き返すと、彼女は笑顔を作って顔をあげた。
「東京に着いたら話します。小田原に止まる次のひかりは十一時三十三分発だったはず。乗り遅れますよ!」
千早は周囲の音にかきけされないよう元気な声を出すと、早足で中央線のホームに向かった。
東京駅で新幹線専用の改札口に入ろうとする僕のシャツの裾を、千早はまたしても引っぱった。
「待って。ここでワープが必要です」
「ワープ?」
SFのような不思議な言葉の響きに、僕は思わず興味を惹かれて振り向いた。
「はい。青春18きっぷは普通列車専用で、新幹線には乗れないんです」
「え、そうなの?」
「ええ。だから青春18きっぷで乗れない区間だけきっぷを買って移動を安く済ませることを、乗り鉄の世界ではワープと呼びます」
彼女は肩をすくめると、小声で付け加えた。
「さっき言いかけたのはそのことです。新幹線では、青春18きっぷが使えないのには気づいていたの。ごめんなさい、朝の時点でわかってたらもっと安く済ませることができたんですけど……」
「気にしないで。それに切符は僕が買うから大丈夫。夏休みだし、日雇いのバイトを増やすさ」
「日雇い、ですか?」
彼女は驚いたように僕の方を向いた。
「うん、工事現場とか。高校ではトライアスロン部だったから、こう見えて体力には自信があるんだけど。意外?」
千早はしばらく僕の腕や胸のあたりを見つめた後、俯き加減に首を横に振った。
彼女は鉄道以外のことになると急に言葉が途切れて無口になる。
しかしその反応は、ほんの一瞬だけ僕に興味を示してくれた手応えのように思う。仮に勘違いであったとしても、今はその事実だけで十分だ。
新幹線の券売機で並びの切符を選択すると、僕はほんの少しだけ指先に力を込めて購入ボタンを押した。
ひかりに乗り込むと、社内販売の声に気づきやすいようにと千早は僕を通路側の席に座らせた。
窓際から三列になっている新幹線の窓側は空いていた。しかし品川駅に着くとその座席もすぐに埋まり、横浜駅に着くとほぼ満席に近い状態になる。
待ちに待った車内販売が来たのは、ちょうど横浜駅を過ぎた頃だった。
手をあげてワゴンを止めようとしたその時、僕の頭に声がフラッシュバックした。
――ねぇ父さん、もう帰ろうよ。
少年の声が聞こえる。
それが六歳の頃の記憶だと気付いた僕は、チャンスを逃がさないよう咄嗟に目を閉じて耳をふさいだ。
そんな僕の様子を見て、機転を聞かせた千早の『アイスクリームください』と注文する声が、塞いだ耳の奥でくぐもって聞こえる。
間違いない。僕は十五年前ひかりに乗った。
そしてアイスクリームを社内販売で買って食べた。家に戻りたいと駄々をこね始めた僕に、父が仕方なく買い与えたバニラアイスを。
どうしてあの時、僕は駄々をこねたのだろう。当時は割と落ち着きのある子供だったはずなのだが。
そんなことを考えているうちに頭が冷静さを取り戻し、当時の記憶は逃げるように遠ざかっていく。
気づけば千早が、アイスを手にこちらを心配そうに見つめている。
「大丈夫だ」
僕はそう言いながらアイスを受けとり、ふたを開いてスプーンを手に取った。
「あと十五分ほどで、小田原に着きますよ」
十五分あれば余裕だ、と言おうとして僕はそのアイスの固さに気づく。
「固っ!」
そのアイスはカチカチに凍っていて、力を込めるとスプーンは簡単に折れてしまいそうだ。
僕は一度ケースを閉じ、アイスを両手で包んで温め始めた。
なぜだか卵を温める親鳥のような気持ちになって、手の中の容器が、記憶の中にあるそれよりもひどく小さいことに気づく。
アイスが小さくなってしまったのだろうか……いいや、それ以上に僕が成長したんだ。
少しだけ柔らかくなったのを確かめてから、スプーンですくって口に含むと、優しくてどこか懐かしい味が口の中に広がる。
この味は一度体験したことがある。
――ねぇお父さん、もう帰ろうよ。
耳の奥でリピートする声をさっきよりも近くに感じた。
「もうちょっとだ。あと少しきっかけがあれば、全て思い出せそうな気がする」
そう千早に告げたとき、東海道新幹線ひかりは小田原に到着した。
小田原駅の改札の手前で、千早はきょろきょろと周囲を見渡した。
「お手洗いに行ってもいいですか?」
千早はそう言うと、目の前にあった駅のトイレに駆け込んでいく。
その場に取り残された僕は、ぼんやりと道行く人々を見つめていた。
ーーそうだ。あの時も、こうして人を待っていた。
当時の僕と今の僕のイメージが徐々に重なっていく。
父と手を繋ぐ右手の感触。あの時、僕は改札から出てくる誰かを待っていた。
あれは誰だったのだろう。確か目の前に現れたのは――
「お待たせ」
近づいてくる千早を見た瞬間、脳に電流が走った。
「……思い出した」
そう千早に告げた僕は、急激に上がりはじめた呼吸と心拍数に必死に耐える。
脳に急激に血流が流れ込み、目の前が暗くなりかけた。僕は衝動的に、目の前にいた千早の手首を両方の手で握った。
彼女は逃げなかった。
千早はまるで幽霊のように両手をぶらりと下げて握られたままにしながら、僕の様子を心配そうに見つめた。
握った手首があまりにも細く簡単に折れてしまいそうだったので、遠のきそうな僕の意識はかろうじて現実に留まった。
「記憶……戻ったの?」
「うん。全部思い出した」
今なら全てを説明できる。
なぜ八月三十一日の日記のページだけが破られていたのか、その理由を。




