「Take the "S" Train 1」 孫遼 【恋愛×鉄道ミステリ】
本作品は2018年春のダイヤに基づき作成しております。
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十時二十八分大宮発、JR湘南新宿ライン特別快速小田原行き。
僕たちの目的は、その "電車" に乗ることだった。
汽笛を鳴らしながら、大宮駅の地下プラットフォームに滑るようにして入ってくるその十五両編成はいかにも通勤型らしく角ばった形をしている。
車両が停止しプシュッとガスの抜けるような音をさせながら扉が開くと、空調によって冷やされた風が薄いシャツを着た僕の体をするりと撫でた。
彼女は軽やかな足取りで階段を下り、グリーン車両の自動ドアの前に立って扉が開くのを待っている。
なるほど、二階建てのグリーン車両の中はこうなっているのか。
鉄道模型作りに傾倒する僕は、初めて中から見る二階建列車の作りに感心していた。
まさか都心のこんな近距離移動のために、グリーン車に乗る日が来るとは思わなかった。
改札でスタンプを押してもらったばかりの青春18きっぷを丁寧に財布にしまうと、ICカードを天井に押し当てて座席を確保している彼女の隣に腰かけた。
自分もパスケースを取り出して座席の確保を彼女に託すと、カバンを漁って一冊の学習ノートを取り出す。
これが今日の僕の "宿題" だ。
八月三十一日のページだけが存在しない絵日記。
十五年前の記憶と共に消えてしまった夏休み最後の一日。その謎を解き明かしたい。
ふと窓の外に目をやると、視界と同じ高さのホームが滑るように動き出した。
十時二十八分、定刻出発。
こうして僕と彼女のミステリーツアーは始まりを告げた。
僕がその日記の『欠損』に気づいたのは、七月も下旬に差し掛かり、東京でのお盆を終えて一息ついた後のことだった。
「そろそろ家を出て、独り暮らしを始めようと思う」
僕は両親にそう告げると、重い腰を上げて部屋の片付けを始めた。
くたびれた体操服のジャージ、文集、卒業アルバムーー要るのか要らないのか判断がつかない、かといって捨てることのできない思い出の品が突っ込まれて埃をかぶったダンボールの上に、その学習ノートは無造作に置かれていた。
それはまだ小学一年生だった二○一八年、夏休みの宿題として提出した絵日記だった。
僕は掃除の手を止めて懐かしさに浸りながら、十五年前に書かれた記録を読みふける。
無邪気な "少年" だった当時の僕は、プールと家とを往復するだけの平凡な日々を律儀にも毎日欠かさず綴っていた。
やがて最後のページにたどり着いたとき、僕はページをめくる手を止めた。
八月三十一日のページが、ない。
ノートの中心を指でなぞると、綴じ紐が少しほつれている感触がある。どうやらそのページは何者かによって、故意に破かれたようだった。
『八月三十一日は何をしていたのですか?』と赤ペンで書かれた当時の担任のコメントから想像するに、そのページは宿題として担任に提出した時には、すでに存在していなかったようだ。
当時それなりの優等生だった僕は、宿題を完璧に終わらせることにこだわりを持っていたはずで、ラジオ体操にしろ朝顔の観察にしろ毎日こつこつと頑張っていた記録が残っている。
だからこそ絵日記の最後だけが一ページ欠けてしまっているのは不可解だった。
二○一八年八月三十一日。この日に一体何が起こったのか。
このページは一体誰が、何の目的で破り捨てたのだろうか。
それを解く鍵は、きっと薄れてしまった僕の記憶の中にあるに違いない。
「湘南新宿ラインの、しかもグリーン車に乗るなんて。ずいぶんリッチな小学生だったんですね」
彼女にそう茶化されて、僕は動揺しながら答えた。
「いや……たぶん父さんと一緒だったからだ」
記憶を手繰り寄せながら、ノートをパラパラとめくった。
「自分用の切符を買ってもらったのが嬉しくて、大事に握りしめてたのを覚えてる。特急に乗るなんてその日が初めてだったし、父さんは仕事人間で、夏休みに一緒にどこかに出かけることなんてほとんどなかったから」
おぼろげな記憶の中で、父が渡してくれた二枚の切符の記憶ーーそれが現時点で僕が持っている唯一の手がかりだった。
「思えばあれが鉄道模型にハマったきっかけなんだ。あんなに印象的な出来事なのに、日記にはその記録がない。だから八月三十一日の記憶なんじゃないかと思って」
「きっとそうだと思います。子供料金の切符が必要になるのは小学生からだから」
千早はそういうと、確信を得たように頷いた。
彼女も『鉄』――鉄道オタクだ。
鉄道オタクは、乗り鉄、収集鉄、撮り鉄といったようにどんな活動を好むかで体系的に分類される。
千早は鉄道に関連するものを広く好む万能な鉄で、僕は鉄道模型にしか興味のない模型鉄。
そんな二人の出会いは、横浜の鉄道模型博物館だった。
千早はジオラマの前で、ひたすら電車が走るのを食い入るように見つめていた。
彼女は眼鏡が知的でどこか冷たい印象だったけれど、電車を見つめるその表情は楽しげに見えた。
初めのうちは、一人で模型を見ている女の子が珍しくて注目していたが、次第に僕は彼女から目が離せなくなっていた。
そのときにはすでに彼女に好意を持っていたし、恋に落ちていたのだろうと思う。
僕はさりげなく彼女の視界に入る場所まで移動すると、そこで彼女の視線の先にある電車をひたすら目で追い続けた。
ジオラマは何度も昼と夜を繰り返し、おそらくその小さな世界において一月以上の時間が経過した頃、千早はようやく視界の先にいてじっと動かない僕の気配に気づいたらしい。
注目されていたことに気づいた彼女は慌てて視線を逸らそうとしたが、そのチャンスを逃すつもりは僕にはなかった。
HOゲージが三つほど入る程度の距離まで彼女に歩み寄ると、そこで少しだけ彼女の体温を感じた気がして足を止めた。
彼女は逃げなかった。僕は勇気を出して口を開いた。
「模型が好きなんですか?」
問いかけに首を横に振った彼女は「鉄道が好きなんです」と答えた。
『鉄』に悪人はいないーー少なくとも僕の周りにおいてはそうだったし、彼女も同じ思いであったのだろう。
こうして鉄道オタクの高校生千早と、かつては真面目な優等生だった大学生の僕は、たまに会っては一緒に電車に乗る仲になった。
そう、極めて残念なことに。たったそれだけの仲だ。




