作家
これは人生で一番後悔したことだと思う。
はいはい人生で一番ね。最近の若者は何でもかんでも「人生で一番」に拘る。そんなに自分が不幸かよ。ちょっと嫌なことがあったからって、女々しく悲劇の主人公ぶってんなっての。飽き飽きしてんだわ、そういうの。少し自分の人生をそこのブラウン管テレビで再生してみろよ。不幸なことなんて腐る程あったろうが。そのたびに「人生で一番の不幸だ」って落胆しやがってよう。手前の人生は簡単に上塗りされるほど薄いのな。ちょっとは考えてモノ言えや。……と、怒鳴りたくなる気持ちは承知の上だ。そう、たかが高校生の餓鬼の戯れ言だ。簡単に「人生で一番」を口にする。それを人生で何度繰り返した? 思い返すのも馬鹿らしい。不幸のたびに語る人生ほど、薄くて軽いものはない。が、この時の僕は本当に心の底から思ったのだ。人生で一番後悔した、と。
凍てつく寒さの深夜。凍えそうになる身体を少しでも暖めようと布団に潜り込み、どうしてこうなったのか、どこで間違えてしまったのかと、お得意の後悔に溺れてしまう自分。そんな事を考えたところでどうにもならないのは分かっている。分かっているのだが、考えないと自分を自分だと保っていられなかった。
全てが狂った原因。それはただ、一途に好きな人がいたことであろう。幼馴染みの女の子だ。ずっと彼女のことが好きだった。可愛く、愛しい。ずっと一緒にいたいとも思う。しかし、そんなことは不可能だった。この世に永遠なんて存在しない。際限なく広がり続ける『今』なんてない。永遠とはすなわち錯覚だ。生と死が表裏一体であること自体が、永遠の存在を打ち消していることに何故気付かない。人は生きている。動物は生きている。植物は生きている。地球は生きている。生とは始まり。「生きている」という動詞は時間の経過であり、死は終わり。どこに終わりのない先延ばしにされた時間があろうか。永遠なんて所詮、時間の重みに耐えきれなくなった人間が作り上げた妄信だ。それでも人は願う。終わりない快楽を、ずっと続く幸せを。永遠があるのならば失敗はいつでも取り返せる。そんな楽観的な考えを持ちながら。
永遠があったならば、十年、百年、そんな未来の先にこの現実は変えられるだろうか。
そんな悟ったようなことをのべつまくなしに垂れ流してんじゃねえよ。こちとら、んな面倒な事を考えながら生きてられるかってんだ。そんな暴言が額めがけて飛んできたような気がしたが、それは単なる知恵熱による頭痛のようだった。ない頭であれこれ考えすぎたのだ。要点だけ整理しようと寝返りをうつ。
言うなれば、僕はただ妄想するしかない痛い奴だった。輝かしく甘い未来を、ただ想像し、夢見るしかない自分。正々堂々と立ち向かうことを放棄した弱虫だ。だが、弱虫も度を越したら自分でも嫌気がさす。もう嫌だ、と思ってしまうのも当然だろう。刹那、僕は机に向かっていた。それからというもの、僕は二週間ずっと何かに憑かれたかのように原稿用紙にペンを走らせ続けた。そして僕と彼女をモチーフとした妄想小説『キミと』を完成させたのだ。完成させてしまったのだ。
ここで終わっていればよかったと今になってそう思う。言わば後悔だ。
何故、僕はその小説をかの有名な草風社に投稿してしまったのだろうか。ただのストレスの掃き溜めのような作品だ。不特定多数の人間のために書いた訳でもない。ただ彼女と、こんな綺麗な世界で、美しい恋をしたかった。彼女に美しい世界があることを伝えたかった。端的に言えば、彼女ただ一人のために描いた物語だったんだ。それを、当の本人に贈るのが恥ずかしかった僕は、行き場のない原稿を、雑誌の新人賞という名のごみ箱に捨てた。あの草風社様ならこんな小説など一次審査で落とすに決まってる。そう思って。
ただ一言で語るならば、草風社は素晴らしい出版社の一言に尽きる。大抵の人気作家の書籍はドラマ化・アニメ化するのが当前。メディア化していないまでも、契約を交わしている作家たちのレベルは高く、層が厚い。そのため新人賞に投稿しても入賞できる訳がないと思っていた。
思っていたんだ。
だが気が付けばいつの間にか「僅か十五歳で入賞」やら「またもや重版決定」などと騒がれるようになってしまっていた。つまり、あの『キミと』は信じられないことに草風社新人文学賞の大賞に入選してしまったのだ。
親や学校に何て説明しようかと頭を抱えたが、親は兎も角、ペンネームがダブルKだったことが幸いし、学校の同級生たちや友人に正体がばれるということはなかった。もちろん幼馴染みの女の子であり、僕が好意を寄せるカナタにも。
だが一体全体どういう訳か、あまりの人気でドラマ化・アニメ化の依頼が殺到。ファンレターでも「次回作を待ってます」やら「とても面白かったです。次も期待してます」というものばかりが送られてくる毎日。傍迷惑なテレフォンコールを送ってきた張本人である担当の春見さんも「君のおかげで草風社の評判も鰻登りよ。次もよろしくね」とのこと。春見さん、次を書くとは言ってないですよ。
余程ダブルKのデビューに利益やメリットを感じたのだろう。編集部は何かと次の作品を書くように要求してくる。しかし生憎僕は続きを書こうとは思っていない。作家としての未来など望んでいないからだ。
このような経緯があり、僕には意外な才能があるという事を切に実感した。しかし、それはあまりにも僕の周囲に変化をもたらした。特に学校では現在、同級生がちらほらと僕の本を読んでる状況が続いている。恥ずかしいことこの上ない。ありふれて、何もない、変わらない日常。ただ僕はそれだけを望んでいた筈なのに。
「僕は迷わない。取り戻してやる。必ず僕のリズムを、日常を」
僕は自室のベッドの中でそう誓うと、拳をぎゅっと握り締める。
それが肌寒い十一月三十日のことだった。
翌朝十二月一日。今年最後の月が始まる。そんな日に限って僕は重い足取りで学校に辿り着いた。校門を潜り、靴を履き替え、年季のある廊下を歩く。始業の時間までまだ余裕があるからか、人気は少ない。教室の前を横切るたびに話し声が聞こえたが、随分とひそやかなものだった。
教室に続く廊下には、いくつかの掲示板があった。そこには主として学校新聞や委員会からのお知らせが貼り出されているのだが、その内の一つに思わず視線が向いてしまう。貼り出されていたのは異様なまでに大きな紙で、それには大きな字で以下のように書かれていた。
『図書便り超特別号! 図書館にあの大ヒット作のダブルK著『キミと』が入荷いたしました。あの大ヒット感動作を図書館で読みませんか? 図書委員より』
「まじかよ」
ただただ呆然とする。遂に図書館にまで僕の本が入荷されてしまった。僕の居場所がどんどんとなくなっていくような気がしてならない。まあ実際は逆のような気がするが気のせいという事にしておこう。
新聞から逃げるようにして早足に再び歩き出す。僕は宮城圭であり、断じてダブルKではない。大賞のおまけで付いてきた春見さんも要らない。早く契約を破棄してもらいたいものだ。
半ば苛立ちながら足を前に運び続けると、直ぐに僕の所属する一年八組の教室の前に辿り着いた。その前で一度立ち止まり、一度二度深呼吸をする。
「おはよう」
心を落ち着かせて、特に返事は期待せず模範的な朝の挨拶を教室に轟かす。三十ある座席のうち、埋まっているのは十席程度だった。どいつもこいつも覇気のない顔つきをしており、まるで学校に活気を吸われているよう。やはりと言っては何だが、挨拶をしたにも関わらず返事を返す者はおらず、軽く会釈をするのが精々関の山といった様子であった。
「おっす」
もう返事はないと諦めた時だった。不意に僕とは正反対の明るい声が響く。俯かせていた顔を上げると、窓際に設置されたストーブ付近に見知った顔があった。
「うっす。今朝も寒いな」
ショルダーバッグを窓際の一番前の机に置いて僕はそいつと向かい合う。
「まったくだぜ」と男は苦笑を浮かべた。「しかも今日は俺が給油当番だったからな。わざわざ寒い中灯油取りに行ったんだぜ」
「そりゃ御愁傷様」
「何で給油所って外にあるんだろうな。寒くて仕方ねえわ」
手のひらをストーブにかざし、寒い寒いと言いながらも花菜技太一は穏やかな笑みで述べる。
奴はいつもこうだ。ああだこうだと愚痴を洩らすものの、いつも困難こそが人生の隠し味と言わんばかりに朗らかな笑みを浮かべている。整った顔立ち、すっきりとした短髪も彼の性格とどことなく合わさっているような気がした。
彼とは高校の入学式で出会った。いつの間にか友達の作り方を忘れてしまった僕に最初に声を掛けてきたのが太一である。男女分け隔てなく交流が深く、それ故に彼の好感度は誰からも高い。特に僕と彼はフィーリングが合うのだろう。大抵僕らはいつでもつるんでいる。
今では何気無い世間話も日課と化している。
「昨日購買で買ったパンが不味かった」
「宿題やってない」
「文系の授業なんて滅んだらいい」
今日もまた教室の端で太一と談笑を繰り広げる。
そんな言葉のキャッチボールの最中、不意に太一は怪訝に室内を見渡した。着実にクラスメートが揃いつつある中、彼はおもむろに一人の女子を指差した。
「あの子、どう思う?」
「どうって」
神崎美香さん。ただのクラスメートだ。この世界が宮城圭を主人公とした小説なら、彼女は脇役Aといった立場だろう。特別親しい訳ではなく、たまに話すことがある程度。彼女は椅子に腰掛け、熱心に読書の真っ只中だった。
「ん?」
しかしどこか変だ。違和感が募れば自然とそれを見付けたくなる。不審に思われない程度に観察を続けていると、ようやく違和感の正体に気が付いた。
僕の本を読んでいるのだ。
「あれ、最近話題の『キミと』って本だよな」
基本的に太一は本が苦手な方だ。文字が連なっているだけでも随分と堪えるらしく、それ故に先日の現国の『こころ』の授業では気分を悪くして保健室に直行したくらいだ。そんな彼でも流行には敏感ならしい。すらっと僕の書いた小説の題名を口にする。
「そうだな」とやや無愛想に返す。「それが何か?」
「最近読んでる奴多いなって思ってさ。灯油を運んでた時、他の教室でも読んでる奴見たぜ」
「人気あるのかな」
「知らね。面白いのかねえ」
「それこそ知らないよ。ダブルKになんて興味ないから」
内心安心しながら僕は応えた。作家になってしまっても太一は読書をしないから気楽に接することができる。この時だけ、僕は宮城圭として存在できるのだ。
「だよな。しかもなんだよ、あの変なペンネーム。もう少しましなのにしろっての」
できればそこについては突っ込まないで欲しかった。変な名前という自覚はあるが、あれはあれで気に入っているのだ。
するとこの会話が聞こえていたのか、静かに本を読んでいた神崎さんが訝しげに視線を送ってくる。僕らがすぐに話題を転換したのは言うまでもない。
寒さに耐えている内に、今日という一日は終業を迎えていた。寒さに気を取られて授業に一切身が入っていないとは、なんとも皮肉な話だ。教師側としても、これ程までに教えがいが無いと自身の職選択に幾ばくか疑念を抱いてしまっても致し方無いのではあるまいか。
さあさ楽しい放課後でござんす。部活に参りましょうか、下校致しましょうか。あれや兄さん、どうするおつもりで? と暇を持て余すクラスメートたちは放課後の有効利用手段の模索でやんややんやと賑わっている。だが、そんな時間も長くは続かない。暫し時間を要すると部活に行く奴は行くし、帰宅する奴は帰宅する。教室に残る酔狂な輩も居らず、程無くして教室には僕以外の生徒は誰も居なくなってしまう訳だ。
太一も電車の都合上、つい先ほど寒さに震えながら凍てつく外界に飛び出していった。対して僕はストーブを独り占めにして温まっている。恨むなら不便な登校手段を用いている自分の不運を恨むんだな。そんな僕も列車通学生なのだが、太一より後の電車で帰ることにしている。
既に外は薄暗い。何故に冬はここまで日の長さが短いのかと嘆きたくなる。寒さは一種の罪だ。グラウンドから轟く運動部の声にも、なんとまあ覇気の無いこったろうよ。
さて。
しっかりとストーブの火を消してショルダーバッグを手に取ると、いよいよ僕も教室を出る。向かう先は玄関……だが先に赴かなければならない場所がある。
少し歩を進めると一年五組の教室に辿り着く。ここも八組と同じで人の気配が無く、ほぼ無人状態であると推測できた。
そう。ほぼ無人状態。僕にはこの中に一人だけ生徒が残っていると断言することができる。理由は習慣だからとしか言い様が無いが、絶対に。
取っ手に手を掛け、中で男女の営みが行われているのではないかと懸念することもなく、躊躇なく扉を開く。
女の子が居た。
春原カナタが居た。
前髪は真ん中分けで、肩にまで掛かる結ったポニーテールの髪は茶色がかっている。初見の人は染めているのではと首を捻るが、生憎地毛なので無意味な疑いは遠慮していただきたい。身長は高校一年生の女子にしては高い方であり、男子と並んでも大して変わりはない。溌剌とした性格を表すような大きな瞳は、誰が見ても綺麗と称賛を贈りたくなる素晴らしさだ。ここまで述べると「なんて美少女だ」と興奮する男児もいるが、普通の女の子と何も変わらないと思う。特別飛び抜けた才能がある訳でもなく、かと言って何もできない訳でもない。そう、普通だ。普通の女の子だ。
大きな瞳が僕の姿を捉える。
「あ、けーちゃん」と彼女は言った。「そろそろ時間?」
「うん」
小さく頷くとカナタはせっせと片付けを始める。読書をしていたのだろう、ハードカバーの本を鞄に詰め込むと立ち上がり、駆け足でこちらにやって来た。
ハードカバーの本が少し気に掛かったが、平静な表情を浮かべて見せた。
カナタに限って、まさかな。嫌な予感を振り払うように自分の髪の毛をくしゃくしゃと掻き回し、なんとか冷静さを保つ。せめて彼女の前だけでは作家という非現実から目を背けていたかった。小説でしか想いを伝える術を知らなかった自分が恥ずかしかったから。何より、その想いを綴った原稿を渡せなかったことが情けなかったから。
「けーちゃん?」
自然と挙動不審になっていたらしく、カナタが訝しく小首を傾げて僕の顔を覗き込む。
おっと、いけない。
「何でもないよ」と僕は誤魔化した。「さあ帰ろう」
「電車に乗り遅れたら大変だもんね」
肩を並べて僕らは人気の無い第一学年の廊下を歩く。
県立桜鈴高校は昨年創立百二十周年を迎えた歴史ある普通科校である。僕とカナタが住む町からは少し遠いが、パンフレットを拝見した時、進学するならここにしようと決意した。わざわざ遠い高校に進学したのは僕とカナタだけのようなものだ。中学の友人との交流もなくなり、正真正銘ゼロからのスタートだった。
外見こそ現代風の外観を醸し出しているが、実際は木造五階立ての年季のある内装をしている。生憎都会と言うほど発展した都市でもなく、都会人から見ると『田舎』に位置付けされてしまいそうな町にある高校のため、それほど大きな建物ではない。それでも独特の香りと言うべきか、纏う雰囲気が大好きだった。桜鈴高校に進学して後悔しているということはない。
僕とカナタは何を話すでもなく下駄箱に向かい、靴を履き替えると正門ではなく裏門に向かった。本来裏門を通じて登下校をすることは原則禁止されているのだが、こちらから通った方が駅に近いのだから、これくらいの我が儘は許していただきたい。
「もう真冬だね」
誰にも見られることなく裏門を抜けると、突然カナタは口を開いた。別に規則を作ったわけではないのだが、僕らの間には「裏門を抜けるまで言葉は交わさない」という暗黙のルールがあった。
「そうだな」と僕は言った。「ますます寒くなるよ。最近はこたつから出れなくて困ってるっていうのに、これ以上寒くなられたら堪ったもんじゃない」
「猫みたい。私はどうかな。布団から出たくないかな」
「それは多分、学生はおろか社会人も思ってる願いだよ」
「違いないね」
鉛の雲からは今にも雪が溢れてきそうだった。いっそのこと一思いに豪雪にでもなればいいのにと思うのは、学校を休みたいと願う高校生なら誰しもが考えることだろう。
駅までの距離はさほど遠くはない。十分もあれば余裕で電車には間に合うだろう。無人駅であるそこには人陰はもちろん無く、ホームに入っても僕たち以外の人間は居らず、代わりに野良猫が一匹、我が物顔でベンチに寝そべっているだけだ。
「今日も可愛いね、キズスケ」
キズスケ。
カナタはこの野良猫のことを、額についた大きな傷痕から『キズスケ』と命名した。恐らく五、六才にはなるだろう。珍しい三毛猫の雄だ。売りさばけばカネになるのだろうが、この町にはそんな卑下た人間はいないため、二年程前からこの無人駅で厄介になっているらしい。
「小太郎」と僕はキズスケに言った。「そう呼んでる奴もいる」と今度はカナタに視線を向ける。
「違うよ。キズスケだよ」
「野良猫から取って、のっちゃんとか」
他にも傷痕が一文字を描いているため『一文字』やら、尻尾が先端で微かに曲がっていることから『マガ』やら、このキズスケにはたくさんの名前がある。ちなみに僕はカナタに倣い、キズスケと無難に呼んでいる。
キズスケは大きな腹を見せ付け、撫でろと言わんばかりにカナタに視線を向ける。それに逆らう彼女でもないため、電車が来るまでの間、僕たちはこの駅のマスコットと戯れ合っていた。
電車は五分後に駅に到着した。カナタは名残惜しそうにしながらも、キズスケに向かって手を振る。
「明日はおやつ持ってくるね」
そう呼び掛けたが、キズスケは無愛想に横を向き、ベンチから降り、電車の騒音から遠ざかるようにどこかへ歩き出していった。
「おやつは欲しくなかったのかな」とカナタは無愛想な態度に少し落胆したようだ。「缶詰めがいいのかな?」
「だろうな」
車内は案の定空いていた。他校生の姿やサラリーマンの姿がちらほらとあり、僕らは彼らから少し離れた座席に腰を降ろす。
「あまり人間の食べ物は猫の身体に良くないからな。腎不全になっちまうよ」
「そうかあ、それは駄目だね」
また缶詰めでも買うかな。
そう独り言を呟き、カナタは最寄りのホームセンターの姿でも思い浮かべているのだろう。窓の外に目を見やる。
時刻は午後五時を過ぎていた。夏ならば明るかった筈のこの時間帯も、いざ冬になると真夜中かと思いたくなるほど真っ暗になってしまう。ここからおよそ一時間と三十分を掛けて家路につくのだから、何とも長いものだ。
ガタンゴトンとお決まりの一定のリズムを刻みながら電車は進んでいく。カナタは建物から溢れて滲む灯りを見詰めて黙り込み、僕は親から連絡がきていないかどうか携帯を確認する。特に会話が生まれる訳でもない。だが、居心地が悪いとは思わない。寧ろ安堵感に包まれている程だ。幼少期から長く付き合っていると、別に沈黙が落ちようが気に病む必要もない。ただ隣に居てくれるだけで心地よい。幼馴染みとは不思議なものだ。
電車がある駅に停車すると、一人の女学生が定期を片手に降りていく。こうして僕らの住む町に辿り着く時にはもう、電車内に僕ら以外の人間は居なくなっていることだろう。
入学当初はどうしても慣れなかった列車通学。長く座っているとお尻が痛くなる上に、どうしても手持ち無沙汰に陥ってしまう。少し前まではトランプをしていたのだが、やはりそれにも飽き、今では中身の無い会話をするか、寝るかしかすることがない。
そして今日も彼女は暇な時間を寝ることに費やすようだ。おもむろにカナタは隣に座る僕を見ると、小さく口を「おやすみなさい」と動かし、そのまま身体を傾け、僕の膝を枕にして寝入ってしまった。地理的に考えて、登校する際、僕らの朝はどうしても早くなってしまう。朝の通学電車でも寝るには寝ているが、場所が場所なため、安心して寝付くことができないのだ。それでも寝れる時に寝ておかないと都合が悪い。カナタの選択は合理的な訳だ。
気持ちよさそうに目を閉じているカナタの頭を撫でていると、こっちまで眠くなってくる。僕も寝ようか。かと言って、寝過ごしては洒落にならないため、前もって携帯でアラームを設定してから、僕も同じように目を閉じた。
そこは緑がよく似合う場所だった。
定期的に刈り取られ、整えられた芝生。そこに鎮座する遊具。正門脇に生えた大木たち。青空と太陽の陽射しに射され、青々とした植物たちが生命力を発揮させていたように思う。兎に角その場所は、緑がよく似合っていた。
足が不自由な女の子。
テレビやラジオで聴いた音楽を口ずさむ女の子。
一人で遊ぶのが好きな女の子。
群れるのが好きな男の子。
しっかりとした真面目な女の子。
心に余裕が無い男の子。
そこには色々な子供たちが居た。朝は年を食った老女から読み書きを教わり、昼になるとご飯を食べてお昼寝し、定時になると自由時間を与えられて外の遊具で遊んだり、ままごとをしたりする。毎日そんな生活が続いていた。ずっとここが自分の家だと思っていた。
ある日、女の子が一人居なくなっていた。不思議だった。知らない大人たちが何度もうちに来て、その数日後に誰かが居なくなっている。初めて恐怖心を抱いたのは、その規則性にいち早く気付いた時だ。いち早く気付いた僕のことを、老女がいち早く気付いた。
圭くんは察しがいい。
そう老女は言った。
察しがいい?
僕が首を傾げると、老女はにっこり微笑んで言った。
圭くん位の年頃の子には、もう少し成長したら本当のことを言うつもりだったんだけどねえ。最近の子は賢いわね。ほら、*ちゃんもおいで。
老女が声を掛けたのは、僕と同い年のしっかりとした女の子だった。彼女は呼ばれると僕らのもとに駆け寄り、そして僕と共にどこかに連れていかれる。
連れていかれたのは老女の部屋だった。扉には三つの文字が彫られていたが、漢字を知らない幼い子供に、それを自力で読む術は生憎持ち合わせていなかった。
中は綺麗な部屋だった。壁の両側には大きな本棚が並び、絵本や難しい本など、様々なジャンルの書物が整頓されて詰め込まれていた。部屋の中央には接客用の机とソファーが対になって鎮座している。その奥の事務用の机が老女個人のものなのだろう。机の上には多くの資料が整理して置かれていた。
さあ、お座り。
老女はそう言うとソファーを僕らに勧め、自分は脇の扉から隣の部屋に入り、暫くするとジュースを両手に持って戻り、それを僕らに手渡すと向かいのソファーに腰を降ろした。
あのね、圭くん、*ちゃん。
老女が口を開く。
そして若干四・五歳の僕らは、その歳で抱え込むには大きすぎる秘密を打ち明けられた。
目を覚ました時には一時間が経過していた。
アラームが鳴った訳ではないようで、その証拠にカナタは僕の膝の上でまだ寝息を立てている。二度寝をする時間も無いため、アラームを解除すると大きく息を吐いて座席に深くもたれ掛かる。
夢を見たようだ。おぼろ気で思い出すのも億劫だが、懐かしい風景を見た気がする。その夢の正体は薄々見当が付くが、今となっては特別重大な記憶でもないため、要らないことは忘れることに徹する。
はあ。
二度目の溜め息を洩らした時だった。
「ん……」という声と共にカナタが目を覚ます。「おはよう、けーちゃん。私、どれくらい寝てた?」
「夜だけどな。一時間くらいだよ。あと十分で着くぞ」
「ありがとう」
ゆったりと起き上がると、まだ寝惚けたままの目をごしごしと擦る。
……?
不意に感じる違和感。寝起きだとしても、明らかにカナタの表情は不機嫌そのもののように見えた。目つきは鋭く虚空を睨んでおり、乱暴に頭を掻き毟っている。
「どうした、カナタ。機嫌悪そうだけど」
尋ねてみたがカナタは何も応えなかった。その代わり、ショルダーバッグを開けるなり、そこから一冊のハードカバーの本を取り出す。紺のブックカバーを着けており、その題名を見ることはできない。
できないが、カナタはその題名を自ら口にした。
「『キミと』って、知ってるよね」
心臓を、直接鷲掴みされたような錯覚が僕を襲った。冷たくも重量のある血が全身を走り抜ける。赤血球やら白血球やら血小板が血管に引っかかっているみたいに身体が痺れていった。なぜ、ナゼ、何故、ナぜ、彼女の口からその名前が出るのか。自問して、すぐに顔が熱くなった。……読まれた。
カナタは視線を逸らしているため、僕の表情までは窺っておらず、どうやら無言を肯定と受け取ったらしい。もしくは、不機嫌故に返事になどさして興味はないのか、そのどちらかだろう。
滅多に彼女が不機嫌になることはない。あるとすれば苦手なグリンピースを添えたチャーハンが机に差し出された時くらいだろう。そんなカナタが不機嫌になるとは、一体何が心から気に入らなかったのだろうか。
答えはカナタが自ら述べた。
「私、この本が嫌い」
端的で、率直で、素直な、悪評だった。
「何て言うのかな。内容がつまらない。世界と描写が綺麗すぎて、とてもこの世と同じとは思えない。交わりそうで交わらない、まるで別世界の物語みたいだった」
一言一言が心に刺さっていく。
茫然自失とばかりに固まるしかない僕に構わずに、カナタは『キミと』の汚点について淡々と語り続けた。
「聞く限り同じ高校生が書いたらしいけど、やっぱり高校生だなって思うよ。葛藤がないから、泣ける場面で泣けないって感じ。それに文章や文法も幼稚な感じがするしね。読みやすいんだけど、それだけ。それ以上は何も感じられなかったなあ。だから私はあまり好きじゃない」
何より。
「上手く言葉にできないけど、この物語自体が腹立たしい」
最後にそう付け加えると、カナタは乱暴にその本を鞄に戻した。そんな彼女を尻目に、僕は黙ってその言葉を反芻させる。何も言い返せない。それはすべて事実だからだ。文章構成能力もなければ、人に何かを訴えるテーマもない。文字通り、ただの妄想小説。
腹立たしい。
彼女はそう言った。ここまで言うということは、恐らく夢にこの物語の内容が出てきたのだろう。穢れの無い世界。優しい人々。誰にも欠点が無く、誰にでも優しい世界。カナタはそれが気に入らなかったのだ。
彼女のために綴った筈の物語は、彼女を苦しめるだけの綺麗で残酷な世界でしかなかった。
なんてこった。僕は自惚れていただけだった。大賞を受賞したから。みんなが読んでいたから。ただそれだけの理由で自惚れていた。感動作だなんだともてはやされ、もしかしたらカナタもこの小説を読んで感動してくれるかもしれないと。何かに気付いてくれるかもしれないと。好きだという気持ちが伝わるかもしれないと。しかし、カナタに言われて思い知る。最初から僕に才能なんて無かった。好きな女の子に「好きだ」という言葉すらも届けることができない、凡人以下でしかなかった。
「どうしたの、けーちゃん」とカナタが首を傾げる。「もしかして、あの本のこと好きだった? だったら、好き勝手言ってごめん」
ようやく僕の情けない表情に気が付いたのだろう。カナタが申し訳なさそうに、か細く呟く。
「いや、違う違う」と僕は慌ててそれを否定した。「そうだよな。あんなの、妄想だらけの綺麗な世界だ。もっと世の中を知らないと。ほんと、なんで大賞なんかに受賞したのかな。分かんねえや」
自虐的に言う自分の言葉さえも胸に刺さる。
僕が筆を執った理由。それはただ、隣に座る彼女に伝えたい気持ちがあったからだ。こんなくそったれな世界でも、頑張れば二人でやって行ける。こんな世界を迎えられるかもしれない。そんな可能性を提示し、示唆したかったから、僕は『キミと』を描いたのだ。僕とカナタの間にある溝は話し合いなんかでは到底埋まらない。埋めるためには過去を遡るしか手立てはない。が、そんなこと当然不可能だ。なら、カナタと僕が救われる世界を作ればいい。小説はパラレルワールドだ。こんな選択肢もあるんだと、世界は辛いだけではないと、『キミと』で伝えたかった。
……腹立たしい。
でもカナタは毒を吐いただけだった。僕が勝手に創り上げた妄想の産物のように、永遠に綺麗で、誰もが優しく、誰もが幸せな世界など、どこを探しても在る訳が無い。在るのはただ、感情に振り回されて他人と同調し、決別し、瓦解する世界だけ。本当の世界は単純で、残酷だ。
だから受賞なんてしてほしくなかったんだ。物語なんて綴らなければよかった。気持ちを全面に込めなければよかった。空回りする気持ちに還る場所なんてなくて、情けなくて、虚しくて、絶望するだけだったのに。
……。
でも。
変えたかったのも事実だ。曖昧な関係を、曖昧な過去を、変える手段をずっと探していた。それは簡単には見付からなくて、見付かったとしてもイバラの道だ。克己たる決意がなければ成し遂げられないかもしれない。
空気が、視線が、存在が、全てが重くて堪らなかった中学三年生の冬。ふと立ち寄った書店で見付けた文芸雑誌。手に取った瞬間、これだと思った。緑がよく似合うあの場所から全てをやり直し、カナタに気持ちを伝えるにはこれしかない。当時の僕は、直感的にそう思い込み、信じた。
今だって信じている。
想いを伝えるにはこれしかない。小説しか僕には伝える技術がない。ただ僕は、一回目の好機をしくじったにすぎない。カナタだって言っていたじゃないか、優しい世界なんて無いと。ならば何度だって繰り返そう。ただ遊びのためだけに、僕は文字を連ねた訳ではない。
程なくして電車はようやく目的地に辿り着く。二人して駅のホームに降りると、無言のまま揃って改札を出た。本来ならば、このままカナタと一緒に途中まで並んで徒歩で帰宅するのだが、今日ばかりは焦る気持ちが異常に勝り、僕は制服のポケットに入ったままの携帯をぎゅっと握り締めた。
「ごめん、カナタ」僕は機嫌が直ったらしい彼女に振り返る。「ちょっと用事を思い出したから、先に帰るな」
「え、用事って?」
案の定訝しく思ったのか、小首を傾げるカナタ。
すぐに言い訳が出てこず、無言で見詰め合う内に口から洩れた息が白く染まり、闇夜に溶けていく。
僕は彼女の頭を左手で撫でる。
「秘密だ」
そう言うなり踵を返し、人気の無い歩道を一気に駆け出した。訳が分からず呆然とするカナタは、このような寒空の下、阿呆のように駆け出そうとは思わない常識人らしく、あとを追ってくるようなことはなかった。
幾つ目か分からない外灯の下を通り過ぎた辺りで携帯を開き、電話帳からある人物の名を引っ張り出し、電話を掛ける。仕事中だろうかと懸念したが、杞憂だった。相手はたったのワンコールで通話に応じる。
「はいはい、こちら草風社編集部の春見と申します」
出たのは勿論春見さんだ。
「春見さんですか? 僕です。宮城圭です」
夜道を駆け抜けながら、僕は告げた。
「あら、宮城くんじゃない。よかった。最近全然電話に応じてくれなくて、滅茶苦茶寂しかったんだからね!」と春見さんは仕事中だろうにも関わらず公私をわきまえない応対をする。「ところで、どしたの? 息荒いけど、何、走ってるの?」
「それは今どうでもいいです!」
「いや、私の編集者歴で駆け出しながら電話してきたのは宮城くんが初めてよ」
「ありがとうございますっ」
何がだ。思わず自分で突っ込んでしまった。
しかし、僕だって何故自分が走っているのか分からない。立ち止まって、ゆっくりと事情を話せばいいじゃないか。そう思いつつも、内側から溢れるエネルギーを溜め込むなんて、そんな無駄なことはしたくなかった。
息を吸い込み、僕は声を大にして言ってやった。
「次回作の打ち合わせをしてください!」
想いが届かない物語なんて綴りたくなかった。でも何もしなければ何も届かない。ならば届くまで何度だって物語を紡いでやろう。
十二月一日、僕はそう決意した。