ガンジュ編 end
「キーゼルは、私のところに来てすぐ一緒になろうって言ってくれたの。順番は逆になっちゃったけど、もともとそのつもりでいたから、とても自然なことだわ」
これから、どちらの村に住むかはこれから決めるらしい。どちらの村も山のふもとにあり、山神信仰のあつい村だ。レイバンはどちらの村にいても、きっと環境が変わることはないだろうと思う。
「予想外に、子供が一人増えちゃったけど。かわいい天使を私たちにつれてきてくれて、本当にありがとう」
「そんな、あたしはなにも」
「ターニャちゃんがいてくれなかったら、私はこの子たちを無事に産めるかわからなかったから」
二人から深々と頭を下げられて、あたしはうろたえて顔を上げさせる。そんな様子を見て、ミルダが微笑んでいるのが分かる。彼のそんな表情を見ることもまためったになくて、不思議に思っているとミルダがレイバンに手を伸ばした。
なんのためらいもなく、彼はレイバンを抱き上げる。そして、慣れたようにあやしはじめる。赤ん坊を見つめるその空色の瞳がとても優しくて、あたしも自然と口元に笑みが浮かんだ。
「これから大変だと思いますが、がんばってください」
月並みなことしか言えない自分がなんだか情けなくて、あたしは思わず苦笑してしまった。
それから数日滞在して、あたしたちは村を後にした。
ハンナさんの両親に、レイバンのことはなにも話さなかった。双子のことを知っているのは、ハンナさんとキーゼルさん、ふたりだけ。それでいいのだと、ミルダが言った。
「結局、主に挨拶しなかったけど、いいの?」
「いいんだ。きっと主も、山から耳をそばだてて村の様子を聞いていたはずだから。俺たちが報告しに行かなくても全部知ってるだろうし、わざわざ戻って挨拶に行く必要はないよ」
「でも、それはちょっと寂しい……」
「もし山に戻ったら、寂しくなった主がターニャを山から出してくれないかもしれないぞ?」
「そんなことないもん!」
思わず声を大きくするあたしに、ミルダが「冗談だよ」と呟く。そしてかるくため息をついて、空を仰いだ。
「本来、主ってのは孤高な生き物なんだよ。山を統べるからこそ、多くのものと深く触れ合わない。すべてのものに均等に気を配るからこそ、山の平穏を保つことができている」
だからこそ、今回のことは主の中でとても大きな出来事になったのだろうと、彼は言った。
「自分の寿命を悟って、子どもをつくってすべての知識を教え込もうとして、そこにハンナさんという人間がやってきた。そうしたら子供がその人間に興味を示してしまい、俺たち魔術師の力に頼らざるを得ない状態になってしまった。長い時間をひとりで過ごしてきた主にとって、とても賑やかな時間になっただろうな」
「……?」
ミルダが何を言いたいかわからなくて、あたしは首をかしげる。そんな様子を見て、彼はくくっとのどの奥で笑った。
「ようするに、急に一人の生活に戻って、主も寂しくなっちゃうってことだよ。そこにわざわざ戻ってさよならって挨拶に行って、よけい寂しい思いさせるのは悪いだろ?」
「そんなこと……」
ない、と言いたい。でも、実のところ、寂しいのはあたしのほうだった。
「だって、主にはもう会えない気がするから」
寿命を感じて次の山の主を育てていたということは、主の命も残りわずかだということだ。旅を続けて、あたしたちはこの山に戻ってくるかなんてわからない。もし戻ってこれても、もう主はいなくなってしまっているかもしれない。
「それはどうかな?」
「え?」
「俺たち人間と、理獣とじゃ命の長さなんて全然違うんだよ。寿命寿命っていったって、俺たちが死ぬよりうんと先の話かもしれないぞ」
ただでさえ、地獣は寿命が長く、長寿の獣としてもあがめられている。そのことを思い出して、あたしはしぶしぶながらもうなずいた。
「ま、この旅もどうなるかわかんないしさ。そのうち引き返してまた山を越えないといけなくなるかもしれないし。ターニャが寂しがるほどのことでもないさ」
ずばりとあたしの心を言い当てて、ミルダは意地悪そうに唇をゆがめる。そして、乱暴に頭を撫でて見上げるあたしをなぐさめてくれた。
そのなぐさめに、あたしは素直に甘えることにする。もう一度こくりとうなずくと、ミルダもまた、満足そうにうなずいた。
あたしたちの旅は、ひとつのところに長くとどまれない。だからこそ、たくさんの思い出を増やしながら、次へとすすんでいく。もうそれには慣れてきたけれど、でもやっぱり一つの町や村を去るときはさみしいと思ってしまう心があった。
「そういえば今回、異常化が起きることはなかったね?」
ハンナさんの村に長く滞在したおかげで、久しぶりに背負った荷物が背中に重い。でもその中にある古い魔術書に、今回あたしはとてもお世話になったのだった。
いつものなら道行く先々で、異常化に出会うことがある。なのに今回は、特に大きなそれに遭うことはなかった。それ以上のことがあったから、逆に異常化が発生してさらに大きな騒ぎにならなくてよかったとしみじみ思ってしまう自分がいる。
「それだけ、山神が守っていてくれたってことだな」
あたしよりも大きな荷物を背負いながら、ミルダは軽々と歩く。今までの険しい山道と違って、これから続く道は平坦で歩きやすい。この道がどこに続いているのか知っているのはミルダだけで、あたしはおとなしく彼の隣を歩いた。
ミルダが、隣にいる。そのことに、あたしは心の中でそっと安堵していた。
ここしばらく、ずっとミルダの様子がおかしかった。一人でなにかふさぎ込んで、あたしを遠ざけていたように思う。
だから山であんなことになって、あたしはとても不安だった。
もしこのまま、ミルダがあたしを置いて行ってしまったらどうしよう。そう思ってしまうほどに、ミルダとの間に見えない何かができてしまっていたように思う。
でもその溝も、いつの間にか埋まっていた。
ミルダもまた、あたしのことを必要としてくれているのだと、少しだけ感じることができた。それがたまらなくうれしかった。
ひとりで二歩も三歩も先を歩いてしまっていたミルダが、ちゃんとあたしの隣を歩いていてくれる。緑の香が、とても近くであたしを包み込んでくれる。
彼の中でなにか心の変化があったのだと思う。でも、きっとそれを話してくれることはないと思う。
「きっとまた、これから先、異常化がたくさん起きてるんだろうね?」
「もっと数も増えてると思うし、ターニャも頑張れよ。今回ので、だいぶ修行になっただろ?」
「あれは……無我夢中だったからじつはあんまりおぼえてない」
「言うと思った。ターニャはいつも、そうやって火事場の馬鹿力ばっかりだもんな」
そしていつもの憎まれ口をたたきながら、肩をすくめる。それにほほを膨らませるあたしに、ミルダが笑う。こんなに自然に話したのは久しぶりだった。
空色の瞳が、あたしをちゃんと見てくれている。
そこにもう、翳りはない。
それがうれしくて、でも気づかれたくなくて。あたしはわざと、彼の数歩前を歩いた。