ガンジュ編 21
〇〇〇
こんこんと眠り続けるあたしのそばに、緑の香がずっとよりそってくれていた。
眠りが浅くなると、誰かがかいがいしくあたしの世話をしてくれているのがわかる。額に手をあて、寝汗を拭いてくれる。そっと手を握ってくれたりもする。そのたびにあの森の中にいるような香りに包まれて、安心してあたしは再び深い眠りに落ちることができる。
深い森に抱かれているような、そんなやわらかな眠り。いつもあたしのそばにいてくれる、空色の瞳をした彼の香り。
「――ターニャ。起きないのか?」
その声にいざなわれるように、あたしは瞼を開いた。
「……ん?」
寝起きでもうろうとした頭のまま、あたしは間近に覗き込んでくるミルダを見つめる。今にも鼻があたりそうな、息のかかる距離で、彼はあたしの額に手を乗せていた。
「熱は下がったか?」
「……熱?」
「頑張りすぎたんだろうな、ちょっと熱があったんだ」
でも、下がった。手を離しながら、ミルダがにっこりとほほ笑む。彼の穏やかな笑みが珍しくて、あたしはまだ頭がもうとうとしているふりをしてじっと見つめた。
「起きれるか?」
「だいじょうぶ」
ミルダに支えてもらいながら、あたしはベッドの上で身体を起こす。いったいここはどこだろうと見回していると、「ハンナさんの家だよ」とミルダが教えてくれた。
いつの間にか、あの泥だらけの服から寝間着へと着替えさせられていた。いったい誰がやってくれたのか、聞こうとしてやめた。身体も拭いてもらったのかすっきりしていて、それをしてくれたのがミルダだとしたらまともに彼の顔を見れそうにない。
「ターニャが起きたら食べれるようにって、ご飯作ってくれてるんだ。おかゆがいいか?」
「普通のごはんで大丈夫」
「じゃあ下に降りよう」
ベッドから降りようとすると、身体が少しふらついた。熱があってだるいというより、寝すぎてなまっているといったほうがいい。いったいどれくらい眠っていたのか、さっぱりわからなかった。
よろめいて再びベッドに座ってしまうあたしを見て、ミルダが手を貸してくれる。あたしが眠っている間にお風呂に入ったのか、汚れて黒ずんでいた金色の髪がまた輝きを取り戻していた。着替えも借りたのか、普段の旅用の装備ではなく軽い部屋着を着ている。ただし、サイズが合わないのか足首が丸見えだった。
「……お風呂に、入りたい」
つないだ手のひらから、自分がいかに汗でべとついているのかを思い知らされる。髪も砂が絡んでいてぎしぎしする。いくら身体を拭いてもらったとはいえ、無駄に伸ばしている髪だけはどうしようもなかった。
「風呂の準備もしてくれてるから」
「……はいっていいの?」
「奥さんがいろいろ用意してくれてるんだ。俺が着替えさせようとしたら、すっごい怒られて部屋から追い出された……」
奥さん、ありがとう。心の中であたしはそう叫ぶ。ミルダは不満げに唇を尖らせていたけれど、奥さんからかなりきつく言われたらしくすこししょんぼりとしていた。
「風呂入って、腹ごしらえしたら、ハンナさんたちに会いに行こう。子ども、かわいかったぞ」
「もう会ったの?」
「ターニャの事後処理をしたんだよ」
「事後処理……?」
意味が分からず首をかしげるあたしに、ミルダはゆるくかぶりをふって呟いた。
「泣き声はひとりぶんだけだ」
久しぶりにあたたかいお風呂に入って身体の汚れを落としたあたしは、ハンナさんの服を借りてミルダとともにアジェイルさんのもとへと向かった。
道すがら、ミルダがあたしが眠っていた時のことを教えてくれる。お産が終わったあと、あたしは意識を失ってそのまま三日も眠り続けていたというのだから自分でも驚きだった。
そしてその間にハンナさんの恋人であり、子供たちの父親が村に着いたらしい。子どもとの対面を無事に済ませ、二人はあらためて夫婦になることを決めたそうだ。
ハンナさんは突然山で姿を消してしまったから、彼は子供がいたことなどすべて恋人が見つかったという報せとともに知ったはずだ。大急ぎで山を越えて、たどり着いたとき、彼はすでに自分がこれからどうするべきかをしっかりと決めていたに違いない。
「子供のことは、なにか言ってた?」
「不思議そうな顔はしてたけど、俺が説明したら二人とも納得してくれたよ」
「そう、よかった……」
本当なら最後まであたしがやらなければならないことだった。それができなくて、少し悔しい。けれどちゃんとミルダが引き継いでいてくれたことに、心の底から安堵した。
「俺は山にいるときもお産の時も何もできなかったからな。少しは役に立たないと」
そんなことを言うミルダを、あたしははじめて見た。思わずまじまじと見つめてしまうと、彼は照れ臭そうにそっぽを向いてたどり着いた助産院の扉を開いた。
「アジェイルさん、ミルダです。入ってもいいですか?」
ハンナさんはまだ、助産院にいる。産後一週間ほどはここでアジェイルさんのお世話になるらしい。ミルダは玄関から声をかけてアジェイルさんが出てくるのを待っていた。
「……入っちゃだめなの?」
「いちおう、聞いたほうがいいかなと思って」
どうやらミルダは助産院に壁を感じているらしい。でもお産の時も中に入れたのだしいいのでは、とあたしは思うのだけど、ミルダはこういうところが頑固だった。
「……あ、魔術師さん」
そんなあたしたちを、助産院の奥から出てきた男性が見つけてくれた。
「来てくれたんですね」
そう頭を下げてくる、ミルダと同じくらいの年ごろの男性。彼がハンナさんの恋人だと、ミルダとのやりとりであたしはすぐにわかった。
「ターニャが目を覚ましたので、連れてきました」
「じゃあ、この子がお産に立ち会ってくれた魔術師さんですね」
ミルダに負けず背の高い彼は、愛嬌のある八重歯をのぞかせてにこりと笑った。短く切った黒髪が精悍な印象を与える、けれど話せば優しさが伝わってくる人だった。「キーゼルです」と差し出してくれた手と、あたしは握手をする。
「魔術でハンナを助けてくれたと聞きました。本当に、ありがとうございました」
「いえ、あたしも無我夢中で……」
その吸い込まれそうになる琥珀色の瞳に見つめられて、あたしはほほが赤くなってしまうのを感じる。そんな様子を見てミルダが肩をすくめ、あたしの頭を軽く小突いた。
「ハンナさんの調子はどうですか?」
「良好です。子どもたちも元気ですよ」
「それはよかった。会いに行っても大丈夫ですか?」
「それはもちろん」
にっこりと人のいい笑みを浮かべるキーゼルさんにつれられて、あたしたちはハンナさんのいる部屋に入った。どうやら、子供の父親である男性なら、出入りに関してはうるさく言われていないようだった。