表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
96/99

ガンジュ編 20

「ハンナ、もうすぐ頭が出てくるからね。次の陣痛が来たら力いっぱいいきみなさい」

「……はい」

 その二人の会話が、どこか遠くで聞こえてくるようだ。あたしは彼女のお腹にあてた手から、お腹の中の子供が移動していくのを感じていた。

 そして、その中にいるもうひとつの姿が、手のひらの中であたしにうったえかけてくる。声は聞こえないけれど、手のひらの向こうにいるのがわかる。かすかに動きながら、あたしに呼びかけてくる。

 大丈夫。やってみせる。そう、手のひらのむこうがわに語りかける。

 いつの間にかあたしの口からは、不思議な言葉が漏れ始めていた。

 それは、あたしの知らない言葉だった。

「――うぅっ」

「頑張りなさい、ハンナ! 子供もいま頑張ってるんだよ!」

 あたしの声が、二人には届いていないらしい。お産がどんどんすすんでいく。あたしは目を閉じ、口から自然とつむがれていく言葉に耳をすませた。



「――ハンナ、男の子だよ!」

 元気な産声とともに、アジェイルさんが声をあげた。

「おとこのこ……」

 荒い呼吸を繰り返しながら、ハンナさんが呟く。その頬は赤く上気し、大きな仕事を終えて嬉しそうに細められていた。

 アジェイルさんの腕に抱かれた産まれたばかりの赤ん坊は、しわしわの顔をして大きな産声をあげ続ける。はじめはうっ血したような肌の色をしていたけれど、お湯で綺麗にしてもらうと鮮やかな肌の色に変わっていった。

 清潔なタオルにくるまれ、腕に抱かれようとするのを、あたしは申し訳ないと思いながらもさえぎった。

「もうひとり、います」

「……え?」

 あたしの言葉に、アジェイルさんがいぶかしげに眉をひそめる。信じられなくて当然だと思いながらも、あたしはもう一度繰り返した。

「もうひとり、お腹の中にいます」

「そんなはず……」

「いるわ、もうひとり」

 アジェイルさんの否定を、最後まで言わせなかったのはハンナさんだった。

「もうひとり、いるの。だから私、もう一度頑張るわ」

 きっとハンナさんも、そんなこと思ってもみなかったと思う。けれどあたしの言葉を信じて、そしてお腹の中にいる存在を知っているからこそ、もうひとりの存在を認めてくれた。

「アジェイルさん、もうひとりもちゃんと、とりあげてね」

「ハンナ……」

 そして再び、ハンナさんに陣痛が訪れる。衰弱が激しく、いきむ力も弱弱しい彼女のために、あたしは魔術を再開した。

「ハンナさん、がんばって」

 そして、お腹の地獣も頑張って。

 念を込めながら、あたしは魔術書の言葉をよみあげる。今度は二人にもその声が届くのか、アジェイルさんが驚いたように顔をあげた。

「この歌は……」

 歌。たしかに、これは歌のように聞こえるかもしれない。でも、あたしが普段使う子守唄とはまったく違うものだった。

 どこか神々しさを思わせる、詠唱だ。雨乞いや豊穣の願いを込めて、髪に祈る祝詞に似ている。いまあたしがしようとしていることは、たしかに山の神様のお許しを得ないとできないことだ。

 手のひらをあてたハンナさんのお腹が、まるく膨らみ白く光る。苦痛に顔をゆがめる彼女の額の汗を、アジェイルさんがふいてくれた。

 緑の香が、部屋いっぱいにたちこめる。このミルダの香りは、人の心を落ち着けてくれる。ハンナさんの苦悶の表情も、呼吸を繰り返すごとに少しずつやわらいでいった。

「……ハンナ、頭が見えてきたよ」

 戸惑いながらも、アジェイルさんはちゃんと子供を受け止めようとしてくれる。先ほどよりもうんと早いペースで産まれてこようとする赤ん坊に、あたしは目を閉じて祈った。

 どうか、無事でありますように。

 大きな痛みの波がきて、ハンナさんがこらえきれず声をあげる。

 その声とともに、彼女の身体が白い光に包まれた。



「……ミルダ」

 あたしが部屋の扉を開くと、床に座り込んでいたミルダが顔をあげた。

「無事に、終わったか?」

「うん」

「頑張ったな」

「頑張ったのはハンナさんだよ」

 立ち上がったミルダが、そっと頭を撫でてくれる。その大きな手のひらのあたたかさに、あたしは身体の力が抜けていくのを感じた。

「……ごめん、ミルダ。眠い」

「いいよ。ゆっくり休みな」

 ミルダに身体を預け、あたしはそのまま意識を失った。


 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ