ガンジュ編 20
「ハンナ、もうすぐ頭が出てくるからね。次の陣痛が来たら力いっぱいいきみなさい」
「……はい」
その二人の会話が、どこか遠くで聞こえてくるようだ。あたしは彼女のお腹にあてた手から、お腹の中の子供が移動していくのを感じていた。
そして、その中にいるもうひとつの姿が、手のひらの中であたしにうったえかけてくる。声は聞こえないけれど、手のひらの向こうにいるのがわかる。かすかに動きながら、あたしに呼びかけてくる。
大丈夫。やってみせる。そう、手のひらのむこうがわに語りかける。
いつの間にかあたしの口からは、不思議な言葉が漏れ始めていた。
それは、あたしの知らない言葉だった。
「――うぅっ」
「頑張りなさい、ハンナ! 子供もいま頑張ってるんだよ!」
あたしの声が、二人には届いていないらしい。お産がどんどんすすんでいく。あたしは目を閉じ、口から自然とつむがれていく言葉に耳をすませた。
「――ハンナ、男の子だよ!」
元気な産声とともに、アジェイルさんが声をあげた。
「おとこのこ……」
荒い呼吸を繰り返しながら、ハンナさんが呟く。その頬は赤く上気し、大きな仕事を終えて嬉しそうに細められていた。
アジェイルさんの腕に抱かれた産まれたばかりの赤ん坊は、しわしわの顔をして大きな産声をあげ続ける。はじめはうっ血したような肌の色をしていたけれど、お湯で綺麗にしてもらうと鮮やかな肌の色に変わっていった。
清潔なタオルにくるまれ、腕に抱かれようとするのを、あたしは申し訳ないと思いながらもさえぎった。
「もうひとり、います」
「……え?」
あたしの言葉に、アジェイルさんがいぶかしげに眉をひそめる。信じられなくて当然だと思いながらも、あたしはもう一度繰り返した。
「もうひとり、お腹の中にいます」
「そんなはず……」
「いるわ、もうひとり」
アジェイルさんの否定を、最後まで言わせなかったのはハンナさんだった。
「もうひとり、いるの。だから私、もう一度頑張るわ」
きっとハンナさんも、そんなこと思ってもみなかったと思う。けれどあたしの言葉を信じて、そしてお腹の中にいる存在を知っているからこそ、もうひとりの存在を認めてくれた。
「アジェイルさん、もうひとりもちゃんと、とりあげてね」
「ハンナ……」
そして再び、ハンナさんに陣痛が訪れる。衰弱が激しく、いきむ力も弱弱しい彼女のために、あたしは魔術を再開した。
「ハンナさん、がんばって」
そして、お腹の地獣も頑張って。
念を込めながら、あたしは魔術書の言葉をよみあげる。今度は二人にもその声が届くのか、アジェイルさんが驚いたように顔をあげた。
「この歌は……」
歌。たしかに、これは歌のように聞こえるかもしれない。でも、あたしが普段使う子守唄とはまったく違うものだった。
どこか神々しさを思わせる、詠唱だ。雨乞いや豊穣の願いを込めて、髪に祈る祝詞に似ている。いまあたしがしようとしていることは、たしかに山の神様のお許しを得ないとできないことだ。
手のひらをあてたハンナさんのお腹が、まるく膨らみ白く光る。苦痛に顔をゆがめる彼女の額の汗を、アジェイルさんがふいてくれた。
緑の香が、部屋いっぱいにたちこめる。このミルダの香りは、人の心を落ち着けてくれる。ハンナさんの苦悶の表情も、呼吸を繰り返すごとに少しずつやわらいでいった。
「……ハンナ、頭が見えてきたよ」
戸惑いながらも、アジェイルさんはちゃんと子供を受け止めようとしてくれる。先ほどよりもうんと早いペースで産まれてこようとする赤ん坊に、あたしは目を閉じて祈った。
どうか、無事でありますように。
大きな痛みの波がきて、ハンナさんがこらえきれず声をあげる。
その声とともに、彼女の身体が白い光に包まれた。
「……ミルダ」
あたしが部屋の扉を開くと、床に座り込んでいたミルダが顔をあげた。
「無事に、終わったか?」
「うん」
「頑張ったな」
「頑張ったのはハンナさんだよ」
立ち上がったミルダが、そっと頭を撫でてくれる。その大きな手のひらのあたたかさに、あたしは身体の力が抜けていくのを感じた。
「……ごめん、ミルダ。眠い」
「いいよ。ゆっくり休みな」
ミルダに身体を預け、あたしはそのまま意識を失った。