ガンジュ編 19
あたしにではきない。思わずそう言ってしまいそうになって、口をつぐんだ。ミルダを呼ぼうかとも思ったけれど、自分もこの部屋の空気が、男の人を入れてはいけないと思った。
“あまり時間がかかると、ハンナの身体に負担がかかるから。急いで!”
きっと負担がかかっているのは、地獣とお腹の中の子供もだろう。これは普通のお産ではない。なにかあれば、母子とも命の危険にさらされてしまう。
どうしたらいい。再び早くなる鼓動を抑えようと、胸に手をあてて、あたしは自分がしっかりと抱きしめていた魔術書のことを思い出した。
「マテリオの、魔術書……」
その魔術書は、魔術師だったあたしの母が持っていたものだった。故郷の村を出るときに、一緒に持ってきたその教科書は、あたしにも読める簡単な魔術から、ミルダでも読むのに苦労する難しい専門の魔術用語まで書かれていた。
魔術書を床に置いて、あたしは表紙に手を乗せる。魔術書があるとわかっても、どこを見たらいいかなんてさっぱりわからない。いつもの子守唄が役に立たないことだけはわかっているし、ミルダが持たせてくれたこの本にきっと答えがあるのだろうと思った。
指先にすこし、力をこめて。魔力をこめた手で、表紙を開く。すると風もないのに、ページが自然とめくれていった。
“どうか、ハンナと子供を守ってください”
さらさらとめくれるページに、地獣が話しかける。ハンナさんは目をつぶったまま、体力を温存するためにおとなしくしていた。
「……止まった」
開かれたそのページを見ても、あたしにはなんと書いているのかさっぱりわからなかった。
けれどいま自分に必要なのは、この術に違いない。古代の魔術文字で綴られたその呪文に手を乗せ、あたしは神経を集中させる。
身にまとったローブから、ミルダの香りが立ち上ってくる。その緑の香を吸い、気持ちを落ち着けながら、あたしは呪文を目ではなく肌で感じようと思った。
“――だめだ、もう時間がない”
地獣の声は、それきり途絶えてしまった。
「ターニャさん。私、もう……」
再び陣痛がきたのか、ハンナさんが苦しげに声をあげる。痛みの間隔がとても早い。あたしは魔術書に手を乗せたまま、声をあげた。
「話は終わりました! 来てください!」
蝶番が外れてしまいそうな勢いで、再びドアが開き、アジェイルさんが入ってくる。奥さんは入ってこなかった。お産のときは母親であれ立ち入り禁止なのかもしれない。
「あたしはこのままここにいさせてください」
「邪魔だけはするんじゃないよ」
布団の上にハンナさんを座りなおさせ、アジェイルさんが内診をする。その間にあたしはハンナさんの後ろにまわり、彼女を抱きしめるようなかたちでお腹に腕をまわした。
あたしのしたことにハンナさんはとまどったようだけど、お腹に当てた手と魔術書で察してくれたのか、抵抗はしなかった。
「なんだいその汚い本は」
「これからあたしは魔術を使います。この本が必要なんです」
「魔術を……?」
「ハンナさんと子供のためです」
はっきりと、そう言い放ったあたしを見て、アジェイルさんが目を丸くする。彼女がお産のために全力を尽くすように、あたしも魔術師としての全力を尽くしたい。助けを求める地獣に、救いの手をさしのべたい。
ハンナさんにつられるように、あたしの身体もじっとりと汗が浮かんでくる。身体の奥から魔力を搾り出し始めたあたしの顔は、とても真剣なものに見えるだろう。アジェイルさんを見つめると、彼女はあたしのまなざしにひるんだように瞳を揺らした。
「……わかったよ。好きにしなさい」
静かに呟き、アジェイルさんは目をそらしてハンナさんを見た。あたしが着ている汚れた不衛生なローブのことにも、もう文句もなにも言わなかった。
「ハンナ、もう少しだ。頑張るんだよ」
「……うん」
額に汗を浮かべてうなずくハンナさんに、あたしもうなずきかえす。そして大きく深呼吸をし、意識を魔術書に集中させた。
魔術書に、自分の魔力を注ぎ込む。息を吸って、吐く呼吸とともに魔術書に力を送る。自然と身体に力が入り、身体が熱くなり汗が胸を伝うのを感じた。
それに呼応するかのように、ローブから緑の香が薫る。あたしの体温で温まって浮き上がるその緑の香が、はやる気持ちを落ち着けてくれる。
そして、あたしに魔力を分けてくれる。