ガンジュ編 17
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この村には一人だけ、産婆がいる。奥さんがそうあたしたちに教えてくれた。
村の子供たちはほとんどが、その女性にとりあげてもらったらしい。熟年の腕を持つ産婆――アジェイルさんは、あたしたちの到着を今か今かと待ち構えていた。
「アジェイルさん、魔術師さんをお連れしました!」
「遅い!」
御年八十はゆうに超えているかもしれない。しわしわの顔にさらに眉間の縦じわを加えて、アジェイルさんはそう叫んだ。
光の加減で銀色にも見える白髪をひとつにまとめ、「早く来なさい!」と言う声にはとてもはりがある。小柄ながらも、その背中は曲がることなくしゃんと伸ばされていた。
「あんたたち、名前は」
「ミルダです」
「ターニャです」
家の中へと招かれ、足早に奥へと案内される。一見他の家のように普通のつくりだとおもっていたけれど、中に入ればそこはまるで小さな宿のように、宿泊用の部屋がいくつか用意されていた。宿ではなく、きっとここが出産用の部屋なのだろう。
「魔術師ってのは男だったのかい……」
苦々しげに、アジェイルさんが呟く。普段のミルダならこの言葉にきっとなにか言い返していただろうけど、この状況ではそう言われてもしかたなかった。
「僕は中に入れませんか」
「わたしはあまり入れたくない」
「ではターニャだけ連れて行ってください。僕は外で待っています」
「えっ」
あたしを無視して話が進むうちに、アジェイルさんが突き当たりの部屋で立ち止まる。扉の向こうからは悲鳴にも似た声が聞こえてきて、それは陣痛に耐えるハンナさんの声だった。
「ターニャは魔術師なのかい?」
「僕の弟子です。でも、ちゃんと修行を積んでいるので大丈夫です」
「ちょっと、勝手に進めないでよ」
あたしたちがもめている間に、奥さんが部屋の中に入っていく。少しだけ開いた扉からは、ハンナさんの悲鳴とともに熱気が流れてきた。
「ハンナさんが呼んでるのはミルダのことじゃないの? 山で一緒にいたのはミルダでしょ?」
「赤ん坊の父親でもない男が、お産に立ち会うのは良くないと思う。ターニャが行ってくれ」
「そんな……」
てっきりミルダも一緒だと思っていたのに。内輪揉めをはじめるあたしたちを見て、アジェイルさんはいらだたしげに唇をゆがめる。時間がないと、空気でわかった。
たしかに、みんなが言っていることはわかる。自分がもしハンナさんやアジェイルさんの立場だったら、ミルダがお産の部屋に入ってくるのは良いと思えない。
それでもしぶってしまうのは、あたしに自信がないからだった。いつもミルダと一緒にいて、色々教えてもらいながら自分で挑戦していた。突然ひとりで、こんなに緊張感に満ちている空気の中に飛び込んでいけと言われても勇気が出ない。
尻込みしてしまうあたしの肩に、ミルダがそっと手を乗せた。
「行ってくれ、ターニャ。いま俺は、自分が男であることが悔しい」
「ミルダ……」
真一文字にひきしめられた唇が、彼の気持ちをあらわしているに違いない。まっすぐに見つめてくる空色の瞳の強さに、あたしはうながされるようにうなずいていた。
「部屋の前で待ってるから。なにかあったら扉越しに話せばいい」
「わかった」
「あと、これを着ていけ」
深緑のローブを脱ぎ、ミルダはあたしに羽織らせる。泥だらけで汚いそれを見てアジェイルさんは抗議しようと口を開いたけど、「お願いします」とミルダに言われてしぶしぶ唇を閉じた。
「あと、これも」
同じく泥だらけの鞄から取り出したのは、色あせてあちこち擦り切れたぶ厚い本。それはミルダが肌身離さず持ち歩く、あたしたち魔術師の教科書だった。
「マテリオの魔術書……?」
「必要なことが書いてあるかもしれない。持っていけ」
「わかった」
ミルダのぬくもりの残るローブのボタンを留め、あたしは魔術書を強く胸に抱いた。
一時は静かになったハンナさんの声が、再び聞こえ始める。痺れを切らしたアジェイルさんが「早く行くよ」とあたしの腕を引いた。