ガンジュ編 16
地獣の息子が彼女のお腹にいることは、話すべきだろうか。あたしが迷っていると、ミルダがそれをさえぎった。
「山神様は、ハンナさんの子供が村のみなさんに恐れられるのではと心配していました。だからこそ、僕たちが一緒に山を降りて、話をするようにと言ったのです」
「それは、落ち着いてから私が村のみなに話します。この村ではハンナのように不思議なことが多くありますので、きっと大丈夫だとは思いますが」
あたしたちの話を聞いて、ゼルマルさんはきっと半信半疑になると思っていたのに。彼はにこりと笑ってみせた。
拍子抜けするほど、あっさりと受け入れられたように思う。それほどに、この山では不思議なことが起きているようだった。
「山神様は私たちのことをいつも気にかけてくださっています。おかしなことをするようなかたではありません」
そのどっしりとした、何事にも動じない様子。まるで大木のようだなと思う。
でも、娘のことはやっぱり心配で、しきりに窓の外を気にしていた。
「ハンナさんはいま、どこにいるんですか?」
「村の産婆のところにいます。この村の者はみんな、同じ産婆のもとで産まれます。山神様の加護があったのですから、きっと、無事に産まれることでしょう……」
彼がそう呟いたとたん、あわただしく、部屋の扉が開いた。
「――魔術師さん! 今すぐ来てください!」
ふくよかな身体をした女性が、今にも扉を壊さんばかりに開け放つ。そのブロンドの髪をした女性に、ゼルマルさんが苦々しい声で言った。
「娘の恩人なんだぞ。丁重におもてなししないか」
「その娘のことで走ってきたんですよ!」
そのやりとりで、あたしたちはなんとなく、この女性がハンナさんの母親なんだとわかった。ゼルマルさんの奥さんだからこそ、大木にゆさぶりをかけることもできる。
「魔術師さん、お願いします! 娘のことを助けてください!」
悲鳴にも似たその呼びかけに、あたしたちはソファーから立ち上がった。
「ハンナさんになにか?」
ミルダの声色が変わる。彼女の青ざめた表情につられるように、見る見る顔色まで失っていった。
「娘が、魔術師さんを呼んできて欲しいと言うんです。お腹の子供が呼んでるって」
「お腹の子供が……?」
呟いて、ミルダはあたしの顔を見る。その空色の瞳が言葉なく語りかけてきて、あたしはこくりとうなずいた。
お腹の子供が呼んでいる。それは地獣が呼んでいるに違いない。
きっと彼は、自分の存在を知られないよう気をつけているに違いない。産婆やハンナさんの母に声を聞かれてはいけないと思って、母体にだけ聞こえる声で囁いているのだろう。
「ハンナさんの身体は大丈夫ですか?」
「お産がとても早く進んでいます。普通なら夜まではかかるはずなのですが……娘の様子も変で、うわごとのように誰かと話しているんです」
「誰かと……」
「そして、魔術師さんたちを呼んできて欲しいと。陣痛の痛みで苦しんでうわごとを言う人は多いのですが、娘の様子はどこか変で」
変。きっと、そう言うしかできないのだろう。その『変』こそが、あたしたちの力が求められているときの、魔力のない人たちが感じるものだった。
「すぐに行きましょう」
ミルダが、あたしの手を引く。ゼルマルさんもついてこようとしたけれど、あたしと奥さんのふたりに「ここで待っていてください」と言われ、しょんぼりとソファーに座った。
歩き出した身体が重たくて、あたしは自分がいかに疲れているかを思い知らされる。ミルダも平気な顔しているけど、つまづきそうになるくらい足があがらないことにあたしは気づいている。
けれどあたしたちは歩くのをやめなかった。