ガンジュ編 5
○○○
はっきりと覚えているのはそこまでだ。
『何をとろとろ歩いている。早く来い』
「……はい」
機嫌が悪いことがひしひしと伝わる低い声に、あたしはぼそりと返事をした。
舗装も何もない、獣道ともいいきれない荒れた道。それを人間がすたすた歩けるわけないのに、さっきから何度もせかされている。
『たいして肉付きがいいわけでもないのに、どうしてそんなに動きが鈍い』
「……すいません」
さっきようやく、ブーツの紐をちゃんと結ばせてもらった。これで足取りも楽になったけど、するすると地面を這っていく姿に適うわけがない。
『早くしろ。見失う』
「……はい」
気づかれないようため息をついて、あたしは足どりをはやめた。
あたしは、地獣と歩いていた。
名前を呼ばれ、返事をし、沼に引きずり込まれたのは確かなこと。けれどあたしは溺れることもなく、髪の毛一本濡れていなかった。
沼に顔から落ちたと思ったら、なぜか沼のふちに座っていた。何が起きたんだかさっぱりわからず、呆然としていたら、『おい、娘』と声がかかった。
それが地獣だった。地獣が喋るのはわかっていたからさほど驚かなかったけど、なぜ警戒心の強い地獣がわざわざ出向いてくるのかさっぱりわからなかった。
そして事態を把握し切れていないあたしのすぐそばには、一人の女性がうつぶせに倒れていた。あたしと同じ黒くて長い髪を持っていた彼女は、あたしが声をかける前にはっと目を覚まし、こちらに目をくれることもなく立ち上がりふらふらと歩いていった。
その後ろ姿を目で追ったあたしは、視界がおかしいことに気づいた。あいかわらずもやがたちこめていたけれど、世界が色を失っていたのだ。鮮やかな緑も、かわいらしい花の赤も、すべてが黒や灰色に変わっていた。自分の手のひらも、すべてが、白黒の世界に変わっていた。
女性はそんなことに気づく様子もなく、背を向けたまま歩いてゆく。その行く先は、あたしたちが野宿していたところだった。
女性を追うべきか。迷っているうちに、女性の前にミルダがあらわれた。目が覚めてあたしがいなくなったことに気づいたらしく、探し回っていたのだろう。
彼はすぐ近くにいたあたしに、まったく気づかなかった。すぐに女性に目をやり、ああと口をひらいた。
『――ターニャ』
ミルダは、女性に、そう言った。
『一人でどこかに行くなって言っただろ』
そしてさも当たり前のように、女性をつれて野宿の場所へと戻っていく。あたしにはまったく気づかない。彼女があたしであると、彼は思い込んでいるようだった。
『おい、娘』
地獣のさす『娘』があたしであることは、嫌でもわかった。口調からして、地獣は雄だ。『彼』といってもいいぐらいに存在感を放つ地獣は、呆然としているあたしを、鎌首をもたげて見下ろした。
『私についてこい』
それは命令だった。
あたしはそれに従うしかなかった。
地獣がこの山の主であることは、一目でわかった。地獣だけがこの白黒の視界の中、強く色づき、存在を鮮やかに放っているからだ。
イェピーネで会った地獣もかなり長生きだったけれど、彼はもっと長い。真っ白な鱗が金色にも見えるほどつややかな身体は太く、長さはきっとミルダの背よりも大きい。鎌首はあたしの顔とさほど変わらず、そのあごはあたしなんて軽く飲み込めそうなほど大きかった。
『お前の姿は、誰にも見えていない。あの男の目にうつるお前は、あの女だ。お前がここに残っていることなど気づくわけもない』
地獣に言われるよりも前に、あたしはこの状態に気づいていた。まず視界からして、ここがいつもいる世界でないことがわかる。
あたしは沼に引きずり込まれたとき、この山の裏の世界のようなものに落ちてしまったのかもしれない。強く自分の体を抱きしめてみても、それは頼りない空気でしかなかった。
『……あたし、死んだんですか?』
山の主が、ただの娘の問いに答えるわけがない。けれどあたしは、赤く色づいた舌の動きで、地獣が笑ったような気がした。
『私についてこい』
『……はい』
自分には、この状況から抜け出す力なんてない。あたしは、地獣に従い、後ろを歩くことしかできなかった。
そして、今に至る。