ガンジュ編 3
唇をとがらせるあたしの辛さが、彼にはよくわかるらしい。腐葉土とはいえ寝心地のあまりよくない地面に毛布を敷き、その上にあたしを寝かせてくれた。
『やさしいのは今日だけだ』
『……そうですか』
ため息をこらえきれず、あたしは『はぁ』と呟く。これからのことを考えると、すこし不安になった。ミルダもはじめから教えてくれればよかったものをと愚痴ったところで、彼のことだから『修行だ』の一言で終わらせるのだろうけど。
魔力の貯めすぎは、風邪の初期症状にも似ている。身体はだるいし、節々が痛む。頭痛に加えて、寒気、めまいと、咳が出ないのが不思議でならなかった。
それでもその症状は一晩眠るとすこしよくなり、朝になればまたミルダと山越えを始める。あいかわらず晴れない霧の中、先人たちがつくった道しるべに従い、深い深い山を一歩一歩慎重に踏み入ってゆく。
視界をさえぎる霧以外は、ハクーの山は他の山となんら変わりがなかった。地獣地獣というわりに、地獣は地面に姿を隠してしまっているので、見かける理獣の顔ぶれはいつもとかわらない。ただ、山には沼が多いらしく、ミルダに何度も足元を注意された。
青々と生い茂る木々はいつも静かにささやいていて、鳥のさえずりや獣の息遣いに、山の豊かさを感じ取ることができる。濃霧で困るのは、服が湿って重くなってしまうことと、ミルダと二人で山に閉じ込められてしまったような錯覚を覚えることだった。
『……ところでターニャ』
『なぁに?』
『ちょっと話があるんだけどさ』
ミルダがこういう話の切り出し方をするのがめずらしくて、あたしは膝の笑う脚に活を入れた。
最近、ミルダの様子がおかしかったのだ。
イェピーネの町を過ぎてから、ミルダはすこし、あたしに距離を置いているようだった。もちろん食事や魔術についての指導はいつもと変わらないけれど、心の奥底をあたしに探られないようにしている。それに気づいたあたしもあえて彼に何も言わなかったけど、野宿の最中、ふいに彼に置き去りにされてしまうのではないかと不安になることが何度もあった。
それについての話だろうか。早くなり始める鼓動を感じながら、あたしはミルダの続きの言葉を待った。
『俺たち、迷ってるみたいだ』
『……は?』
けれど彼の口をついた言葉がそれで、あたしは素っ頓狂な声をあげてしまう。
『いや。は? じゃなくて、迷ったみたい』
『だってミルダ、すすむ道は変わってないって言ったじゃない』
『言ったけど、もしかしたらあっちの道のほうが早く出れたかも』
足を止めて、ミルダは『休憩』と言った。
『迷ったっていうか、ずっと一本道だから迷うことはないんだけどさ。道が魔力でずいぶん引き伸ばされてるみたいなんだ』
昔通ったときと、明らかに山が変わっているらしい。この道をすすめばちゃんと出口になるのは確かなのだけど、必要以上の遠回りをすることになりそうなのだと彼は言った。
『道はあってるんだけど、地獣の魔力に迷い込んだというか、なんといか』
ミルダもいまいちわからないらしく、言葉が曖昧になっている。けれど彼の態度から、あたしはこの状態にそれほど緊急性がないことを悟った。
『でも、出られるんでしょ?』
『まぁな。ただ、山の様子が違うから、俺のガイドもあまりあてにならなくなってきた』
困ったな、と呟くミルダは冷静だ。額にうっすらと汗を浮かべながら、きょろきょろとあたりをみまわした。
『食料、多めに買っといて本当に良かった……』
しみじみとした彼の口調に、あたしは不謹慎にも、笑いをこらえるのに必死だった。
結局その後、すこしだけ先をすすんだあたしたちは、手ごろな場所を見つけてそこで眠ることに決めた。比較的透明度の高い沼が近くにあって、汗と泥で汚れた身体を洗うためでもあった。
『ミルダ。魚がいる』
『とるなよ』
ミルダがこの山に入る前に、あたしに口うるさく言ったことは、『山のものを食べるな』だった。魚はもちろん、木の実も取ってはいけない。もらうものは水だけ。下手に山のものに手を出して、地獣の怒りに触れないようにするためだった。