ガンジュ編 1
『――娘』
「……はい?」
声が聞こえたような気がして、あたしはつい、いつものように返事をしてしまった。
『わたしの声が聞こえるのだな』
たぶん、それがいけなかったのだと思う。
寝起きでまだ頭がぼーっとしていたのもあった。
足場がぬかるんだ沼地にいたのも悪かった。
ちゃんとブーツの紐を結んでいなかったのもだめだった。
気づけばあたしは、沼に引きずり込まれていた。
○○○
さて。
どうしてこうなったのか。
あたしは頭を落ち着かせるためにも、この森に入ったときのことを思い出さなければならない。
『この森は、気をつけろよ』
『……気をつけろって、どんなふうに?』
山のふもとの町でいつもより多めの食糧を買い、今まさに山越えをしようとしていたとき。ミルダがぽつりとそう言った。
『この山は地獣が統べていることで有名なんだけど、町の魔術師に聞いた話じゃ、最近地獣たちの様子がおかしいらしいんだ』
『おかしいって?』
『たぶん、世代交代でもあるんじゃないかな』
いつものカバンに、さらに防寒用の服をつめたカバンを背負って。あたしよりもミルダのほうが荷物が多いのはわかっているけど、自分の荷物の重さに必然的に前かがみになるあたしを見て、ミルダが腰を悪くするからやめろと言った。
『地獣たちは気位が高いから、俺らが誠意をもって接すれば何てことないんだけどな。繁殖期にあたる今は水獣ばりに警戒心が強いから、下手に機嫌を損ねると厄介なことになる』
『もし機嫌を損ねると?』
『まぁ、山の養分にされたりとかな』
気をつける。即答したあたしに、ミルダは肩をすくめた。
『というわけで、この山では単独行動は禁止な。そもそもターニャはいつもピヨピヨ俺のあとくっついてまわるから、大丈夫だとは思うけどさ』
『……人をヒヨコみたいに言わないでよ』
『冗談じゃなく、本当に。俺の視界から消えないでくれよ』
珍しく真剣なミルダの声とまなざしに、あたしはこくりとうなずいた。
ハクーの山。あたしたちが越えようとする山は、そう呼ばれているらしい。聞きなれない言葉だけど、これは東の国で白蛇をあらわす言葉を混ぜているらしくて、つまり地獣のいる山ということになる。イェピーネの森で出会った地獣と違い、ここの地獣はとても繊細でデリケートな生き物らしい。そして周囲の土地から山の神様と崇められていることから、さらに気位まで高くなったという、少々癖のある白蛇たちがたくさん住んでいる山だった。
ミルダは以前にもこの山を越えたことがあるらしいので、迷う心配はない。道もしっかりと作られているので、足場が悪くて谷に落ちることもない。
と、あたしの師匠は言っていたはずなのだけど。
『……あれ?』
山に入っていくばくもしないうちに、ミルダが足を止めて首をかしげた。
『どうしたの?』
『分かれ道がある』
それは見ればわかる。うっそうと生い茂る、地獣が統べるだけあって豊かな森。周囲の町の人々が協力して作った林道は、幅こそ広くないけれど、丸太で階段まで作ってくれて、非常に歩きやすい道だった。
その道が、途中で二手に分かれている。綺麗なYの字になったそれを見て、ミルダはしきりに首をかしげていた。
『前に俺が通ったときは、こんな道なかったんだ』
『じゃあ、新しく作られたんじゃない?』
『道を増やす必要なんてないんだ。この山は越えるためだけにあって、中に踏み入って荒らすと地獣が怒るから』
どうやら、ふもとの町では道が増えたことを教えてくれなかったらしい。ミルダはしばらくなにかぶつぶつと呟いていたけれど、考え疲れたのか、はやばやと『まぁいいや』と切り捨てた。
『進む道は変わってないんだ。行こう』
ミルダが選んだのは右の道だった。たしかに、左はまだ真新しい。彼が以前通ったのも右だというので、あたしもそれを信じてすすんだ。