ディナージャ編 40
『ああ、これ、けっこう怖いわね』
「そんな楽しそうに言わないでくださいっ!」
とうに悲鳴も尽きて、あたしは仰向けのまま、亀裂の底へと落下していく。胸の上では、地獣がとぐろを巻いている。なぜ彼女は土に戻らなかったのだろう。このまま底に叩きつけられたら、彼女も間違いなく死んでしまうのに。
死んでしまう。それはとても恐ろしいはずなのに、あたしはいたって冷静に落下を続けていた。
『あなた、こわくないの?』
「そりゃ、怖いですよ」
死ぬのは怖い。けど、亀裂の中で響き続ける轟音が気になってしかたないのだ。
最初は地獣たちが亀裂を戻すための音だと思った。けれど、もうみんなあきらめてしまったはずだ。なのに音は、やむことがない。
そしてなぜ、その音は底のほうからしてくるのだろう。あたしは身体をひねって、亀裂の底を覗き込んだ。
『地面に叩きつけられることはないわよ』
「あなたは……これに気づいてみんなを撤収させたんですね」
はぐれてしまわないよう、しっかりと地獣を腕に巻きつけ、あたしは大きく息を吸った。
亀裂の底から、水が這い上がってくる。山の中に消えたはずの、あの湖の水が、なぜかこの亀裂から噴き出そうとしている。
息を確保するので精一杯で、あたしは身構えることもできぬまま、地響きを伴う鉄砲水に飲み込まれた。
飲み込まれる直前に、叩きつけられた胸がとても痛い。顔もしたたか打ったようで、鼻が熱く、目の前が赤く血の色に染まったけど、それもまたすぐに流れにさらわれていった。
まるで滝の中にいるような、そんな強烈な水の流れだ。それにあたしたちは翻弄されながらも、一緒に地上へと押し上げられてゆく。結果オーライ。とりあえず地面には上がれそうだけど、どうやって着地をしよう。
うまくきかない視界の中、あたしは頭の隅で、また水浸しになってしまったと後悔する。また服を洗って乾かさなきゃ。乾くまで、そうとう時間がかかるに違いない。
まずは生きて戻ることが先決なのだけど。
『ターニャちゃん、手!』
手? あたしは指摘されて、反射的に手を握り締めた。
その手が、何かをつかむ。地獣ではない。地獣には毛がない。あたしはなにか、獣のしぽのようなものをつかんでしまったらしい。
激流に翻弄される首をひねって、あたしはその主を見る。そして、その背に乗せられたジュリカの姿を確認した。
あたしは必死に、その獣の背中にしがみつく。気を失ったジュリカを離さないように、誰一人としてはぐれないように、水をつかさどる獣にしっかりと腕をまわす。
その水獣からは、かすかにいつもの香りがする。こんな状況でも、それだけはしっかりとわかる。
あたしたちは水獣――ミルダにしがみついたまま、鉄砲水にのって、地上へと投げ出された。
「なんか、頭が痛いんだけど」
「――ミルダ!」
いったいいつ戻ったのか。ミルダがミルダの身体で、あたしを抱き上げていた。
遠くで、水獣の遠吠えが聞こえる。それに答えるように、ミルダもまた、声を似せて雄たけびをあげた。
「頼んだぞって言ったのに、俺の身体はほったらかしだったな。ほんとに、ターニャは目が離せない」
「悪かったわね」
顔にはりつく髪をはらい、あたしはミルダを睨む。さすがの彼も疲れていて、頬からは汗が滝のように伝っていた。
残念ながら、あたしの意識は地上に投げ出された時点で途切れていた。どうやって地面に叩きつけられずにすんだのかわからない。たぶんこの彼がなにかしたのだろうけど、なぜあたしはいつも肝心な瞬間を見逃してしまうのか。
「……ジュリカは?」
「大丈夫だ、つれてきた」
あたしはミルダにありがとうもお疲れ様も言わず、なかば突き飛ばすように彼の腕から離れた。そして一目散に、リジオさんたちのもとへかけだそうとして、腕をつかまれて制された。
「離してよ……っ」
「まずは自分の心配をしろ」
暴れるあたしを諭しながら、ミルダが手の甲であたしの顔をぬぐう。まぶた、頬、額、と乱暴にこすり、けれど鼻にはいくぶん優しかった。
「折れてはいないな……よかったな、顔が歪まなくて」
顔から離れたその手には、血がついていた。それを見て、あたしは自分の鼻の痛みに気づく。鉄砲水に叩きつけられたせいで、鼻血が出てしまったらしい。
「もうとまってるから、大丈夫だ。すこし落ち着け、ターニャ」
「そんなこと言われても……」
興奮冷めやらぬあたしの背中を、ミルダがなだめるように撫でる。どうどう、とたずなを握るように、ローブをつかんであたしが暴走しないように見張りながら、ジュリカのもとへと連れて行ってくれるようだった。