ディナージャ編 38
「……マテリオの言霊、か」
リジオさんはじっと、あたしの歌声に耳をすませて、ふぅんと呟いた。
「水はファジー。金はディナージャ。それぞれ、歌に言霊を混ぜてある」
最初、あたしはそれを知らなかった。教えてくれたのはミルダだ。ぶっきらぼうだけど、あたしが覚え違っていた歌詞はきちんと正してくれた。
「おれにはもう、マテリオの言霊を会得することはできないだろうな……」
寂しそうに、リジオさんが笑う。かすかに動く指が、あたしの歌に合わせてリズムを刻んでいる。指先に触れるのは苺の葉。そして大地。その揺れは、いまだに止まらない。
余震というべきなのか、それともまだ地震が続いているのか。大地が唸り声を上げるように、また、強く揺れだした。
思わず、あたしは歌うのをやめてしまう。歌といえども、これは魔術。続ければ地震にそれなりの効果を示すかもしれないけど、臆病者のあたしには、地震からミルダを守るために覆いかぶさることしかできない。
「……どうしよう」
茂みから、獣たちの粗い息遣いが聞こえる。みんな、苦しんでいるのだ。あたしたちから見えないところで、みんな異常化が始まっているのではないだろうか。助けてあげないと。でも、ミルダも守らないと。そもそも、この抜けた腰では動くこともできない。
「――静まりたまえ」
目から涙がこぼれそうになった。けれどそれは、やけに凛とした声に、流れ落ちることはなかった。
「静まりたまえ、静まりたまえ。我は大地を護りし者……」
リジオさんだった。
伏せられた目。ひび割れた唇。今にも気を失いそうなのに、声だけは大きく、湖に響いている。
魔術だ。すぐにわかった。リジオさんの魔術は、詠唱に似ている。語り掛ける言葉の中に、言霊をこめて、それで魔術を使っている。
「リジオさん、だめ……!」
とっさに、リジオさんの口に手をのばす。その拍子に、膝からミルダの頭が落ちた。力の抜けたその頭は、したたか地面に打ち付けられたけど、あたしはそれに気づかないふりをした。
「これ以上魔術を使っちゃだめ!」
大地が、また揺れる。錆びた鉄がきしむように、地面がきしんだ。はっと目をやれば、信じられないことに、湖の湖畔に亀裂が入っているではないか。
四方。六方。八方。最初は浅かったその亀裂も、揺れとともに深く、まるでくもの巣のように広がってゆく。このまま亀裂が広がれば、湖が陥没して、山に大きな穴があくに違いない。そうしたら、あたしたちはおろか、湖に避難してきた獣たちまで危険が及ぶことになる。
鳥たちが鳴いている。獣たちが口々に叫んでいる。子供たちはおびえ、泣いている。木々が、もうだめだと、大きくざわめいている。
だめじゃない。まだ、大丈夫。
自分に言い聞かせるためにも、声に出していいたい。でもこの森のすべてに、あたしの言葉が通じるわけでもない。
「……ごめん、ミルダ」
あたしは立ち上がり、ミルダを置いてその場を離れた。幸い、今いたところにはまだ亀裂がない。大きくひび割れ、山を裂きそうな勢いで深くなっていく、大きな亀裂はここまで届くことはないだろう。せめてそれだけでもとめられたら。
ふと見れば、湖の水はとっくに空になっていた。
ローブからかすかに薫る、緑の香。それを吸い込み、あたしは自分に勇気づける。大丈夫、あたしならやれる。これでも天才の弟子なのだから。
ミルダを守る約束だけど、森が崩れてしまっては元も子もない。だから彼のもとを去った。地震の被害を食い止めないために。
我ながらいい言い訳だ。緊張を通り越して、あたしの唇から笑いが漏れてくる。
土砂崩れのように、雪崩にも似た音を立てて、地面が崩れてゆく。あたしはそれに向かって走り、乱れそうになる息を懸命にこらえた。
あたしが使う魔術は、言霊が基本だ。まだ応用はできていない。術の大本になる声だけは、しっかりと発さなくてはならない。さっきの子守唄のように、かすれた声では意味がないのだ。
大地のために使う。だからこれは地術だ。ジュリカのお母さんである、あの優雅な白蛇が、自然と頭の中に浮かんできた。
「――ガンジュ」
大地の言霊をつむぐ。それ以外、なにもいらない。
広がり続ける亀裂の先。それが、かすかに白く光をあげる。その閃光は、術者に大きく跳ね返るのが常。あたしは目がくらんで、よろめいてしまう。
「あっ……!」
しまった。気づいたらもう遅い。
亀裂はとまった。けれど、崩れる大地は止まらなかった。
あたしは足元の土と一緒に、亀裂の中に落ちていった。