ディナージャ編 37
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「――なんでだ」
リジオさんのかすかな呟きは、かろうじてあたしの耳に届いた。
「なんでおれには会得しきれない魂移しを、ミルダはああも簡単にやってしまうんだ。やっぱり、天才は天才なのか……」
「違いますよ、リジオさん」
あたしはミルダを膝の上に寝かせながら、リジオさんに話しかけた。
「ミルダに教えてもらったんですけど、魂移しで一番危険なのは、術を使っている最中に自分の身体が傷ついてしまうことなんですよね」
もしその間に、命を狙われたとしても、本体は逃げることもできずされるがままになってしまう。もし身体が何らかの異変を起こしたとしても、抜け出た魂はそれに気づくことができず、そのまま身体が事切れてしまうことがある。
魂が抜け出ている最中に死んでしまった魔術師はどうなるのか。そのまま永遠にさまよい続けるか、あるいは悪魔に食い殺されてしまうか。事実はわからないけど、よいことではないのは決まっている。
だから魂移しで魔術師が一番恐れるのは、無防備になった自分の身体に危険が及ぶことだった。
「決して誰も立ち入ることのない部屋を選んで、そこで術を使う人もいるけど、万一何かあったときは誰もそばにいないんですよね。魔術師はそれが怖くて、なかなか完全に魂を移すことができないらしいです」
リジオさんのは、金の苺による無茶もあるけれど、自分の本体に対する不安などがぬぐいきれず、あやふやなまま鳥や獣の中にいることが多い。そうすると魔術師本人にも、獣側にも、大きな負担がかかる。
「いちおう口はああでも、ミルダは魂移しのとき、あたしに信頼して身体を預けてくれます。だからあたしは全力でこの身体を守るし、ミルダもあたしを信じているから魂を移すことができるんです」
「……結局は、仲間が必要な術なのか?」
「もちろん一人でできる人だってたくさんいますよ。ミルダはきっと臆病なんです。ミルダ一人で魂移しをうするときは、なるべく自分の体から離れすぎないように気をつけてるし……」
はじめはミルダも、あたしに身体を任せることですら不安だったのだ。けれど何度か術を使う機会があったり、あたしの魔術の腕が上がったりして、ミルダのあたしに対する評価も多少なりあがっているのだ。
「リジオさんは、どうして、魂移しの練習をしてるんですか?」
「それは……」
あたしの質問に、リジオさんは口ごもる。限りなく土気色に近いその頬が、わずかに色めいたのをあたしは見逃さなかった。
「やっぱり、ジュリカのため?」
「……というよりか、自分のためだな」
いくぶん落ち着いてきた呼吸で、リジオさんはため息をつく。彼はそれ以上語らなかったし、あたしも何も言わなかった。
もぬけのからになったミルダの顔を、ぼんやりと見下ろす。傷や泥がついているけど、やっぱりその顔立ちは綺麗だ。閉じられたまぶたは白く、まつげは長い。どこか、金獣に似たものを感じてしまうのは、やはりその髪が金髪だからだろうか。
「……歌わないのか?」
「え?」
「さっき、ミルダが、子守唄を歌えって言ってただろ。まだ揺れも続いているし、歌ったほうがいいんじゃないか?」
口ぶりはそうだけど、どうやらリジオさんのリクエストのようだ。あたしは何度か咳払いをして、からからに渇いたのどをつばで湿らせた。
「リジオさんは、言霊の練習歌って知ってました?」
「ターニャが歌うのは、知らない。けど、おれもおれで術を身につけるとき、練習したのはあるよ」
それぞれの地方で、魔術の使い方は微妙に違う。どうやって基礎の言霊を身につけるのかだって、違う。あたしの弟のコードだって、お母さんの魔術書で身につけた。あたしはどちらかというと、ミルダに教えてもらったもののほうが多い。
あたしは幼いころから、子守唄だと思っていた言霊の歌を、そっと舌の上に乗せた。
やはり、地震に対する恐怖があるのだろう。あたしの心は恐怖が勝り、声も小さくかすれてしまう。
それでも、ミルダは守らなければ。彼は今、ジュリカを追って、湖に飛び込んだ。その彼が無事に帰れたとしても、戻る身体が無事でなければ意味はない。