ディナージャ編 36
「ターニャ」
「なに?」
「金獣の金を持ってないか?」
どうして、ミルダは何もかも見通した顔で、ズバリあたしの持っているものを当ててくるのだろう。ローブのポケットから、あたしはジュリカからもらった櫛を取り出した。
魂移しには、たくさんの魔力を使う。だからミルダは、金獣の金から魔力を借りることにした。その櫛の細工に驚いて、もったいないと眉をひそめたけれど、かぶりをふってそ
れをつかう決意をした。
「俺が戻るまで、ターニャ、子守唄を歌っていてくれ」
「子守唄?」
あれだけ魔力を温存しろと言っていたはずなのに、なぜ今になって子守唄――言霊の練習歌なのか。指定さえあれば、あたしはその魔術を使うことだってできるし、やり方さえわかればリジオさんの手当てだってできるのに。
「異常化したのは、もしかしたら、ジュリカだけじゃないかもしれない。俺がいない間、子守唄を歌っているのが、一番いい防御だ」
かさぶたになりかけた傷口を爪でえぐり、ミルダはその血で、自分の手のひらに文様を書く。それは魂移しで使う、魔方陣、といえばいいだろうか。
「頼んだぞ、ターニャ」
「わかった」
しっかりとうなずいたあたしににこりと微笑んで、ミルダはリジオさんを見た。
「頼むから、もうこれ以上苺を使わないでくれ。ジュリカが戻ってきたときに、リジオが死んでたら悲しむ」
あと、と、ミルダは息も絶え絶えなリジオさんに続ける。リジオさんも何とか、意識だけは保って話を聞いていた。
「魂移しは、なるべくふたりでやったほうがいいんだ。あるいは、必ず安全だと思える場所でやる。俺も、ターニャに会う前は苦手だったんだよ、この術」
ミルダが、あたしの両頬に手をそえる。そして、額をあわせる。ミルダの吐息が顔にかかって、緑の香りがした。
あたしの呼吸に、ミルダがあわせる。吸って、吐いて、吸って。かすかに、彼は震えていた。
誰だって怖いのだ。自分の体を手放して、誰かのもとへ行くことは。
「ターニャ……頼んだぞ」
すとんと、眠りに落ちたように、ミルダは意識を失った。
そのまま、あたしにたおれこむ。それをあたしは黙って抱きしめる。
今、ミルダは行った。もう彼はここにはいない。この無力な身体を守るのは、あたししかいない。
あたしは、そっとミルダの肩に頬を寄せた。やはりミルダは、緑の香りがする。香水じゃなくて、肌の香りだ。あたしが借りているローブも、そろそろこの香りが薄れてきている。
彼の呼吸は、あたしと同じリズムを刻んでいる。乱れもなく、ただたんたんと、眠っているようにミルダはあたしに身体をゆだねている。
森の奥から、遠吠えが聞こえる。
この声は、やはり、水獣だろう。あたしが茂みに目をやると、先ほどリジオさんが乗り移ったのよりも年をとった、けれど度胸の据わった大きな水獣が、力強く大地を蹴って飛び出してくるところだった。
湖に飛び込む寸前、水獣は確かにあたしを見た。そして、かすかにうなずいた。ミルダなのはわかっている。だからあたしはもう一度うなずいてみせる。
水しぶきもなく、水獣――ミルダは湖に入水する。そして怖気づきもせず、渦へと泳いでいく。
その姿が見えなくなるのに、さほど時間はかからなかった。