ディナージャ編 35
いや、錯乱しているのではない。リジオさんは苺を食べていた。これ以上食べたら本当に危ないとミルダに注意されていたはずなのに、葉も何も一緒くたにして、唇から血やら唾液やら苺の汁やらを垂れ流してろくに咀嚼もせず飲み込んでいた。
「やめろ、リジオ!」
それをとめるのはもちろんミルダだ。彼の両腕をつかみ、リジオさんに容赦なく膝蹴りを食らわせた。
見事みぞおちに入ったミルダの膝は、リジオさんの口から多少の苺と茎と葉と、胃液と涙を吐き出させた。ろくに構えもできずされるがままに衝撃を受けた彼は、身を折ってくぐもりながらも、はいつくばって苺を食べようとしていた。
「……魂移しを、するんだ」
かすかに、彼はそう呟いた。
「あの渦には、理獣なら入れる。だから理獣の身体を借りて、渦に入って、ジュリカを助ける」
そのためには魔力が必要だ。ただでさえリジオさんは魔力を消耗してしまっている。だからそれを補い、かつ魂移しのための力を手に入れるために、苺を食べている。
けれどそんなに食べては、本当に、苺の副作用で身体が壊れてしまう。
現にリジオさんの身体は、かなりの苦痛を受けているはずだった。傷から流れ出す血は先ほどよりも大量の金が混じり、目から流れる涙は溶かした金のようだった。彼の口からはうめき声が漏れ、それは胃よりもさらにおくの、背骨の奥から漏れているように、低くて苦しげな声だった。
「この、馬鹿!」
ミルダが、肩に手をかける。でも遅い。リジオさんの身体は突然動きを止め、そのまま地面に突っ伏した。
「リジオさん……!」
あたしが抱き起こした身体は、初めて出会ったときのように、一切の力が抜けていて、まるで死んでいるようだった。
今、リジオさんの魂はここにはない。それにしても顔色が非常に悪い。何かもうひとつ悪いことが重なれば、彼は間違いなく死んでしまう。そう思わせるぐらい、危険な香りを漂わせている。
ややあって、森の茂みから、一匹の若い水獣が飛び出してきた。それがリジオさんであることは間違いなく、水獣もまた苦しそうにあえぎながら、湖に向かって走っていた。
「……なんて無茶をしやがる」
ミルダが小さく舌打ちをした。
あたしには、魂移しのくわしいやりかたはわからない。でも、リジオさんのやり方はあたしの知っているものとはまったく違っていた。これは『間違ったやり方』だ。だから魔術師にも、身体を提供する理獣にも悪影響が及ぶ。
口から舌とよだれをたらし、駆け抜ける、というにはあまりにも不器用な走り方で、水獣――リジオさんは湖へと向かう。
そして重い身体を引きずり湖に飛び込み、今まさに息を吸ってもぐろうというところで、動きが止まった。
「……う、うぅ」
あたしの腕の中で、リジオさんが声をあげた。目じりを、金の涙が流れる。魂移しの最中の魔術師は、絶対に動いたりしない。湖に飛び込んだはずの水獣はあっという間に陸に上がり、先ほどとは比にならないくらい軽い身のこなしで森の中に戻っていった。
つまり今、リジオさんは、水獣の抵抗に遭って魂をはじきだされたのだ。
魂移しは失敗した。
げほ、ごほと咳き込むつばにまで、金が混じっている。しばし意識を混濁させ、開いた瞳孔が収縮したと同時に、リジオさんは勢いよく起き上がった。
「そんな……!」
わなわなと震える両手を、食い入るように見つめている。今確かに自分は水獣だったはずなのに、なぜまた、人間に戻ってしまっているのか。リジオさんは混乱していた。
「リジオの魂移しは危険すぎる」
ミルダが、そう冷たく言い放った。
明らかに疲労困憊のリジオさんの身体を、ミルダは乱暴にあたしから引き離す。それだけでリジオさんは地面に這い蹲る形になり、ただ瞳はしっかりあたしたちを見つめていた、
「俺が行く」
「ミルダ……」
座り込むあたしの前に、ミルダはどかりと胡坐をかいた。リジオさんが何か言いたげだけど、もう身体が動いてくれないようだ。このままではリジオさんも危険。けれどそれほどまでにして彼が助けたいと思ったジュリカを、あたしたちはなんとしてでも救出しなければならない。