ディナージャ編 34
「おい、ジュリカ!」
ミルダがはじめて、ジュリカの名前を呼んだ。それにも彼女は応じない。気づかないのだ。何かに気をとられて、顔を両手で覆って、なにかから逃げるようにこけつまろびつ走っている。
ミルダが術をかけるのが、一歩遅かった。ジュリカはそのまま、飛び込んだのだ。
「ジュリカ……!」
何よりあわてたのはリジオさんだった。咄嗟に息を吸って、言霊を唱えようとする。けれどそれも間に合わず、ジュリカは湖に落ちた。
その途中、岩肌に頭をぶつけたのをあたしは見逃さなかった。湖に落ちた身体はもがきながらも泳ごうとせず、みるみるうちに沈んでいく。
気のせいだろうか。あたしは目を凝らして、ジュリカを見る。その間に、リジオさんが飛び込んでジュリカを追いかけてゆく。
ジュリカの身体は、運悪く渦に巻き込まれてしまった。そうしたら最後、自力では逃げられない。あたしも救助に続こうとしたのをとめたのはもちろんミルダで、彼は両腕を湖に伸ばし、水面ギリギリで指をうごめかしながら言霊を唱えている。
水術だ。それはわかる。ミルダの唇が動くたびに、渦の勢いが緩やかになっていくから。けれどミルダにですら渦をとめることはできなくて、リジオさんとジュリカの差はどんどん開くばかり。
ばちり、ばちりと、ミルダの指先から火花があがる。それは術を使っている証拠。この火花の名残こそ、魔術師の手にしみついた黒い痣なのだ。
「ミルダ、ジュリカが――!」
「わかってる」
湖の中、あたしはたしかに、ジュリカの身体に異変が起きていることに気づいていた。
彼女が手で覆っていた、顔。その美しい顔が、炎に包まれていた。その炎は水に触れているはずなのに消える気配もなく、じわりじわりとジュリカの身体を包もうとしている。
ジュリカは、炎を消そうとして、わざと湖に飛び込んだのだ。けれど炎は消えない。それはその炎が、あたしたちがマッチでつけるようなものではなく、ジュリカ――理獣自らの身体に異変が起きて発火したためだったのだ。
金は、火の熱で溶けてしまう。だから、火に弱い。金獣であるジュリカが弱り、炎があがったのだ。
すでに彼女の身体は抵抗をやめ、されるがままに渦の流れに飲まれていた。そしてリジオさんは、あれだけ必死に泳いでいるというのに、まったくジュリカに近づけていない。むしろ、引き離されてゆく。
ごうごうと唸りをあげる渦。それにおびえ、ざわめく獣たち、森。揺れ続ける大地。この山は今、悲鳴を上げている。
「ミルダ、ジュリカが!」
「……くそ」
あたしはどうすることもできずに、ジュリカが渦の中に消えていくのを見ているしかなかった。
リジオさんが水上に顔をあげたのは、それからすぐのことだった。
「渦にはじかれた……!」
あたしたちの手を借りて湖からあがったリジオさんは、身も心もつかれきったという様子で、息を荒げながらそう言った。
「あの渦には、魔力がある。きっと、理獣しか行けないんだ。人間が渦に入ろうとしたら、はじかれて、あっという間に岸についてる」
「山が魔力を求めてるのか……」
地震によって大地を崩された山が、再び力を取り戻そうと、魔力の高い理獣たちを飲み込もうとしている。だから他の理獣たちは、安全であるはずの湖から逃げているのだ。湖の底には大きな亀裂があり、それは山の奥へとつながっている。渦を起こして理獣を巻き込み、山の中に取り込み、力を復活させようとしている。
「……そんなの、ひどいよ」
「理獣も、もとは山から……この大地から生まれたんだ。生まれようが、元に戻されようが、同じなのかもしれない」
「でも……!」
なんとか、ジュリカを助ける方法はないのか。このままでは彼女は、この山の一部に戻ってしまう。こんなとき知恵を貸してくれるはずの地獣の姿が、湖にきてから、まったく見えない。
まさかもうすでに吸収されてしまったのではないだろうか。分けもわからず土を掘り返そうとするあたしは、完璧にパニックに陥っていた。
それよりも錯乱を起こしてしまっているのはリジオさんで、彼は喉の奥から雄叫びのような声を上げ、一心不乱に苺の葉をむしりとっていた。