ファジー編 5
声ですら、どんなだったかわからない。かろうじて覚えているのは、抱きしめてくれる柔らかな腕と、いつも歌ってくれた子守唄の歌詞と音――声までは覚えていなかった。
「コードは、お母さんのこと覚えてるみたい」
「うらやましい?」
「……うん」
すっかり寝入ってしまったお父さんに、あたしは準備していた毛布をかけ、コップに水をそそいでおく。いつもこうやっておくと夜中に目が覚めて、水を飲んでから自分でベッドまで戻るのだ。
「母親……か」
ミルダのお母さんは、どんな人なのだろう。
あたしはそう訊こうとして、やめた。通りすがりの旅人に、そこまで深く関わることはない。情がうつると、旅立つ時に泣いてしまうかもしれなかった。
「お母さんの名前は?」
「アネット」
お母さんが生きていたころには、名前ですらわからないほど幼かった。成長して、お父さんからお母さんとの思い出話を聞いて、その時に名前や誕生日や、好きな花の香水を教えてもらっていた。
「お母さんは魔術師だったんだって。コードはお母さんの形見の資料を読んで、魔術を勉強してるみたい」
「ずいぶん頑張ってるみたいだ。手が荒れてた」
魔術師が術を使うとき、一番使うのはやはり手だ。だから手は術の影響を一番受けやすく、それが染み付いて痣となることが多い。
「そういえばミルダは、綺麗な手だよね」
「爪は真っ黒だけどな」
爪だけが黒いのは、最初に見たときに気づいていた。ただ、それがお洒落なのか魔術によるものなのかがわからなかっただけだ。
昔の偉大なる魔術師の肖像画は、みんな手の痣が重なりに重なって、手袋をしたように真っ黒な手をしている。魔術師の手が黒く染まるのはたくさんの術を使った証拠だし、恥じるべきものではない。
そう考えると、ミルダの手は綺麗すぎる。本当にすごい魔術師なのだろうか。
「俺はあまり、術で手を使わないんだ」
あたしのその考えも見透かしたらしい。ミルダは肩をすくめて、一歩近づいてきた。
「俺は言霊専門。言霊を使うと術が喉に染み付くから喉が黒くなるんだ。魔術師も、手の術を極めれば息だけで十分になるんだぜ?」
「それって……自慢?」
「まぁな――ほら、見てみろよ、喉の奥真っ黒だから」
そういって、彼はあたしの顔の前で大きく口を開く。もともと部屋の中がランプの光だけっていうのもあったけど、たしかに彼の喉の奥は明かりを消したように暗かった。
「……ミルダ、お酒臭いよ?」
「バレた?」
どうやら、お父さんのミュラ酒をすこし拝借したらしい。心なしか頬を赤くさせて、ミルダはふと顔から表情を消した。
「ミル、ダ?」
そしてあたしは、喉を見るためといえ、彼と至近距離にいたことに気づく。お酒臭いのがわかるほど、つまり吐息がかかるほど近くに、ミルダの真剣な顔があった。
身長差もあって、どうしても唇に目がいってしまう。あたしからそらさない彼の視線が気になって、動揺を隠せなかった。
「あの、ミルダ……?」
一度そらして、また目を見る。離れればいいのはわかってるけど、身体がそれを望まなかった。
「――ターニャ」
肩に手をのせられて、大げさに驚いてしまう。身をかがめて視線をあわせてくるミルダに、嫌でも胸が高鳴った。
「ターニャ」
「な、何?」
ニキビの痕ですらない、本当に綺麗な顔が近づけられる。鼻先にまたお酒の息がかかって、あたしは無意識に身体をこわばらせた。
「あー、って言って」
「は?」
「あ、今のでもいい。ちょっとさ、あーって言ってよ」
「えっ」
「えじゃダメ。あーって」
ミルダに圧されて、あたしは弱弱しく「あー」と呟く。かすかに開かれたその唇に、ミルダが下から覗き込むように顔を近づけた。
「……やっぱりな」
「何が?」
身体を離されて、あたしはようやく肩の力が抜ける。安心しての脱力なんだけど、そこに残念という気持ちがないといいきることはできない。
「ターニャ、魔術師だろう?」