ディナージャ編 20
「ジュリカ、大丈夫? 寒くない?」
たずねれば、彼女は首をふる。あたしたちの言葉を理解してはいるけど、その唇から言葉がつむがれることはない。
「昼間は、どうもありがとう。もう少しでおぼれるところだった」
どういたしまして。彼女の笑顔が、そう答える。近くになっている金の苺をつまむ彼女の唇は、苺がついて赤くなっていた。
「すごく綺麗な湖だね。本当に、綺麗」
足で波をおこせば、月の形が崩れて、淡い光が広がっていく。あたしの真似をして、ジュリカも足を動かした。
こちらの言葉を理解しているとはいえ、どうしてもあたしの一方的な問いにばかりなってしまう。少しばかり気まずくて、あたしは視線を湖に投げてばかりだった。
ぷちりぷちりと苺をもいでは、ジュリカはそれを口に入れていく。苺の毒を知っているのだろう、あたしにすすめようとはしない。あごについた赤い汁を指でぬぐってあげると、彼女はまた、笑った。
その笑顔と苺の甘い香りに、あたしは頭がくらくらしてしまう。彼女の魅力に負けそうで、これではリジオさんが恋してしまうのもうなずけた。
「あの、ジュリカ……」
リジオさんのことでも訊いてみようかな。そう思ってあたしが身を乗り出すと、彼女は口に手をそえて、大きな咳をした。
その咳は発作のように激しくなり、ジュリカは身を折って苦しげな咳を繰り返す。あたしは突然のことにうろたえて、彼女の丸い背中をあわてえてこすった。
「大丈夫? のどにつまったの?」
その咳は、まるで何かがひっかかったようだった。息が止まってしまったらどうしようと、あたしは内心、パニックを起こす。金獣に使う術は水術だけど、これは普通の治療術を使ったほうがいいのだろうか。意見を仰ぐ師匠は、たぶん今頃お酒に呑まれてべろんべろんになっているはずだ。
「どうしよう……ジュリカ、大丈夫?」
顔を覗き込むと、彼女は以外にも平然としていた。そしてうろたえるあたしを見て、大丈夫だと首をふったのだ。
「大丈夫、なの?」
問いかければ、こくりとうなずく。そして口元に添えた手を湖にくぐらせたかと思うと、あたしの目の前に、ひとかけらの金を差し出して見せた。
月の光だけでは十分に視力がはたらかないけど、それでもこれが、純金だとわかる。石ころのように表面がでこぼこして、輝きは薄いけど、磨けば光ることは明らかだった。
「これ、ジュリカが?」
『金獣は金を生むことができるの』
「――え?」
突然声がして、あたしはジュリカの顔を見る。けれど彼女は口を一切動かしていないし、声は彼女ではなくあたしの後ろからした。
耳への響き方が、ミルダの使った術に似ている。でもこの声はたしかに女性のもので、ジュリカのように若い娘よりも、すこし年を召した女性のようにひび割れていた。
『あなたが魔術師のお嬢さんね』
「そうだけど……」
声は後ろから、そして下から聞こえる。あたりをみまわしても人も誰もいないし、ジュリカはいぜん、唇を閉ざしたままだ。
『昼間、私におじぎしたのは、あなたね?』
「昼間?」
声の出所がわからなくて、しきりに周囲をうかがう。まさか湖がしゃべっているのだろうか、と凝視してみたけど、あいかわらず水面は静かなままだ。
謎の声に戸惑っているあたしの肩を、ジュリカが叩く。そしてその長い指で、地面を指差してみた。
「まさか、地面の下とか?」
『そのとおり』
声とともに、地面から蛇の頭があらわれて、あたしは思わず悲鳴を上げてしまった。
『可愛い声ね。うらやましいわ』
地面から這い出してくるその白い蛇は、あたしの腕を伝って、顔を近づけてくる。ローブ越しにもその陶器のような身体のつややかさが伝わり、あたしはすぐにそれが何なのか気づいた。
「ごめんなさい、びっくりして」
『いいのよ別に。驚かせてしまってごめんなさいね』
この姿に、人の声。地獣に間違いない。あの高貴な地獣を前にして悲鳴を上げるなんて、あたしはなんて無礼な真似をしてしまったのだろう。
「本当に、ごめんなさい」
『いいのいいの。驚かせるのは私の趣味みたいなものだから』
声から察するに、雌だ。身体はとても長くて、あたしの腕に絡みついてもなお、あまった尾が地面にとぐろを巻いていた。