ディナージャ編 15
「どうして……?」
呟くあたしに、彼女は首を傾げてみせた。
人の姿をしていると、どうしても彼、彼女と呼びたくなってしまう。あたしより年上の、妙齢の女性の金獣。卵形の顔にある、目じりのたれた優しい瞳が印象的で、浮かべた笑顔に癒されてしまう。
彼女は男性の金獣と違い、銀色の髪をしている。長さはなく、うなじにかかる程度だけど、頭を動かすたびに金粉が舞い落ちる。瞳はやっぱり赤銅色で、白目がほとんどなくて、そこがあたしたち人間との大きな違いだった。逆にいえば、そういう点でしか見抜けないほど、金獣は人間に酷似していた。
「もしかして、あなたがジュリカ?」
腕に抱かれたまま尋ねてみると、彼女は首を縦にふった。金獣は人の言葉まで操れない。でも、こちらの言葉はわかるようだ。
「そっか。じゃあやっぱりリジオさんは……」
言おうとしたら、足音が聞こえてきて、あたしは言葉を切る。まだ足は湖に入ったままで、上半身は彼女に抱かれている。穏やかな空気を伝わる音から、二人、こちらに向かってきているのがわかる。足取りはゆっくりで、なにやら楽しそうに話している。
「……ターニャ?」
そしてあたしの姿を見るなり、その長い脚で、あわてたように駆け寄ってきた。
「お前、どうしたんだこの格好」
ミルダだった。
「なにがあった?」
訊かれるけど、正直答えたくない。金獣に投げ込まれたとはいえ、湖に落ちたなんて言ったら、彼のことだ、どんくさいだのなんだの言うに違いない。あたしは無言で、ジュリカの胸に顔をうずめた。
「どこか怪我したのか?」
それを強引にひっぺがして、ミルダはあたしの顔にはりついた髪を払う。毛先やあごからはいまだに水滴が落ち、水を吸った服服が重い。彼から借りている魔術の本が入ったカバンも水浸しだと思うと、申し訳なくて目を見れなかった。
「湖に落ちたんだな? 溺れたのか? ちゃんと息できるか?」
抱きかかえられて、湖から離される。ようやく足も湖から出て、ミルダの声を聞いて、あたしはいまさらながら、湖での恐怖を思い出す。涙が出て、それを彼がぬぐった。
「大丈夫だ、ミルダ。きっと金獣にからかわれたんだろ」
怪我や異常がないか確かめるミルダに、リジオさんがのんきな声をかけきた。大丈夫かターニャ、驚いたろ。言うわりに、ポケットに手をつっこんで、平然と見下ろしてくる。
「おれも最初やられたんだ、それ。金獣たち、いろんなものにちょっかい出すからな。あそこで寝てる熊だって、放り込まれたことあるんだぜ」
リジオさんの顔つきが、最初あったころと変わっている。やっぱりあれは演技だったのだろう、童顔だけど、けだるそうに立つ姿に、なんというか、貫禄があった。
「いちおう金獣も人工呼吸とか知ってるから、死んだやつはまだいない。お師匠さん、弟子は他に何もされてないって」
心配すんな。そう、リジオさんが笑う。それにほっと安堵の息をついたのはミルダで、ずぶぬれのあたしの姿を見て、あーあとため息をついた。
「お前ひどい格好してるぞ」
「……わかってる」
「着替えも全部水浸しだな」
「……ごめん、なさい」
「立てるか?」
腕を引かれて立ち上がると、ローブにたまっていた水が落ちた。あちこちから水がしたたって気持ち悪い。いっそまた湖に飛び込もうかと思ったけど、やめた。
「あの、ミルダ……」
湖の中でのことを、言わなければ。そう思って口を開けば、ミルダはあたしを無視し、ぴたりと動きをとめて一点を見つめていた。
唇が、声を出さずに、動く。うそだ、と、呟いたのが、横顔でもわかった。
「よぅ、ジュリカ」
リジオさんが、ジュリカのもとへ行く。ジュリカも立ち上がって、リジオさんに笑いかける。それだけで二人が、とても仲のよいことがわかる。
ミルダはただ呆然と、ジュリカのことを見ていた。やはり彼も、女性の金獣をみたことがなかったのだろう。食い入るように見つめ、緑の香を強く薫らせた。
ミルダとあたしの視線に気づいて、二人がこちらを見る。ジュリカが、満面の笑みを見せる。
「金獣の、ジュリカだ」
指で眼鏡を上げながら、リジオさんは、はにかんだ笑みを見せた。