ディナージャ編 10
『怒ってるだろうけど、そこはちょっと我慢してくれ』
謝罪も何もありゃしない。あたしが眉間にしわを寄せるにかまわず、ミルダの声は一方的に話し続ける。
『この森、なんか変だ』
声が聞こえるたびに、この森とは違う、ミルダのもつ緑の香が薫る。身体がすっと冷えるような、ハーブの香りが、彼がすぐ近くにいるような錯覚を与える。
その香につられてあたりに視線をめぐらせれば、あたしも怒りで気づかなかったその異変に、ようやく気づくことができた。
『生き物がいない』
いない。本当に、植物以外の生物の気配が、あたしのまわりにない。
「どうして……?」
『それがいいことか悪いことか、俺にはまだ判断できない。だからターニャ、ちょっと調べてみてほしい』
いいか、と続ける声に、あたしは呼びかけるけれど、返事がくることはない。あくまでも一方的。
それもそう、これは魔術だ。
何らかの事情でおおっぴらに会話ができないとき、ミルダは言葉をこめたものをあたしに渡してくることがあった。それはカバンだったりローブだったり、はたまたそこらへんの小石だったり。時にはおやつのビスケットだったこともある。
その術のかけかたを、あたしは知らなかった。ミルダは呼気だけで術をかけられる魔術師だから、術をあばくことのほうが難しいのだ。
いつもこうしてかけていたのだろうか。それとも今回はカモフラージュだったのか。
『……この術のかけかたは今度教えるから。聞け』
彼はそれを予測していたのだろう。注意が実にタイミング良い。それで脱線した思考を戻され、あたしは術のかかった耳に手をあてた。
『この町に金獣がいるのはもうわかってるだろ。たぶんこれにはその金獣が関係してる。なぜかは……実際に見ればわかると思うから、言わない』
あれしろ、これしろと言うわりに、妙にはぐらかす。これも修行の一環だから、と言いたいのだろう。ここらへん、ミルダは放任だ。
『水のあるところを探してくれ。金の苺は水をつくる。苺があれば他のものもある。頼むぞ』
「水……?」
それっきり、ミルダの声が消える。緑の香はまだ残っているけど、もう術が消えてしまったのだろうか。あたしは一方的な指示に従うべく、水辺を探そうとして、進むべき道があやふやなことに気づいた。
森に入ったときから、流れる空気で、近くに泉が何かがあるのはわかっていた。けれど、今こうして神経を研ぎ澄ませて探してみれば、四方八方から水の気配を感じてしまう。
その気配すべてが本物であるはずはない。おそらくそのほとんどが、この木々に反響してできた紛い物の気配だ。もし間違ったところに行けば、あてもない水を求めて森の深くに入ってしまうだろう。
神経を集中させすぎると、帰り道がわからなくなりそうで、あたしはにわかに不安を感じはじめた。
「水って言われたって……」
『――わかんないか?』
「わかんないわよ」
彼は、どれほど先読みして術をかけたのだろう。まるですぐそこにいるようで思わず声をかけてしまうけど、やっぱり、返事はない。
『水のあるところは、それに深く関係した魔獣がいるだろ。そしてお前は、けっこう前になるけど、その魔獣の影響を強く受けたことがある。だからきっと……』
「水獣を探せって?」
『ご名答』
タイミングのよさに、あたしは渋面をつくる。関心を通り越して、この先読みに苛立ちを覚えた。
『目を閉じて、あのときのことを思い出しながら歩いてみろ。そうしたらきっと行けるから』
「目を閉じて歩くの!?」
『もし変なところに行ったら……まぁ、行き倒れる前には見つけてやるから。とりあえず頑張れ』
「行き倒れって、ちょっと、ミルダ!」
呼んでも、返事はない。ないどころか、香りまで薄れていく。これで完璧に術が終わったとわかり、あたしはやり場のない思いを地面に向けた。
「中途半端なアドバイスしないでよ!」
足型がくっきりつくほどに、強く足を踏みおろす。教え方がアバウトすぎだ。
でも、やりかたがわからない以上、あたしはそれを実行するしかなかった。
あの術にこめた言葉は、わずか短時間で考えたのだろうか。それとも、リジオさんと話している最中にもう作り上げていたのだろうか。わからないけど、あれほど自然に話しているような術をかけるのは、そう簡単なことではないと思う。
あたし自身、ここまで先を読んでいたこと自体すごいと思うし、中途半端でもしかたないと思ってはいるのだ。
……わざとじゃないのなら。